优胜奖

「中日友好若者の視点から

馮心鶴 (北京外国語大学三年生)

8月の頤和園。残暑の日差しの下でK君はお土産に買ったばかりの日傘式帽子を被っている。横にいる日本の男子学生三人も同じ格好をしている。まるでアイドルグループのようだ。「格好いいね」と中国の学生の誰かが明るい声をかける。「ハハハハ、本当?」「もっと面白いものを見たよ」「写真見して」。どこででも見られる仲の良い若者たちの姿だ。

今年の夏、日本語専攻の中国人大学生と中国語専攻の日本人大学生合わせて26人が自発的に交流会を催した。一週間にわたる東京会期を経て、北京会期の初日を迎える日のことであった。私もその一員として参加していた。わずか一週間という短い間で、こんなに打ち解けて話ができるようになったことを今も不思議に思う。

東京会期初日はまだお互いに遠慮深く、呼ぶときは全部「さん」づけで、語尾には「です、ます」をしっかりと飾っていた。そんな私たちに与えられたテーマは「中日両国のお互いに持つステレオタイプ」だった。丁寧に気をつかいあいながら話しあいが始まった。しかし、色々なステレオタイプが挙げられるにつれて、ここで他人事のように取り上げているステレオタイプを、自分自身も完全に脱却しているとは言えないことに気付き始めた。

これは思わぬ発見だった。自分たちはお互いの言語を学ぶとともにその文化も国民性もよく理解しているという自負があった。だからこそ、両国がお互いに持つステレオタイプを打破しようと目標に掲げていたのだ。それなのに、そんな私たちも実はステレオタイプを捨てられずにいたのだ。反省しつつもステレオタイプは便利なものだと感心した。詳しくないことに向き合うとき、私たちはどうしてもステレオタイプというマニュアルにすがりたくなるものである。私は「日本人は外国人と距離を置きがち」というステレオタイプが植え付けられているので、細かに敬語を使った。相手も「中国人は買い物好き」と思い込んで、なるべくショッピングの時間を作ってくれた。これは、それぞれステレオタイプの指示通りに「正しい」行動を取ったといえるだろう。しかし、それだけではやがて空しく感じてくる。便利さの代わりに、一人一人の違いを知るチャンスが失われてしまい、薄っぺらい付き合いにしかならない。

そこで、私はできる限りよく見て積極的に聞いて、一人ひとりを知ろうとするようにしてみた。すると、メンバーそれぞれの個性が鮮明に見えてきた。ステレオタイプのつきあいよりずっと楽しくなった。気が付けば、みんなもすでにこうしている。与えられた課題の話だけではなく、好きなアイドルは?好きなタイプは?と聞いて来たり、新しく買った本を見せてくれたりした。

会期の最終日、Cちゃんが私に、「私ってどんな人だと思う」と聞いた。その時頭の中に浮かんできたのは、「女子大生」「大和撫子」のようなレッテルではなく、一緒に経験したことであった。その経験があって初めて、Cちゃんという個人のプロフィールを描けたのだ。

こうして、私たちは知らず知らずのうちにステレオタイプを脱却していたのである。日々積み重ねた細かな共通の経験の中でステレオタイプが融けていったので、どの時点で打ち解けたかと聞かれると、おそらく誰も答えられないだろう。

二週間という会期は短い。私たちの頭のどこかに、まだステレオタイプやステレオタイプの種が潜んでいるかもしれない。しかし、日本のメンバー一人ひとりに異なる魅力があることを知った以上、これからもステレオタイプに妨げられることなく異なる個性を持つ一人ひとりを知ろうとする努力を貫きたいと思う。

中日友好という抽象的概念の背後にも一つ一つの具体的な出来事によって積み重ねられた努力があるだろう。今回の私たちのような付き合いをした若者たちがこれまでも数知れずいたのだろう。初対面ですぐ友達になるのは難しい。しかし、相手を固まりとしてではなく、一人ひとりの人間として認め、「一緒に」何かを経験していくにつれて、親しくなれる。両国の友好に向かって、さらに多くの交流の機会が得られることを願いながら、私自身も実践していきたいと思う。また、直接交流する機会がない人たちにも、ステレオタイプに隠されて見えない部分にある面白みを知ってもらえるようにしていきたいと思う。

「土積みて山に成らば、風雨焉にて興こる。水積りて淵に成らば、蛟竜焉にて生まる」(『荀子』)と言われている。細かなことからでも初めて、一人ひとりが土になり、水になり、中日友好の山と淵に寄与することを呼びかけたい。

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