优秀奖

「わたしと日本」

张惊晨(广东外语外贸大学)

日本のことを初めて知ったのは、いつ頃のことだろう。どれほど記憶を辿っても、よく覚えていない。また、初めて読んだ日本の文学作品もすっかり忘れた。だが、気が付いた時に、日本文学は私の人生の不可欠な一部になる。

村上春樹の小説『海辺のカフカ』は、『オイディプス王』に倣って書いたものかもしれないが、それを中心に理解すれば、ギリシアの悲劇と根本的に違う村上春樹のこの作品の魅力は読み取れないと思う。物語全篇を貫く二人の旅こそ、その小説の醍醐味であろう。旅にはいろいろな種類のものがある。遊びたいと思って楽しく出る旅もあれば、政治の失敗で荒涼たる所に流罪にされた旅もある。また、野心による植民地の拡張、真理への熱意による探険など、みんな旅であろう。だが、田村カフカと中田さんの旅は違う。それは寂しさを味わう旅である。まるで茫々たる海面に浮いている小舟のように漂い、漂っている。常なるものはあらず。その小舟は何処へ行くのだろう。何処かで沈むのだろう。何処かでほかの小舟に出会うのだろう。何処かで独りぼっちになってしまうのだろう。孤独は確かに辛いが、自分が愛する人、自分を愛する人さえ何時か消えて行くのも確実である。ネオンライト満ちた、にぎやかな大都会の内面に埋まっているのも、ほかなく孤独である。誰か私の代わりに生きてくれればいいと思っても、不可能なことであろう。自分の一生を送れる人は、自分しかいない。寂しさを伴に漂う旅は人生である。「日々旅にして旅を住みかとす」と漂泊の詩人の松尾芭蕉は感嘆した。

人生をどのように送ればいいのか。選択問題ではないから、自ら自分なりの答えを作り出すことができる。私は兼好法師の生き方が気に入る。静かな心境で、硯に向いて、いろいろと考えながら綴る。滑稽なこと、悲哀なこと、自分のこと、他人のこと、人間のこと、自然のことなどなど。誰かと会話するのもいいし、無言のままで向き合うのもいい。人間の感情をたっぷり味わい、四季折々の変化を十分に楽しみ、充実した毎日を過ごす。今の社会では頑張らないと生きられないが、所詮人間は機械ではない。いつもパワフール全開の状態で生きることができなく、きっといつか疲れる。その時自分の心は何処に宿るだろうか。お金や権力を持てば幸せになれるか。欲望には限界がないが、人間の命の長さが厳しく限れている一方、いつか失われてしまうかもしれない。その有限の生命をもって、無限の欲望を満たすことはあまりにも無駄である。たとえ、その欲望を満たしたとしても、それは悔いのない人生であろうか。欲望を満たすのはだめだと言っていないが、それは人生の究極的な意味ではないと思う。

明治期の文学といえば、夏目漱石や森鴎外がその代表者としてよく挙げられるが、私は賛成できない。勿論、『心』、『坊ちゃん』、『舞姫』、『高瀬舟』などの作品は素晴らしくて、私も愛読しているが、眩しいほどの樋口一葉のきらめきを前にして、どの文豪も光を失ってしまうと思う。貧乏の生活に苦しみ、艱難辛苦をしみじみと経験し、人生の本質を見抜いた一葉の作品に比べれば、ほかの作品はただ知識階級のうめき声に過ぎないと感じる。樋口一葉の作品の読解において、女性の悲しい運命がよく説かれている。しかし、私が読み取ったのは「成長」である。この世界は自分の思うようになれないよ、これは運命だよ、現実を受け入れ、妥協して生きていこうと悟り、理想や願望などを脱ぎ捨てるのは、「成長」である。『ゆく雲』の桂次も、『十三夜』の関も、未熟から成熟へと成長した。だが、自分の作り出した主人公たちと違って、樋口一葉は妥協しながら、自分の心の栖を求め続けている。それどころか、私を含む無数の人間の心の拠り所を作ってくれた。

さながら芥川龍之介が描き出した、汽車の窓から抛り出された暖かい色の蜜柑のように、日本文学は果てしない暗闇の中に、ひとつ明るくて、暖かい心の拠り所を作ってくれて、私が心身とともに疲れ切る時、慰めてくれる。日本文学は私の価値観の形作りに大きな影響を及ぼし、私の心の支えにもなる。これからも読みながら人生の価値を探究していこうと思う。

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