二等奖

「平和と友好 中日関係の原点と未来」忘れてはならないこと

吴元钦(东华大学)

「母さん、この写真はいつ撮ったの?」

「ああ、これは二十年前に父さんと恋愛していた時よ。」

「じゃあ、これは?」

「へー、この写真まだあったの?どこから見つけてきたの?この写真の人は二十年前に日本から中国に来た国永さんよ。」

「え、父さんと母さんに日本人の知り合いがいたなんて…。」

二年前の夏、私が今の大学の日本語学科に合格した後、母とともに以前の写真を見ていました。すると、私が全く面識のない年配の人が両親とともに写っている写真がふと目に留まりました。驚いたことに、外国語ができない両親が二十年前にこの日本人と仲が良かったというのです。国永さんの中国での経歴を聞き、以前の日本人に対する消極的な印象と感情が大きく変化しました。

国永さんはある有名な化学工業会社の会長でした。私の故郷である、山東省淄博市の最大の化学工業会社の塩素工場を建設する際、国永さんを代表とする日本の専門家達が現地を訪れ、協力してくれたそうです。当時、父は塩素工場の従業員で、母は中日双方の通訳さんの助手をしていました。母は毎朝、日本の専門家達とともに朝礼に参加しており、そこで国永さんと徐々に親しくなったそうです。

「母さん、国永さんはどんな人だったの?」

「そうね。国永さんは非常に仕事に真面目で、責任感のある人だったわよ。塩素工場の作業場のうちの一つが試運転していた時、爆発しちゃったことがあってね、大きな音がして現場にいた中国の従業員達は慌てて工場の外に逃げたんだけど、日本の専門家達は危険を顧みず、足早に現場に走っていったの。会長さんもすぐに施設の補修工事を始めたから、すごくびっくりしたわ。そんな責任感のある人を見たことがなかったし、日本経済が発展した理由が少し分かったわ。」

「へー、すごいね。もし僕が現場にいたら、一目散に自分の家に逃げただろうな。」

「そうそう、お前のおじいちゃんは中国の内戦と朝鮮戦争に参加したから、外国人に対して印象があまりよくなかったけど、この事故が起きたことで、日本の専門家達のことを心から尊敬するようになったのよ。」

「そうか。」

「でも、私が一番感動したのはこのことじゃなくて、国永さんが定年退職した後に、また中国に来てくれたことなの。中国側からも日本側からも給料は出なくて、二年間自分のお金で父さんの工場の設備を補修してくれていたの。彼の恩情は絶対に忘れられないわ。国永さんに会うたびに、必ず深くお辞儀をしてくれたの。地位がそんなに高い、六十歳を超えた人が若者をこんな風に尊重してくれるなんて、恥ずかしかったけどすごく感動しちゃったよ。」

国永さんのことを聞いて、日本人への感情が一変しました。中国と日本の民間交流は数千年間続いています。しかし、二十世紀以来、中日関係の起伏は激しく、大多数の中国人にとって「日本」「日本人」という言葉は単なる名詞ではありません。日本というと、マイナスの感情を持っている中国人が大勢います。実は、日本人が中国に見返りを求めず助けてくれた逸話は数え切れませんが、多くの中国人はそのような事実を知りません。私はこのような美しいエピソードを多くの中国人に知ってほしいと思います。歴史を正しく見れば、中日関係の美しい未来が実現できます。

「あ、そうだ。長らく国永さんと連絡を取っていないから、今度のクリスマスには是非国永さんにハガキを出すわ。」母が懐かしそうに言いました。

「うん、じゃ、僕が翻訳を手伝うよ。」私は微笑みながら言いました。

声明:本内容由第三方机构提供。