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「人生とは旅のようなものです」というような言い回しがあります。これはある意味、非常に巧い説明です。そして、そういう表現を重ねて人を説得して行く人がいます。大変賢いなあと思います。

有一句话是这样说的,“人生如旅”。从某种意义来说,这种说法非常巧妙。有的人非常聪明,他会借助这种表达去劝说别人。

しかし、それが詩であるのならそれで良いのですが、ある種のロジックの中に放り込んだ時、比喩というのは大変危ないものであり、下手するとインチキなものだと私は思っています。

但是,这样的话若是诗就很好,可要是在逻辑性较强时使用,比喻就显得非常不恰当了,用得拙劣的话,还会被当成是骗人的花招。

それは、比喩を用いることによって、喩えられたものと喩えとの共通点以外がするりと抜け落ちてしまう可能性があるからです。

因为在使用比喻这种修辞时,被喻体和喻体的共同点之外的东西有可能被轻易省略掉。

例えば「人生は旅のようなものです」と言います。言われたほうは何となく「なるほど」と思ってしまいます。そして、言ったほうはその後「だから」と続けるのです。「だから道連れが必要です」とか「だから、たまには回り道をしてみても良いのです」などと。

例如,“人生如旅”这句话。听的人听完会略有所思,而说的人,接下来会说“因此”怎样怎样云云。比如说,“因此旅伴很重要”,“因此,偶尔绕远路也未尝不可”等等。

しかし、ずっとそういう延長線で議論を進めて行くと、人生と旅とでは違う部分がだんだん取っ払われておかしなことになってしまうことがあるのです。 例えば人生は旅と違って、明確な自分の意志で開始したものではありません。繰り返すこともやり直すこともできません。そういう違いがすっ飛んでしまうことがあるのです。

但是,如果一直像这样无限延长地进行讨论的话,就会发现人生与旅程的不同点了,且方向会变得很怪。比如说,人生与旅途不同,并不是由自己明确的意志来开始的。人生无法重复也无法重来。像这样两者之间的区别会接二连三地冒出来。

そういうことを利用してペテンにかけることもできます。

利用这些也可以来欺骗他人。

例えば、「お金を持っていても使わなければ、それは作った料理を冷蔵庫に入れっぱなしにするようなものだ」から始めて、なんだかんだ比喩を重ねるうちに、「だから、あなたはこの株を買ったほうが良い」みたいなところまで持って行かれてしまう場合があるのです。

比如会有这样的情况,一开始说“有钱不花的话,就如同将做好的料理光放入冰箱一样”,像这样借助各种各样的比喻,最后顺水推舟被忽悠说:“所以你不如买下这支股票。”

前にも取り上げたことがありますが、そういうことを大変面白おかしく書いた小説に清水義範の『たとえて言うならば』があります。集英社文庫の『日本語の乱れ』という短編集に収められています。

前文也有提到过,有小说将这种现象用极其诙谐的方式加以了描述,即清水义范所著的《作比喻》。它还被收录进集英社文库的《混乱的日本语》短篇集中。

小学校の2人の国語教師が子供の教育をめぐって議論する中で、比喩を重ねるうちにどんどん本質から離れて行ってしまうという抱腹絶倒の小説です。

这是一部令人捧腹大笑的小说,两名小学老师围绕小学教育这一话题进行讨论,在反复运用比喻当中,渐渐偏离本质。

伊野は子どもたちに比喩の使い方の訓練をします。それを聞きつけた桜井が「伊野先生の指導法は子供たちに芸を仕込んでいるようなものですわ」となじります。

伊野老师训练孩子们如何使用比喻修辞。樱井老师知道这件事之后,责备伊野老师的指导方法就如同是训练孩子们的技艺一般。

桜井は興奮してきて、さらに子供たちを甘いドロップに喩え、教師がやるべきことはドロップの純度を高めることなのに、伊野がやっているのはそれを綺麗なセロハンに包んでいるようなものだと言い募ってきます。

接着樱井老师开始变得兴奋,越说越激昂,他将孩子们比作甜的水果糖,认为老师的职责是精炼水果糖的纯度,而伊野老师做法如同在水果糖外面裹上一层漂亮的包装。

それに対して伊野は「とんでもない。子供は一枚ずつのタイルのようなものです」と反論します。自分はそのタイルに絵付けをしてごらんと言ってるだけだと言い返します。

针对这一说法,伊野老师反驳道:“完全没这回事儿。每个孩子就像一块瓷砖。”他表明自己只是让孩子们去为瓷砖上色。

すると桜井は「それはやっぱり子供たちに職人の芸を仕込むようなものだ」と反駁するのですが、伊野はそれを受けて「いや、職人の芸をみくびっちゃいけません」と反撃して、もう何のこっちゃ分からなくなってしまいます。

于是樱井老师又反驳道:“这果然就像在训练孩子们巧匠的手艺啊。”伊野先生回应道:“不,我们不能轻视手艺人的手艺。”这对话让人越来越琢磨不透了。

あ、全部書いちゃいました(笑)でも、全部書かないと面白さも私が言いたいことも伝わりませんので(笑)

啊,我全部都写下来了(笑)。不过不全部写下来的话,就没办法传达出其中的精髓及我想表达的意义了。

清水義範は書いています。

清水义范这样写道。

たとえば制服に反対する人と、制服は必要だという人が議論したとして、反対の人がこう言ったとしてみよう。

比如反对制服与赞成制服的人进行辩论的话,假设反对的人这样说道——

「あなたの考え方は、子供の頭に決められた帽子を釘で打ちつけておくのがいいことだ、ということですよ」

“你们的想法,就意味着认为用钉子将设计好的帽子钉进孩子们的头上是正确的一样。”

それはむごいことだ、というのでこの人が議論に勝っていいのだろうか。そうではあるまい。

这种比喻真是骇人听闻,试想能让那个人在辩论中获胜吗?不会吧。

誰も帽子や釘の話なんかしてないですよ、と言わねばならない。そんな、妙なたとえ話をしないで、制服というものについて話しましょうよ、と(同書73ページ)

其实我要说谁都没有说帽子与钉子的事情。我们不要谈论那些奇怪的比喻,还是就制服本身来讨论吧。(见书73页)

以来私は、私に対して比喩を駆使して議論をふっかけてくる人がいると、必ずこの小説を思い出してしまうのです。そして、自分が誰かを説得しようとして比喩を使っているときにも、心の奥底に静かにこの小説が浮かんでくるのです。

一直以来一旦出现运用比喻挑起争论的人,我就会想起这部小说。另外当我想运用比喻修辞去说服某人时,我的脑海里也会默默浮现出这部小说。

相手が「ようなものだ」といった瞬間に、「それとこれとは違うでしょ」と反射的に反論するようになりました。自分から議論をふっかけるときも、表現上の比喩は良いが論述上の比喩は避けようと、かなり神経を使うようになりました。

当对方说到“……似的”的时候,我就会条件反射般地进行反驳,“这个跟那个不一样吧。”如果是我发起争论,我会调动我所有的神经尽量使用表达方式上的比喻,然后去回避论述上的比喻。

え? そういうのって、「あつものに懲りてなますを吹く」ようなもんですって?

也许你会惊讶。说这不就像“一朝被蛇咬十年怕井绳”一样吗?

いえ、比喩を使わずに比喩の話をしませんか? 結構建設的なものになりますよ(笑)。

并非如此。来试试不用比喻修辞来谈论比喻怎样?这会变得非常有挑战性哦(笑)。

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