日语文学作品赏析《地方文化運動報告 尾道市図書館より》
暗澹たる想い、というのはその時の私のいつわらざる心持であった。どこから、この尾道の一角に手をかけて行くべきであろうか。私のこころは暗かった。
或る日、書庫の整理に書塵に白くなっていた時、一人の青年が黙々と長身を利して、高い書架の本を降ろしているのを発見した。
「君は誰だ」「広島高等学校のものです。本がすきだから手伝っているんです」と言った。私は彼をして働くままにまかせていた。幾日かの中に、彼が絵を描くことも判って来た。
「先生絵をもって来ましょうか」「うん、もって来い」彼は素人油絵を青年らしい率直な誇をもって持って来た。
「これを館長室にかけろ」実は書庫のボロ本を整理して、一つの部屋を作って、私達がそこを館長室と名を付けたばかりなところである。未だ明治時代のアセチレンのガス燈の管が十字架を逆さにした型で下っているこの部屋の壁に、彼はこの絵をかけたのである。私はこの稚拙な、しかし清純な絵を見ているうちに、何か胸たぎる想いが湧いて来た。
「ここに一人の青年が結集している。ここにすでに最小単位の文化運動が始まっている。」
私は「ようし」と腹の底で呻ったのである。治安維持法は、十月四日に断ちきられた。私は、三日後、十月七日、そのスタートを切った。
日曜日の朝九時(学生を対象とする)、水曜日の午後二時(一般婦人を対象とする)の二つの講演会、金曜日の午後一時よりの座談会を計画して実行に移した。人事と本の年間予算が二千八百円、私の年棒がタッタ百円の館では講師の経費は勿論出っこないから、終始独演ということになる。しかし、悲しい哉、聴衆はいつでも五人、十人である。三人位の聴衆に大きな声でやるのは淋しいというより実際悲しかった。例の広高生の槇田と、私の講義は出来る限り聴衆となろうとする七十七歳の私の母のほかは、外来聴衆はただ一人という時は、母の方が可哀そうに私を見ているらしいのには閉口した。しかし、むしろヒロイックになって、その時の私の講義の出来栄えは、自分でも相当満足すべきものと思うものがあった。
館の横には太陽館という映画館がある。私の最も対象とした、帰還軍人、特攻クズレは白いマフラを巻いて群をなしてうろついている。それだのに私の講演は、閑古鳥が鳴きつづけた。その寒むざむとした思いは、今思い出しても腹の冷えるような思いであった。
市は私の図書館に電気を仲々つけてくれなかった。ついに私は十二月二十八日思い切ってポケットマネーで電気をつけ、早速希望音楽会を開いた。チャイコフスキーの「悲愴」とベートーベンの「第九」という、敗戦の年の暮を一層重く苦しくするものを敢えて選んだ。百名の青年男女が、ガラス窓の破れてソヨソヨ風の吹き透す会場で、皆外套襟巻すがたで聞き入った。第九の合唱がはじまるまで、人々は壊えはてし国の悲しさが、この部屋に凝集するかのような思いであった。そのかわり、「第九」の合唱となり「ああ、友よ」と遠い敗れ去ったドイツから、二百年の彼方シルレル、ベートーベンから呼びかけられたとき。皆、深く、頭をうなだれて、眼に涙をうかべさえしたものもあった。私も一生、あの時の如く「第九シンフォニー」を激情をもって聴いたことも、また聴くこともあるまい。私は会が終って、感動の激情を聴衆に伝えずにはいられなかった。
これが一つのエポックとなって、日曜日の午後三時から毎週、「希望音楽会」をつづけたのであった。絵の展覧会も、座談会がきっかけで書庫の前に二十点ばかりを常置した。街に出す展覧会の広告が、また、その頃では街に咲く一つの華ともなり、「平和が来たんだぞ」という一つの呼びかけともなったのであった。ボロボロの図書館は、かくして、ボロのフォードが身震いして走り出したように、ついに動きはじめたのであった。これはまた、青年達を、一種の好奇の眼をもって、周りにひきつける役割を果たしたのである。「あっあのボロ車が?」と。
特攻隊の神風隊の大尉であるまたは復員の陸軍少尉殿である青年達は、この図書館で、丁稚達を教育しようと考えついた。そして教師陣を編成した。私もその一人に加わった。文化史、社会学、哲学、経済史、簿記、法律学、歴史学、英語、独逸語等を三時間ずつ毎夜授講することにした。炭がもらえない冬の図書館の夜は殺人的だった。ついに七人位の超熱心な男女の青年が聴講に残っただけだったが、この人数より多い教師陣こそ悲愴だった。この七、八人を失わないためにまた一人でも弟子を増そうとして猛烈な勉強もしたし、また文化運動の酷薄な困難さと戦いはじめたのであった。それはニューギニヤやアリューシャンで闘うときのつらさとは違った厄介さをもって、青年幹部達を訓練の中に投げ込んだ。一月、二月、三月、見るもいたましい痩我慢をもって戦った彼等は、しかし、すでに一人一人、戦友であり、文化の闘士となって鍛えられていた。
春は来た。青年達は、三カ月毎日曜日つづけた「希望音楽会」の結末をつけるべく、「花の祭」を計画した。千光寺山一杯に咲く桜の中にマイクをつけて、世界の春の曲を全山に響かせようというのである。計画は計画を生んで、「おでん」と「お茶の会」を女子青年会が、そして和洋の音楽会を二つ、映画界と生花会、一連の切符を二十円で売って、一週間ぶっ通しの花のフェスティバルをする事となった。演劇班はシュプレッヒ・コールをして、戦の間中、「この花を見たかった! 見せたかった!」とマイクと集団をもって花の中に展開した。これは、青年全体の二百名からの集団的訓練と組織と、市民への関係を確保せしめるのに役立った。終戦後初めての桜の花は、彼等にとって夢のように楽しいらしかった。
四月からの文化運動は新たなすがたをもった。私は「カント講座」を計画した。百五十年の立後れをもったドイツのこの啓蒙学者の理論は、三百年の立後れをもち、しかも封建残滓を急速に脱落しなければならない日本に一つの一階程となるのではないかと私には思われた。私はこれを実験にうつした。この計画は案外な反響を生んで、尾道では七十人の毎週連続聴講生を続け、隣の三原市では労働者をふくめて百人の聴講生をもった。私はルネッサンスが眼前において起るのを見たいという野望を胸に描いたのである。カントの言葉を借りて、封建より脱落して、自我の尊厳へ青年達を導くとき、時々、ルネッサンスの中に火に炙られようが、獄に投ぜられようが、乗越え乗越えてやって来た、荒々しい学者どもの魂が、亡霊が、うろつきさまようかのような、胸を圧するような感動を憶えることがあった。
三原から、夜十時すぎの復員列車にぶらさがりながら家にかえる時、このビョウたる自分も、歴史の中に、その生きる意味を、今の瞬間もっているかもしれないという、ちょっと甘いセンチメンタリズムに落ちることもあった。
カント講座は尾道でも三原でも七月まで続けられた。七月には両市で青年講座を計画するに至った。尾道は、七月二十八日より八日間、毎夜七時より十時まで二講師ずつというプランであった。
新憲法論 田畑 忍
労働組合論 住谷 悦治
論理学における新しき展望 中井 正一
芸術における東洋と西洋 須田国太郎
ソヴィエートの実情 前芝 確三
開講三日前にやっと二百七十名の報告を得た。やれやれと思った。団体加入三十名以上十五円、五十名以上十二円、百名以上十円という苦肉の策も計っていたので、最後の締切りの日まで見当がつかなかった。その日になって見ると意外にもグッと六百五十名となって、今度は断わらなければならなくなってしまった。青年会の連中は今度は鼻息あらく、「断然断わります」などと頑張っている。私はほんとに心の底から、「よく来てくれた、有難い」としばらく眼をつむったのであった。
第一夜、七時頃、街の本通りはノート片手の小ザッパリとした青年と処女が、一つの方向に向う陸続とした行列で満たされた。
住谷君は毎夜、丘の講堂に登って行く男女の群を見上げて、「好いなあ、お祭りだなあ」と言って立止った。それはまた、夏涼みの市民に対して八日間ぶっつづけのデモンストレーションでもあった。皆この美しい、若い、青年と処女の、絶えざる歩みと結集に眼を瞠らずにはいられなかった。戦が終って、文化への結集へと立上ってゆく巨大な群像となって、何か圧迫的なものすらがあった。
七百名の体温を満した夏の大講堂の盛んなる光景は、豊かな、豊かな、何か溢るる如きものがあった。三原でも、十日間、科学史、経済史、文化史、音楽史の講座をもち、二百五十人の人を締切って聴講せしめた。何れも成功した。数字的調査の結果を左に記して今後の参考としたい。
尾道の講座における聴講者の年齢別を見るに
一七 八・〇三
一八 二九・一二
一九 三二・一三
二〇 二八・一二
二一 二三・〇九
二二 二四・一〇
二三 一六・〇六
二四 一六・〇六
二五 八・〇三
二六 七・〇三
二七 六・四三
二八 七・〇三
二九 三・〇一
三〇 六・〇二
三一 二・〇一
三二 三・〇一
三三 一・〇〇
三四 一・〇〇
三五 四・〇一
三六 一・〇〇
四二 一・〇〇
四三 二・〇一
四六 一・〇〇
四九 一・〇〇
五四 三・〇一
職業では、未婚女子が全体の三二%を占めており、それが動員から帰って間もない状態であるのを反映して無職の計数が一位を占めている。
大学在学 二・五
会社員 一九・〇
高専在学 一五・六
工員 四・三
女専 一〇・〇
農業 五・〇
中学校 三・三
教員 六・七
官吏 二・九
商業 二・九
女工 〇・五
講座で興味を感じたのは、論理学三〇%、ソヴィエート事情二二%は意外とするところであった。希望する講義内容の結果順位を見るに、社会、哲学、文学、自然科学、政治、経済、美術、宗教の順位である。
一般の輿論調査にある感想は、かかる講座の継続を絶対多数が希望している。そして、各専門でもっと突込んだ研究を要求している。そして一つの講座の長時継続を希っている。それは土地における不断の開講への願である。三原市の調査も驚くべきほど同じ%をしめているのは興味深かった。ただ一つの意外としたことは、年齢計数で、女子の四〇歳台が一五%で、三〇歳台が七・五%であるのが目立っただけである。ここでも、専門的な高度な学問が希求されていて、殊に職工が異常な学問的意欲を示していることであった。三原のカント講座は、百名の聴衆の中で三十名余りは職工であり、二十名余りは農民であった。尾道でも、ちょうど夏期大学中青山君が私の家にいるとき、一農村青年が、「やっとカントの『純粋理性批判』を読み終りました」と言って、貸した本と南瓜を二つ持って来たので、青山君はとてもびっくりしていた。私はそれがそんなに驚くべきことかと、今更の如く、思いかえしてみたのであった。
夏は只四日しか私は、私の家に寝ることが出来なかった。農村恐慌への対策と村民の団結のために、封建遺制の底に沈湎している彼等に理論を説く事は、なかばは肉体労働的なつもりでいなければならない。しかし各地各様の相貌をもって立上りつつあった。三反百姓の多い土地と、一町百姓の多い土地ではまた、その反応も各々異っていた。
秋になると、青年の要求は論理学に集中して来た。論理学を興味多く連続講義することは、実に自分にとってはつらい任務である。このやや大きくなって行った文化運動は、秋立つにつれて、一つの反動期に入って行った感がある。地方選挙戦を眼前にして、青年を把握していることへの嫉視は当然予想さるるところである。この大きい動きが、それ等の人々を父兄とするところの青年に一つの分解作用を及ぼすことはその第一の原因と見るべきであろう。また青年自身が、自ら立候補または運動にまき込まれるにあたって、安易なる、利己的な道へ誘惑されるのもまた、当然な経路である。この青年自らの自己崩壊はその第二の原因となるであろう。第三は、全体に反民主主義的な土用浪のような潮の高まりが、田舎の第一線で孤独に戦っている自分には切々と感ぜられるのである。商業資本機構の中にしみ込んだボス的封建制は民主的再建設に対しては、そのスタートを明らかに拒否しはじめている。また教育界が同じ反動の徴候を示しはじめている。去年の今頃の暗澹たる思いは、しかし、攻勢における手不足の暗さであるが、今は何か守勢的なるものすら感ぜしめる。手塩にかけた好青年が一人、一人去りゆくのをじっと見つむることは言いようもなく寂しい思いである。
図書館も、市の意向で、読書以外の文化運動を一切禁ぜられた。如何に、第二年目を組立てて行くか、自分の家に集まる一握りの青年を基礎に、歴史のこの大きなリズムの中に、いかに再び乗入るるか、再び自分は身の中にたぎり打ちふるうものを感ぜずにはいられないのである。
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