三等奖

「私と日本 森屋先生」

王俊天(吉林大学)

「人生はサヨナラだけだ。」

森屋先生は最後の授業で黒板にこう書いた。その時、私は少し泣きそうになった。

「毎日会える仲間なら、別れの時にジャネとよく言うが、サヨナラの場合は永久に会えない可能性があるので、使えない。」と先生はかつて私の間違いを指摘した。

そんなことを思い出して、突然涙が溢れ、私は黒板に書いてある字をまじまじと見つめ、「サヨナラなんか、いやだよ」と小さい声で独り言を言った。その時、ちょうど一年の授業が終わった。

三年前、どうして日本語学科を選んだのか。私はうまく言えないけど、小学校からずっと大好きだった日本の歌の歌詞を読めるようになるとは、夢にも思っていなかった。日本語が全然わからない私にとって、仮名はまじないのような存在で、何回読んでも、書いても覚えるのはなかなか難しかった。そのため、本文を勉強する時、仮名の隣に中国語で読み方をつけざるをえなかった。それに対して、クラスメートたちはだんだん流暢に読めるようになってきた。他人の発音を聞いて、うらやましくてたまらなかった。いよいよ、初めての小テストを迎えた。

4点しかとらなかった。

答案用紙を見つめて、心情は大暴落だった。夜はやけに冷たく感じられて、希望が影のように薄れってきた。廊下は静かすぎ、昼の学生たちの朗読の声も消えて、私はめそめそ泣いていた。突然ドアが閉まる音がして、誰かがエレベーターの近くにある部屋から出て、私に向って歩いていた。

「どうして泣いている。」と森屋先生の声だった。

私はむやみに涙を拭って、答案用紙を振り上げ、頭を紙の後ろのに隠し、「テストの成績がよくない。」と呟いた。

「ちょっと見せて」

あの夜、十時まで先生は私の間違った所を指摘してくださった。寮までの並木道が真っすぐに長く続いて、月光はキラキラ光る。

あの夏、学生たちは故郷に戻って楽しく夏休みを過ごしているうちに、森屋先生は一人で日本に戻った。今まで、私は二度と森屋先生に会えなかった。

もう三年生になった私は夜に廊下で朗読する習慣が変わらない、しかし、変わったのはいうまでもなく先生の部屋の電気は二度とつかなかった。この三年間、とにかく前に進みたくて、具体的に何を探しているのか分からない。日本のことをもっと知りたい気持ちをもって勉強し続けていくかもしれない。そういえば、今まで私は知っている日本はただ先生たちによって描かれていた様子である。

日本は教室にかけている地図に示されるように、47の都道府県からなっている。首都は本州のほぼ中央にある東京都、関東地方の南部と南方海上の伊豆諸島、小笠原諸島を含む。新幹線の路線図を見るだけで、朝如何に混んでいると感じられる。

日本の味は森屋先生からもらったの日本の飴、そして、教科書に印刷されたおいしそうに見えるすし、ラーメン、てんぷら、お好み焼きである。

日本の伝統は歌舞伎の物語に流れる文化の味のようなものであり、日本の民族衣装としての和服であり、生け垣に囲まれた瓦屋根の木造建築である。

日本の風景は偕楽園、後楽園、兼六園といわゆる日本の三園、宮島、松島、天橋立といわゆる日本の三景、二条城、江戸城などの古城である。しかし、一番好きな風景は商店などはなく、ちょっとした買い物なら役場のスーパーまで自転車で30分ぐらいといわれている村の集落である。そこの夏は長雨で湿度百パーセント。

ところで、長春の夏はもうすぐ終わろうとしている。今日、新入生たちも日本語の勉強が始まる。三年前の私と同じ気持だろう。先日、森屋先生に「先生をとても懐かしんでいる」とメールを送った。ほんの僅かの字数だったが、長い返信をもらい、その内容で先生は相変わらず外国人に日本語を教えて、もっと多くの人に日本のことを紹介していることを分かった。実は森屋先生はもう70歳ぐらいだ。私は甚く感心し、あの偉い姿が今までも目に焼き付いている。まだ、いろいろと先生と話しをたい。

「先生お元気ですか?私は今までも日本語を大声で話す勇気がないけど、でも、日本のことにとても興味関心がある。日本語学科の学生になってよかった、先生と出会ってよかった」と届けたい。

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