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中日交流における感動的なエピソート

孙志祥(大连海事大学)

一、私の祖母

「悲惨な戦争を生き抜いた人々の苦しみと戦火の中でも消えなかった、大地の人々の恩愛を永く心に刻み、日中友好の証しとして捧げます。」これは作家の山崎豊子が小説「大地の子」の序言で書いた言葉です。1995年、「大地の子」は中国のCCTVと日本のNHKが協同して、ドラマ化しました。不惑の年を迎えた中日関係は再び釣魚島をめぐるトラブルで氷点に接近した時に、私はたまたまこのドラマを見ました、涙を禁じ得ないほど感動しました。同時に、私の頭の中に祖母の苦難にみちた生い立ちが浮かびました。

祖母は黒龍江省延壽県の軍人家庭の出身です。1931年日本軍は九一八事変を契機に中国東北地方を占領しました。 祖母が15歳のある日、ひと群れの日本兵が家に乱入し、祖母の母は急遽、祖母と7歳の弟を穴蔵に隠して、彼らに「どんな事があっても、絶対出て来ないで」と伝えました。深夜、祖母と弟は穴蔵から出てきて、母親を含めて家族八人全部が残酷にも殺されたことを発見しました。彼女は幼い弟を連れて2日間物乞いして歩いき、方正県付近の劉家屯についた時、ある一家の善良な農民が彼らを引き取りました。

1945年、日本の敗戦後、東北各地の満洲開拓団は関東軍に無情にも置き去りにされました。祖母は自分の目で当時の惨状を見ました 。開拓民のなかで、15歳から45歳までの男子は全部兵隊に引き抜かれて、敗戦後次々に自殺しました。 残ったのは婦女、児童と老人です。彼らは徒歩で数百キロを逃れてきました。川を渡る時、子供が力尽きて流されたが河岸での中国村民は誰もこの子供を救いませんでした。彼らは日本人を憎んでいるのです。 しかし、祖母は少しも躊躇しないでその子供を救いました。そして、自分が持っている僅の食物を与えました。戦後の貧乏時期で食べ物は命をつなぐ貴重なものでした。おばあさんの行為は村民に理解されず、養父母も知った後、すぐに腹が立ちました。しかし、おばあさんはこの悲惨な光景を後で振り返えっても決して後悔しませんでした。祖母は言いました、「あの子供は確かに日本人だが、子供には罪がない、私はひとつ生命が目の前で失うことを見る事ができない」。

その話を聞いた数年後、私は祖母をやっと理解しました。満洲開拓団は、ただ貧困に苦しむ日本の農民です。中国東北部に送り込まれた後も同様に普通の農民です。終戦後、日本政府に放置された彼らも、戦争被害者であり、難民だったのです。大量の開拓団民が方正県に着いた後、飢えと寒さとが同時に迫る中でもう歩けない、現地でおばあさんのような善良な中国農民に救われ育てられました。長年にわたり、中国の養父母たちはどれほど苦しんだろうか、侵略者の子供を育てて、どんな圧力を受けただろうか、私は想像もできませんでした。

祖母は3年前亡くなりました。彼女は孤児になった後、貧しい農村で一生を過ごし、中日間の複雑な政治関係を理解できない。しかし、善良で寛容な祖母は愛によって恨みを解きました。愛と生命の前に、中日間の恨み、政治的利益の紛争が雲散霧消しました、これこそ両国人民の愛の力なのだと思います。

二、田中先生

田中先生は2001年、松下会社の総経理として大連に来て働きます。先生の母の家族は第二次世界大戦時、東京でアメリカ軍に爆死されました。先生も戦争の残酷さをよく知っています。そして、田中先生は創価学会の池田大作会長の弟子です。池田会長は周総理の友人として、中日人民の友好往来のために甚大な貢献をされました。先生は周総理と池田会長の“友誼の魂”を受け継ぎ、2002年「小金橋」という組織を創設し、中日友好の事業に身を投じています。先生は自費で大連の大学生に奨学金を提供しています。奨学金を得る条件は中日友好の事業を熱愛して、積極的に「小金橋」のイベント(主に中日友好事業の紹介や、周総理と池田会長の意志を伝授)に参加する。先生の日常生活はとても質素です:携帯電話は無名なブランドスクリーンにひび割れがあっても使用しています。カメラは少なくとも5年以上使用して、お出掛けはバスに乗って行く……しかし、中日友好の事業に対して、先生は何事でも手間と費用を惜しまずにやっています。現在まで、大連の8つの大学の学生に、毎年二千元、十年間、全部で470名の学生が奨学金を受け取りました、総額も200万元に達しました。

十年間、ある学生は十年前の学生から大学の日本語先生に成長しました、家庭も持っていて、依然中日友好を自らの責任として、「小金橋」のイベントに心を込めて力を尽くしています 。現在、田中先生はすでに退職して、62歳の高齢でも大学で一生懸命に中国語を勉強しています。先生は「私は中日民間の友好交流を促進する非営利の会社を創設し、中日友好の後継者を養成しようと思います」と, 目を輝かせました。田中先生は子供を持っていませんが、中国の学生たちを自分の子供ように真心で接し、父親のように穏やかで親しみやすく、生き甲斐と青年の使命を教える。

周総理は「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れるな」とおしゃいました。これは先生のように中日友好のために尽くしている中日の友人の貢献を称えていると思います。日本は中国にもっとも近い国と同時に、もっとも遠い国です。しかし、私の祖母と田中先生のように普通の人民の努力によって、どれだけ時が流れても、ひどい偏見があっても、両国の人民の心は繋がっていると私は信じます。

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