优秀賞

「嵐山詩碑からの思い」

何 珊(南開大学)

今年の七月、学校の短期研修プログラムで京都の嵐山に行った。その日嵐山は雨に洗われ一段と鮮やかさを増していた。目標は周恩来総理の詩碑だったが案内地図を見てもあまり分からなかったのでたまたま通りかかったお爺さんに道を聞いた。それでも見つけることができずうろうろしていると交差点の所で先程のお爺さんを見かけたので再び道を聞いたところ、「ここから真直ぐ歩いて右に石の階段を見たら登って周恩来総理の詩碑が見えますよ」ともう一度道を案内してもらった。お爺ちゃんが心配でわざわざ私達を待っていると気付き、本当に感動した。

私達は順調に詩碑を探し出した。木の影が大きな石碑を引き立たせ合っていている。基は少しも磨き上げない大きな石で積み重ねられ、本体も磨き上げない一つの石で少し楕円形を呈している。正面には元中日友好協会の会長である廖承志が書いた周恩来総理の「雨中嵐山」が彫り刻まれている。詩曰く「雨中二次游岚山,两岸苍松,夹着几株樱。到尽处突见一山高,流出泉水绿如许,绕石照人。潇潇雨雾蒙浓,一线阳光穿云出,愈见姣妍。人间的万象真理,愈求愈模糊,—模糊中偶然见着一点光明:真愈觉姣妍」。

周恩来総理は1917年9月から1919年4月にかけて日本に留学し、ことに最後の半年余は京都の友人宅に寄宿していた。この「雨中嵐山」の詩は、彼が帰国を前に嵐山を訪れて作ったものである。政治家というよりまだ青年として日本で新しい思想を知り、暗い世界の中で一点の光のような感動を受ける雰囲気が感じられる。

周恩来総理の詩碑は彼とゆかりの深い京都に1978年中日平和友好条約締結を記念し中国人と日本人の子々孫々までの友好の心を現す為に建立された。中日友好のシンボルとしてのこの碑は特別な外観や構造、豪華な彫刻工芸などはなく、質朴簡素である。この質素な石碑がまさに中日の民間交流を言いふらさないで静かに中日の友情を記録している。

歴史から見れば二十世紀五十年代には「民間が先行し、民をもって官を促す」という方針が提起されて以来中日貿易と文化交流のルートが切り開かれた。六十年代には漸進の積み重ねの方式で、中日関係を半官半民の時代へ推し進めた。七十年代には、両国人民の共同の努力のもとで、時機を失うことなく中日国交の正常化を推進し、両国人民の長年の願望を実現させた。中日民間の交流は中日関係に重要な役割を果たしていると言える。中日の人々は貿易だけでなく、いろいろな領域でこの友好な絆を深く結んでいると思っている。愛知大学現代中国学部は毎年だいたい2年生全員が第3セメスターの4ヶ月間、中国語の語学研修を中心として私の大学で現地教学プログラムを行う。このプログラムは私の大学と愛知大学との間に18年間継続されている。中日教育界においては前にも後にもあり得ないことであると思っている。

今年、私は本当に光栄なことに臨時職員として現地連絡事務室で働いている。このプログラムのおかげで、本当にいろいろなことを勉強した。毎日の業務の中で学生たちのクラス日誌や、ライフレポート、リアクションペーパーなどを読んで、学生たちが中国語の語学力のレベルを高めただけでなく、中国の社会や文化も肌で感じることができたと分かった。彼らの姿を見ていて、自分の日本語を学び始めた頃のことを思い出した。このプログラムに関わった先生や学生は皆一人一人の力で中日民間交流の絆を深くすることが出来ただろう。ただし、日本語と中国語を専門とする学生だけではなく、両国の人々みんなが能動的に積極的に交流する気持ちが非常に重要であると考えている。両国が過去を継承し未来を開拓して、子々孫々にわたり友好的に付き合えることを心から祈っている。