「……
私はこの夏あなたから二、三度手紙を受け取りました。東京で相当の地位を得たいから
宜しく頼むと書いてあったのは、たしか二度目に手に
入ったものと記憶しています。私はそれを読んだ時
何とかしたいと思ったのです。少なくとも返事を上げなければ済まんとは考えたのです。しかし自白すると、私はあなたの依頼に対して、まるで努力をしなかったのです。ご承知の通り、交際区域の狭いというよりも、世の中にたった一人で暮しているといった方が適切なくらいの私には、そういう努力をあえてする余地が全くないのです。しかしそれは問題ではありません。実をいうと、私はこの自分をどうすれば
好いのかと思い
煩っていたところなのです。このまま人間の中に取り残されたミイラのように存在して行こうか、それとも……その時分の私は「それとも」という言葉を心のうちで繰り返すたびにぞっとしました。
馳足で絶壁の
端まで来て、急に底の見えない谷を
覗き込んだ人のように。私は
卑怯でした。そうして多くの卑怯な人と同じ程度において
煩悶したのです。
遺憾ながら、その時の私には、あなたというものがほとんど存在していなかったといっても誇張ではありません。一歩進めていうと、あなたの地位、あなたの
糊口の
資、そんなものは私にとってまるで無意味なのでした。どうでも構わなかったのです。私はそれどころの騒ぎでなかったのです。私は
状差へあなたの手紙を差したなり、依然として腕組をして考え込んでいました。
宅に相応の財産があるものが、何を苦しんで、卒業するかしないのに、地位地位といって
藻掻き
廻るのか。私はむしろ
苦々しい気分で、遠くにいるあなたにこんな
一瞥を与えただけでした。私は返事を上げなければ済まないあなたに対して、
言訳のためにこんな事を打ち明けるのです。あなたを怒らすためにわざと
無躾な言葉を
弄するのではありません。私の本意は
後をご覧になればよく
解る事と信じます。とにかく私は何とか
挨拶すべきところを黙っていたのですから、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。
その
後私はあなたに電報を打ちました。
有体にいえば、あの時私はちょっとあなたに会いたかったのです。それからあなたの希望通り私の過去をあなたのために物語りたかったのです。あなたは返電を
掛けて、今東京へは出られないと断って来ましたが、私は失望して永らくあの電報を
眺めていました。あなたも電報だけでは気が済まなかったとみえて、また後から長い手紙を寄こしてくれたので、あなたの
出京できない事情がよく
解りました。私はあなたを失礼な男だとも何とも思う訳がありません。あなたの大事なお父さんの病気をそっち
退けにして、何であなたが
宅を
空けられるものですか。そのお父さんの
生死を忘れているような私の態度こそ不都合です。――私は実際あの電報を打つ時に、あなたのお父さんの事を忘れていたのです。そのくせあなたが東京にいる
頃には、
難症だからよく注意しなくってはいけないと、あれほど忠告したのは私ですのに。私はこういう矛盾な人間なのです。あるいは私の
脳髄よりも、私の過去が私を圧迫する結果こんな矛盾な人間に私を変化させるのかも知れません。私はこの点においても充分私の
我を認めています。あなたに許してもらわなくてはなりません。
あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。それでその意味の返事を出そうかと考えて、筆を
執りかけましたが、一行も書かずに
已めました。どうせ書くなら、この手紙を書いて上げたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それがためです。
「
私はそれからこの手紙を書き出しました。
平生筆を持ちつけない私には、自分の思うように、事件なり思想なりが運ばないのが重い苦痛でした。私はもう少しで、あなたに対する私のこの義務を
放擲するところでした。しかしいくら
止そうと思って筆を
擱いても、何にもなりませんでした。私は一時間
経たないうちにまた書きたくなりました。あなたから見たら、これが義務の
遂行を重んずる私の性格のように思われるかも知れません。私もそれは
否みません。私はあなたの知っている通り、ほとんど世間と交渉のない孤独な人間ですから、義務というほどの義務は、自分の左右前後を
見廻しても、どの方角にも根を張っておりません。故意か自然か、私はそれをできるだけ切り詰めた生活をしていたのです。けれども私は義務に冷淡だからこうなったのではありません。むしろ
鋭敏過ぎて
刺戟に堪えるだけの精力がないから、ご覧のように消極的な月日を送る事になったのです。だから
一旦約束した以上、それを果たさないのは、大変
厭な心持です。私はあなたに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。
その上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても
差支えないでしょう。それを人に与えないで死ぬのは、惜しいともいわれるでしょう。私にも多少そんな心持があります。ただし受け入れる事のできない人に与えるくらいなら、私はむしろ私の経験を私の
生命と共に
葬った方が
好いと思います。実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは
真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。
私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを
凝と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお
攫みなさい。私の暗いというのは、
固より倫理的に暗いのです。私は倫理的に生れた男です。また倫理的に育てられた男です。その倫理上の考えは、今の若い人と
大分違ったところがあるかも知れません。しかしどう間違っても、私自身のものです。間に合せに借りた
損料着ではありません。だからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。
あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。私のそれに対する態度もよく
解っているでしょう。私はあなたの意見を
軽蔑までしなかったけれども、決して尊敬を払い
得る程度にはなれなかった。あなたの考えには何らの背景もなかったし、あなたは自分の過去をもつには余りに若過ぎたからです。私は時々笑った。あなたは物足りなそうな顔をちょいちょい私に見せた。その
極あなたは私の過去を
絵巻物のように、あなたの前に展開してくれと
逼った。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが
無遠慮に私の腹の中から、
或る生きたものを
捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を
啜ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが
厭であった。それで
他日を約して、あなたの要求を
斥けてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に
浴びせかけようとしているのです。私の
鼓動が
停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。
「私が両親を
亡くしたのは、まだ私の
廿歳にならない時分でした。いつか
妻があなたに話していたようにも記憶していますが、二人は同じ病気で死んだのです。しかも妻があなたに不審を起させた通り、ほとんど同時といっていいくらいに、前後して死んだのです。実をいうと、父の病気は恐るべき
腸窒扶斯でした。それが
傍にいて看護をした母に伝染したのです。
私は二人の間にできたたった一人の男の子でした。
宅には相当の財産があったので、むしろ
鷹揚に育てられました。私は自分の過去を顧みて、あの時両親が死なずにいてくれたなら、少なくとも父か母かどっちか、片方で
好いから生きていてくれたなら、私はあの鷹揚な気分を今まで持ち続ける事ができたろうにと思います。
私は二人の
後に
茫然として取り残されました。私には知識もなく、経験もなく、また分別もありませんでした。父の死ぬ時、母は傍にいる事ができませんでした。母の死ぬ時、母には父の死んだ事さえまだ知らせてなかったのです。母はそれを
覚っていたか、または
傍のもののいうごとく、実際父は回復期に向いつつあるものと信じていたか、それは分りません。母はただ
叔父に万事を頼んでいました。そこに
居合せた私を指さすようにして、「この子をどうぞ
何分」といいました。私はその前から両親の許可を得て、東京へ出るはずになっていましたので、母はそれもついでにいうつもりらしかったのです。それで「東京へ」とだけ付け加えましたら、叔父がすぐ
後を引き取って、「よろしい決して心配しないがいい」と答えました。母は強い熱に堪え
得る体質の女なんでしたろうか、叔父は「
確かりしたものだ」といって、私に向って母の事を
褒めていました。しかしこれがはたして母の遺言であったのかどうだか、今考えると分らないのです。母は無論父の
罹った病気の恐るべき名前を知っていたのです。そうして、自分がそれに伝染していた事も承知していたのです。けれども自分はきっとこの病気で命を取られるとまで信じていたかどうか、そこになると疑う余地はまだいくらでもあるだろうと思われるのです。その上熱の高い時に出る母の言葉は、いかにそれが筋道の通った明らかなものにせよ、
一向記憶となって母の頭に影さえ残していない事がしばしばあったのです。だから……しかしそんな事は問題ではありません。ただこういう
風に物を解きほどいてみたり、またぐるぐる
廻して
眺めたりする
癖は、もうその時分から、私にはちゃんと備わっていたのです。それはあなたにも始めからお断わりしておかなければならないと思いますが、その実例としては当面の問題に大した関係のないこんな記述が、かえって役に立ちはしないかと考えます。あなたの方でもまあそのつもりで読んでください。この
性分が倫理的に個人の行為やら動作の上に及んで、私は
後来ますます
他の徳義心を疑うようになったのだろうと思うのです。それが私の
煩悶や苦悩に向って、積極的に大きな力を添えているのは
慥かですから覚えていて下さい。
話が
本筋をはずれると、分り
悪くなりますからまたあとへ引き返しましょう。これでも私はこの長い手紙を書くのに、私と同じ地位に置かれた
他の人と比べたら、あるいは多少落ち付いていやしないかと思っているのです。世の中が眠ると聞こえだすあの電車の
響ももう
途絶えました。雨戸の外にはいつの間にか
憐れな虫の声が、露の秋をまた忍びやかに思い出させるような調子で
微かに鳴いています。何も知らない
妻は次の
室で無邪気にすやすや
寝入っています。私が筆を
執ると、一字一
劃ができあがりつつペンの先で鳴っています。私はむしろ落ち付いた気分で紙に向っているのです。
不馴れのためにペンが横へ
外れるかも知れませんが、頭が
悩乱して筆がしどろに走るのではないように思います。
「とにかくたった一人取り残された
私は、母のいい付け通り、この
叔父を頼るより
外に
途はなかったのです。叔父はまた
一切を引き受けて
凡ての世話をしてくれました。そうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。
私は東京へ来て高等学校へはいりました。その時の高等学校の生徒は今よりもよほど
殺伐で粗野でした。私の知ったものに、
夜中職人と
喧嘩をして、相手の頭へ
下駄で傷を負わせたのがありました。それが酒を飲んだ
揚句の事なので、夢中に
擲り合いをしている
間に、学校の制帽をとうとう向うのものに取られてしまったのです。ところがその帽子の裏には当人の名前がちゃんと、
菱形の白いきれの上に書いてあったのです。それで事が面倒になって、その男はもう少しで警察から学校へ照会されるところでした。しかし友達が色々と骨を折って、ついに
表沙汰にせずに済むようにしてやりました。こんな乱暴な行為を、上品な今の空気のなかに育ったあなた方に聞かせたら、定めて
馬鹿馬鹿しい感じを起すでしょう。私も実際馬鹿馬鹿しく思います。しかし彼らは今の学生にない一種
質朴な点をその代りにもっていたのです。当時私の月々叔父から
貰っていた金は、あなたが今、お父さんから送ってもらう学資に比べると
遥かに少ないものでした。(無論物価も違いましょうが)。それでいて私は少しの不足も感じませんでした。のみならず数ある同級生のうちで、経済の点にかけては、決して人を
羨ましがる
憐れな境遇にいた訳ではないのです。今から回顧すると、むしろ人に羨ましがられる方だったのでしょう。というのは、私は月々
極った送金の外に、書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好きでした)、および臨時の費用を、よく叔父から請求して、ずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。
何も知らない私は、
叔父を信じていたばかりでなく、常に感謝の心をもって、叔父をありがたいもののように尊敬していました。叔父は事業家でした。県会議員にもなりました。その関係からでもありましょう、政党にも縁故があったように記憶しています。父の実の弟ですけれども、そういう点で、性格からいうと父とはまるで違った方へ向いて発達したようにも見えます。父は先祖から譲られた遺産を大事に守って行く
篤実一方の男でした。楽しみには、茶だの花だのをやりました。それから詩集などを読む事も好きでした。
書画骨董といった
風のものにも、多くの趣味をもっている様子でした。家は
田舎にありましたけれども、二
里ばかり隔たった
市、――その市には叔父が住んでいたのです、――その市から時々道具屋が
懸物だの、
香炉だのを持って、わざわざ父に見せに来ました。父は
一口にいうと、まあマン・オフ・ミーンズとでも評したら
好いのでしょう。比較的上品な
嗜好をもった田舎紳士だったのです。だから
気性からいうと、
闊達な叔父とはよほどの
懸隔がありました。それでいて二人はまた妙に仲が好かったのです。父はよく叔父を評して、自分よりも
遥かに働きのある頼もしい人のようにいっていました。自分のように、親から財産を譲られたものは、どうしても固有の
材幹が
鈍る、つまり世の中と闘う必要がないからいけないのだともいっていました。この言葉は母も聞きました。私も聞きました。父はむしろ私の心得になるつもりで、それをいったらしく思われます。「お前もよく覚えているが
好い」と父はその時わざわざ私の顔を見たのです。だから私はまだそれを忘れずにいます。このくらい私の父から信用されたり、
褒められたりしていた叔父を、私がどうして疑う事ができるでしょう。私にはただでさえ誇りになるべき叔父でした。父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には、もう単なる誇りではなかったのです。私の存在に必要な人間になっていたのです。
「私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時、両親の死に断えた私の
住居には、新しい主人として、叔父夫婦が入れ代って住んでいました。これは私が東京へ出る前からの約束でした。たった一人取り残された私が家にいない以上、そうでもするより
外に仕方がなかったのです。
叔父はその
頃市にある色々な会社に関係していたようです。業務の都合からいえば、今までの
居宅に
寝起きする方が、二
里も
隔った私の家に移るより遥かに便利だといって笑いました。これは私の父母が亡くなった
後、どう
邸を始末して、私が東京へ出るかという相談の時、叔父の口を
洩れた言葉であります。私の家は
旧い歴史をもっているので、少しはその
界隈で人に知られていました。あなたの郷里でも同じ事だろうと思いますが、田舎では
由緒のある家を、相続人があるのに
壊したり売ったりするのは大事件です。今の私ならそのくらいの事は何とも思いませんが、その頃はまだ子供でしたから、東京へは出たし、
家はそのままにして置かなければならず、はなはだ
所置に苦しんだのです。
叔父は仕方なしに私の
空家へはいる事を承諾してくれました。しかし
市の方にある
住居もそのままにしておいて、両方の間を
往ったり来たりする便宜を与えてもらわなければ困るといいました。私に
[#「私に」は底本では「私は」]固より異議のありようはずがありません。私はどんな条件でも東京へ出られれば
好いくらいに考えていたのです。
子供らしい私は、
故郷を離れても、まだ心の眼で、懐かしげに故郷の家を望んでいました。固よりそこにはまだ自分の帰るべき家があるという
旅人の心で望んでいたのです。休みが来れば帰らなくてはならないという気分は、いくら東京を恋しがって出て来た私にも、力強くあったのです。私は熱心に勉強し、愉快に遊んだ
後、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。
私の留守の間、叔父はどんな
風に両方の間を
往き来していたか知りません。私の着いた時は、家族のものが、みんな
一つ
家の内に集まっていました。学校へ出る子供などは
平生おそらく市の方にいたのでしょうが、これも休暇のために
田舎へ遊び半分といった
格で引き取られていました。
みんな私の顔を見て喜びました。私はまた父や母のいた時より、かえって
賑やかで陽気になった家の様子を見て
嬉しがりました。叔父はもと私の部屋になっていた
一間を占領している一番目の男の子を追い出して、私をそこへ入れました。座敷の
数も少なくないのだから、私はほかの部屋で構わないと辞退したのですけれども、叔父はお前の
宅だからといって、聞きませんでした。
私は折々亡くなった父や母の事を思い出す
外に、何の不愉快もなく、その
一夏を叔父の家族と共に過ごして、また東京へ帰ったのです。ただ一つその夏の出来事として、私の心にむしろ薄暗い影を投げたのは、叔父夫婦が口を
揃えて、まだ高等学校へ入ったばかりの私に結婚を勧める事でした。それは前後で丁度三、四回も繰り返されたでしょう。私も始めはただその突然なのに驚いただけでした。二度目には
判然断りました。三度目にはこっちからとうとうその理由を反問しなければならなくなりました。彼らの主意は
単簡でした。早く
嫁を
貰ってここの家へ帰って来て、亡くなった父の後を相続しろというだけなのです。家は
休暇になって帰りさえすれば、それでいいものと私は考えていました。父の後を相続する、それには嫁が必要だから
貰う、両方とも理屈としては
一通り聞こえます。ことに田舎の事情を知っている私には、よく
解ります。私も絶対にそれを嫌ってはいなかったのでしょう。しかし東京へ修業に出たばかりの私には、それが
遠眼鏡で物を見るように、
遥か先の距離に望まれるだけでした。私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた私の家を去りました。
「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の
周囲を取り
捲いている青年の顔を見ると、
世帯染みたものは一人もいません。みんな自由です、そうして
悉く単独らしく思われたのです。こういう気楽な人の
中にも、裏面にはいり込んだら、あるいは家庭の事情に余儀なくされて、すでに妻を迎えていたものがあったかも知れませんが、子供らしい私はそこに気が付きませんでした。それからそういう特別の境遇に置かれた人の方でも、
四辺に
気兼をして、なるべくは書生に縁の遠いそんな内輪の話はしないように慎んでいたのでしょう。
後から考えると、私自身がすでにその組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。
学年の終りに、私はまた
行李を
絡げて、親の墓のある
田舎へ帰って来ました。そうして去年と同じように、
父母のいたわが
家の中で、また
叔父夫婦とその子供の変らない顔を見ました。私は再びそこで
故郷の
匂いを
嗅ぎました。その匂いは私に取って依然として懐かしいものでありました。一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。
しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました。叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。ただこの前
勧められた時には、何らの目的物がなかったのに、今度はちゃんと
肝心の当人を
捕まえていたので、私はなお困らせられたのです。その当人というのは叔父の娘すなわち私の
従妹に当る女でした。その女を
貰ってくれれば、お互いのために便宜である、父も
存生中そんな事を話していた、と叔父がいうのです。私もそうすれば便宜だとは思いました。父が叔父にそういう
風な話をしたというのもあり
得べき事と考えました。しかしそれは私が叔父にいわれて、始めて気が付いたので、いわれない前から、
覚っていた事柄ではないのです。だから私は驚きました。驚いたけれども、叔父の希望に無理のないところも、それがためによく
解りました。私は
迂闊なのでしょうか。あるいはそうなのかも知れませんが、おそらくその従妹に
無頓着であったのが、おもな
源因になっているのでしょう。私は
小供のうちから
市にいる叔父の
家へ始終遊びに行きました。ただ行くばかりでなく、よくそこに泊りました。そうしてこの従妹とはその時分から親しかったのです。あなたもご承知でしょう、
兄妹の間に恋の成立した
例のないのを。私はこの公認された事実を勝手に
布衍しているかも知れないが、始終接触して親しくなり過ぎた
男女の間には、恋に必要な
刺戟の起る清新な感じが失われてしまうように考えています。
香をかぎ
得るのは、香を
焚き出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは、酒を飲み始めた
刹那にあるごとく、恋の衝動にもこういう
際どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。一度平気でそこを通り抜けたら、
馴れれば馴れるほど、親しみが増すだけで、恋の神経はだんだん
麻痺して来るだけです。私はどう考え直しても、この
従妹を妻にする気にはなれませんでした。
叔父はもし私が主張するなら、私の卒業まで結婚を延ばしてもいいといいました。けれども善は急げという
諺もあるから、できるなら今のうちに
祝言の
盃だけは済ませておきたいともいいました。当人に望みのない私にはどっちにしたって同じ事です。私はまた断りました。叔父は
厭な顔をしました。従妹は泣きました。私に添われないから悲しいのではありません。結婚の申し込みを拒絶されたのが、女として
辛かったからです。私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛していない事は、私によく知れていました。私はまた東京へ出ました。
「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年
経った夏の
取付でした。私はいつでも学年試験の済むのを待ちかねて東京を逃げました。私には
故郷がそれほど懐かしかったからです。あなたにも覚えがあるでしょう、生れた所は空気の色が違います、土地の
匂いも格別です、父や母の記憶も
濃かに
漂っています。一年のうちで、七、八の
二月をその中に
包まれて、穴に入った
蛇のように
凝としているのは、私に取って何よりも温かい
好い心持だったのです。
単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断る、断ってさえしまえば
後には何も残らない、私はこう信じていたのです。だから叔父の希望通りに意志を曲げなかったにもかかわらず、私はむしろ平気でした。過去一年の間いまだかつてそんな事に
屈托した覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。
ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように
好い顔をして私を自分の
懐に
抱こうとしません。それでも
鷹揚に育った私は、帰って四、五日の間は気が付かずにいました。ただ何かの機会にふと変に思い出したのです。すると妙なのは、叔父ばかりではないのです。
叔母も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。
私の
性分として考えずにはいられなくなりました。どうして私の心持がこう変ったのだろう。いやどうして向うがこう変ったのだろう。私は突然死んだ父や母が、
鈍い私の眼を洗って、急に世の中が
判然見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世にいなくなった
後でも、いた時と同じように私を愛してくれるものと、どこか心の奥で信じていたのです。もっともその
頃でも私は決して理に暗い
質ではありませんでした。しかし先祖から譲られた迷信の
塊りも、強い力で私の血の中に
潜んでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。
私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に
跪きました。
半は
哀悼の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない。私も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです。
私の世界は
掌を翻すように変りました。もっともこれは私に取って始めての経験ではなかったのです。私が十六、七の時でしたろう、始めて世の中に美しいものがあるという事実を発見した時には、一度にはっと驚きました。
何遍も自分の眼を
疑って、何遍も自分の眼を
擦りました。そうして心の
中でああ美しいと叫びました。十六、七といえば、男でも女でも、俗にいう
色気の付く頃です。色気の付いた私は世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見る事ができたのです。今までその存在に少しも気の付かなかった異性に対して、
盲目の眼が
忽ち
開いたのです。それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。
私が
叔父の態度に心づいたのも、全くこれと同じなんでしょう。
俄然として心づいたのです。何の予感も準備もなく、不意に来たのです。不意に彼と彼の家族が、今までとはまるで別物のように私の眼に映ったのです。私は驚きました。そうしてこのままにしておいては、自分の
行先がどうなるか分らないという気になりました。
「私は今まで叔父
任せにしておいた家の財産について、詳しい知識を得なければ、死んだ
父母に対して済まないという気を起したのです。叔父は忙しい
身体だと自称するごとく、毎晩同じ所に
寝泊りはしていませんでした。二日
家へ帰ると三日は
市の方で暮らすといった
風に、両方の間を
往来して、その日その日を落ち付きのない顔で過ごしていました。そうして忙しいという言葉を
口癖のように使いました。何の疑いも起らない時は、私も実際に忙しいのだろうと思っていたのです。それから、忙しがらなくては当世流でないのだろうと、皮肉にも解釈していたのです。けれども財産の事について、時間の
掛かる話をしようという目的ができた眼で、この忙しがる様子を見ると、それが単に私を避ける口実としか受け取れなくなって来たのです。私は容易に叔父を
捕まえる機会を得ませんでした。
私は叔父が市の方に
妾をもっているという
噂を聞きました。私はその噂を昔中学の同級生であったある友達から聞いたのです。妾を置くぐらいの事は、この叔父として少しも
怪しむに足らないのですが、父の生きているうちに、そんな評判を耳に入れた
覚えのない私は驚きました。友達はその
外にも色々叔父についての噂を語って聞かせました。一時事業で失敗しかかっていたように
他から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。
私はとうとう
叔父と談判を開きました。談判というのは少し
不穏当かも知れませんが、話の
成行きからいうと、そんな言葉で形容するより外に
途のないところへ、自然の調子が落ちて来たのです。叔父はどこまでも私を子供扱いにしようとします。私はまた始めから
猜疑の眼で叔父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。
遺憾ながら私は今その談判の
顛末を詳しくここに書く事のできないほど先を急いでいます。実をいうと、私はこれより以上に、もっと大事なものを控えているのです。私のペンは早くからそこへ
辿りつきたがっているのを、
漸との事で抑えつけているくらいです。あなたに会って静かに話す機会を永久に失った私は、筆を
執る
術に慣れないばかりでなく、
貴い時間を
惜むという意味からして、書きたい事も省かなければなりません。
あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を。あの時あなたは私に
昂奮していると注意してくれました。そうしてどんな場合に、善人が悪人に変化するのかと尋ねました。私がただ
一口金と答えた時、あなたは不満な顔をしました。私はあなたの不満な顔をよく記憶しています。私は今あなたの前に打ち明けるが、私はあの時この叔父の事を考えていたのです。普通のものが金を見て急に悪人になる例として、世の中に信用するに足るものが存在し得ない例として、
憎悪と共に私はこの叔父を考えていたのです。私の答えは、思想界の奥へ突き進んで行こうとするあなたに取って物足りなかったかも知れません、
陳腐だったかも知れません。けれども私にはあれが生きた答えでした。現に私は昂奮していたではありませんか。私は
冷やかな頭で新しい事を口にするよりも、熱した舌で平凡な説を述べる方が生きていると信じています。血の力で
体が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。
「
一口でいうと、叔父は
私の財産を
胡魔化したのです。事は私が東京へ出ている三年の間に
容易く行われたのです。すべてを叔父
任せにして平気でいた私は、世間的にいえば本当の馬鹿でした。世間的以上の見地から評すれば、あるいは純なる
尊い男とでもいえましょうか。私はその時の
己れを顧みて、なぜもっと人が悪く生れて来なかったかと思うと、正直過ぎた自分が
口惜しくって
堪りません。しかしまたどうかして、もう一度ああいう生れたままの姿に立ち帰って生きて見たいという心持も起るのです。記憶して下さい、あなたの知っている私は
塵に汚れた
後の私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう。
もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。これは考えるまでもない事と思います。
叔父は策略で娘を私に押し付けようとしたのです。好意的に両家の便宜を計るというよりも、ずっと
下卑た利害心に駆られて、結婚問題を私に向けたのです。私は
従妹を愛していないだけで、嫌ってはいなかったのですが、後から考えてみると、それを断ったのが私には多少の愉快になると思います。
胡魔化されるのはどっちにしても同じでしょうけれども、
載せられ方からいえば、従妹を
貰わない方が、向うの思い通りにならないという点から見て、少しは私の
我が通った事になるのですから。しかしそれはほとんど問題とするに足りない
些細な事柄です。ことに関係のないあなたにいわせたら、さぞ
馬鹿気た意地に見えるでしょう。
私と叔父の間に
他の
親戚のものがはいりました。その親戚のものも私はまるで信用していませんでした。信用しないばかりでなく、むしろ敵視していました。私は叔父が私を
欺いたと
覚ると共に、
他のものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ
賞め抜いていた叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の
論理でした。
それでも彼らは私のために、私の所有にかかる
一切のものを
纏めてくれました。それは金額に見積ると、私の予期より
遥かに少ないものでした。私としては黙ってそれを受け取るか、でなければ叔父を相手取って
公沙汰にするか、二つの方法しかなかったのです。私は
憤りました。また迷いました。訴訟にすると
落着までに長い時間のかかる事も恐れました。私は修業中のからだですから、学生として大切な時間を奪われるのは非常の苦痛だとも考えました。私は思案の結果、
市におる中学の旧友に頼んで、私の受け取ったものを、すべて金の
形に変えようとしました。旧友は
止した方が得だといって忠告してくれましたが、私は聞きませんでした。私は永く
故郷を離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。
私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。
私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど
経った
後の事です。
田舎で
畠地などを売ろうとしたって容易には売れませんし、いざとなると足元を見て踏み倒される恐れがあるので、私の受け取った金額は、時価に比べるとよほど少ないものでした。自白すると、私の財産は自分が
懐にして家を出た若干の公債と、
後からこの友人に送ってもらった金だけなのです。親の遺産としては
固より非常に減っていたに相違ありません。しかも私が積極的に減らしたのでないから、なお心持が悪かったのです。けれども学生として生活するにはそれで充分以上でした。実をいうと私はそれから出る利子の半分も使えませんでした。この余裕ある私の学生生活が私を思いも寄らない境遇に
陥し入れたのです。
「金に不自由のない
私は、
騒々しい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気になったのです。しかしそれには世帯道具を買う面倒もありますし、世話をしてくれる
婆さんの必要も起りますし、その婆さんがまた正直でなければ困るし、
宅を留守にしても大丈夫なものでなければ心配だし、といった訳で、ちょくらちょいと実行する事は
覚束なく見えたのです。ある日私はまあ
宅だけでも探してみようかというそぞろ
心から、散歩がてらに
本郷台を西へ下りて
小石川の坂を
真直に
伝通院の方へ上がりました。電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その
頃は左手が
砲兵工廠の
土塀で、右は原とも丘ともつかない
空地に草が一面に生えていたものです。私はその草の中に立って、
何心なく向うの
崖を
眺めました。今でも悪い景色ではありませんが、その頃はまたずっとあの西側の
趣が違っていました。見渡す限り緑が一面に深く茂っているだけでも、神経が休まります。私はふとここいらに適当な
宅はないだろうかと思いました。それで
直ぐ
草原を横切って、細い通りを北の方へ進んで行きました。いまだに
好い町になり切れないで、がたぴししているあの
辺の
家並は、その時分の事ですからずいぶん汚ならしいものでした。私は
露次を抜けたり、
横丁を
曲ったり、ぐるぐる歩き
廻りました。しまいに
駄菓子屋の
上さんに、ここいらに小ぢんまりした
貸家はないかと尋ねてみました。上さんは「そうですね」といって、
少時首をかしげていましたが、「かし
家はちょいと……」と全く思い当らない
風でした。私は
望のないものと
諦らめて帰り掛けました。すると上さんがまた、「
素人下宿じゃいけませんか」と聞くのです。私はちょっと気が変りました。静かな
素人屋に一人で下宿しているのは、かえって
家を持つ面倒がなくって結構だろうと考え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。
それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも
日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、
市ヶ谷の
士官学校の
傍とかに住んでいたのだが、
厩などがあって、
邸が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、
無人で
淋しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には
未亡人と一人娘と
下女より
外にいないのだという事を確かめました。私は閑静で
至極好かろうと心の
中に思いました。けれどもそんな家族のうちに、私のようなものが、突然行ったところで、
素性の知れない書生さんという名称のもとに、すぐ拒絶されはしまいかという
掛念もありました。私は
止そうかとも考えました。しかし私は書生としてそんなに見苦しい
服装はしていませんでした。それから大学の制帽を
被っていました。あなたは笑うでしょう、大学の制帽がどうしたんだといって。けれどもその頃の大学生は今と違って、
大分世間に信用のあったものです。私はその場合この四角な帽子に一種の自信を
見出したくらいです。そうして駄菓子屋の上さんに教わった通り、紹介も何もなしにその軍人の遺族の
家を訪ねました。
私は
未亡人に会って
来意を告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て
差支えないという
挨拶を
即坐に与えてくれました。未亡人は正しい人でした、また
判然した人でした。私は軍人の
妻君というものはみんなこんなものかと思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この
気性でどこが
淋しいのだろうと疑いもしました。
「私は
早速その家へ引き移りました。私は最初来た時に未亡人と話をした座敷を借りたのです。そこは
宅中で一番
好い
室でした。
本郷辺に高等下宿といった
風の家がぽつぽつ建てられた時分の事ですから、私は書生として占領し得る最も好い
間の様子を心得ていました。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです。
室の広さは八畳でした。
床の横に
違い
棚があって、
縁と反対の側には
一間の
押入れが付いていました。窓は一つもなかったのですが、その代り
南向きの縁に明るい日がよく差しました。
私は移った日に、その室の
床に
活けられた花と、その横に立て
懸けられた
琴を見ました。どっちも私の気に入りませんでした。私は詩や書や
煎茶を
嗜なむ父の
傍で育ったので、
唐めいた趣味を
小供のうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういう
艶めかしい装飾をいつの間にか
軽蔑する癖が付いていたのです。
私の父が
存生中にあつめた道具類は、例の
叔父のために
滅茶滅茶にされてしまったのですが、それでも多少は残っていました。私は国を立つ時それを中学の旧友に預かってもらいました。それからその
中で面白そうなものを四、五
幅裸にして
行李の底へ入れて来ました。私は移るや
否や、それを取り出して床へ懸けて楽しむつもりでいたのです。ところが今いった琴と
活花を見たので、急に勇気がなくなってしまいました。
後から聞いて始めてこの花が私に対するご
馳走に活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあったのでしょう。
こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を
掠めて通るでしょう。移った私にも、移らない初めからそういう好奇心がすでに動いていたのです。こうした
邪気が予備的に私の自然を損なったためか、または私がまだ
人慣れなかったためか、私は始めてそこのお
嬢さんに会った時、へどもどした
挨拶をしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。
私はそれまで
未亡人の
風采や態度から
推して、このお嬢さんのすべてを想像していたのです。しかしその想像はお嬢さんに取ってあまり有利なものではありませんでした。軍人の
妻君だからああなのだろう、その妻君の娘だからこうだろうといった順序で、私の推測は段々延びて行きました。ところがその推測が、お嬢さんの顔を見た瞬間に、
悉く打ち消されました。そうして私の頭の中へ今まで想像も及ばなかった異性の
匂いが新しく入って来ました。私はそれから床の正面に
活けてある花が
厭でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。
その花はまた規則正しく
凋れる
頃になると活け
更えられるのです。琴も
度々鍵の手に折れ曲がった
筋違の
室に運び去られるのです。私は自分の居間で机の上に
頬杖を突きながら、その琴の
音を聞いていました。私にはその琴が上手なのか下手なのかよく
解らないのです。けれども余り込み入った手を
弾かないところを見ると、上手なのじゃなかろうと考えました。まあ活花の程度ぐらいなものだろうと思いました。花なら私にも好く分るのですが、お嬢さんは決して
旨い方ではなかったのです。
それでも
臆面なく色々の花が私の床を飾ってくれました。もっとも
活方はいつ見ても同じ事でした。それから
花瓶もついぞ変った
例がありませんでした。しかし片方の音楽になると花よりももっと変でした。ぽつんぽつん糸を鳴らすだけで、
一向肉声を聞かせないのです。
唄わないのではありませんが、まるで
内所話でもするように小さな声しか出さないのです。しかも
叱られると全く出なくなるのです。
私は喜んでこの下手な活花を
眺めては、まずそうな琴の
音に耳を傾けました。
「私の気分は国を立つ時すでに
厭世的になっていました。
他は頼りにならないものだという観念が、その時骨の中まで
染み込んでしまったように思われたのです。私は私の敵視する
叔父だの
叔母だの、その
他の
親戚だのを、あたかも人類の代表者のごとく考え出しました。汽車へ乗ってさえ隣のものの様子を、それとなく注意し始めました。たまに向うから話し掛けられでもすると、なおの事警戒を加えたくなりました。私の心は
沈鬱でした。鉛を
呑んだように重苦しくなる事が時々ありました。それでいて私の神経は、今いったごとくに鋭く
尖ってしまったのです。
私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな
源因になっているように思われます。金に不自由がなければこそ、一戸を構えてみる気にもなったのだといえばそれまでですが、元の通りの私ならば、たとい
懐中に余裕ができても、好んでそんな面倒な
真似はしなかったでしょう。
私は
小石川へ引き移ってからも、当分この緊張した気分に
寛ぎを与える事ができませんでした。私は自分で自分が恥ずかしいほど、きょときょと周囲を
見廻していました。不思議にもよく働くのは頭と眼だけで、口の方はそれと反対に、段々動かなくなって来ました。私は
家のものの様子を猫のようによく観察しながら、黙って机の前に
坐っていました。時々は彼らに対して気の毒だと思うほど、私は油断のない注意を彼らの上に
注いでいたのです。おれは物を
偸まない
巾着切みたようなものだ、私はこう考えて、自分が
厭になる事さえあったのです。
あなたは
定めて変に思うでしょう。その私がそこのお
嬢さんをどうして
好く余裕をもっているか。そのお嬢さんの下手な
活花を、どうして
嬉しがって
眺める余裕があるか。同じく下手なその人の琴をどうして喜んで聞く余裕があるか。そう質問された時、私はただ両方とも事実であったのだから、事実としてあなたに教えて上げるというより
外に仕方がないのです。解釈は頭のあるあなたに任せるとして、私はただ
一言付け足しておきましょう。私は金に対して人類を
疑ったけれども、愛に対しては、まだ人類を疑わなかったのです。だから
他から見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。
私は
未亡人の事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます。奥さんは私を静かな人、
大人しい男と評しました。それから勉強家だとも
褒めてくれました。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。気が付かなかったのか、遠慮していたのか、どっちだかよく
解りませんが、何しろそこにはまるで注意を払っていないらしく見えました。それのみならず、ある場合に私を
鷹揚な
方だといって、さも尊敬したらしい口の
利き方をした事があります。その時正直な私は少し顔を赤らめて、向うの言葉を否定しました。すると奥さんは「あなたは自分で気が付かないから、そうおっしゃるんです」と
真面目に説明してくれました。奥さんは始め私のような書生を
宅へ置くつもりではなかったらしいのです。どこかの役所へ勤める人か何かに
坐敷を貸す
料簡で、近所のものに周旋を頼んでいたらしいのです。俸給が
豊かでなくって、やむをえず
素人屋に下宿するくらいの人だからという考えが、それで前かたから奥さんの頭のどこかにはいっていたのでしょう。奥さんは自分の胸に
描いたその想像のお客と私とを比較して、こっちの方を鷹揚だといって
褒めるのです。なるほどそんな切り詰めた生活をする人に比べたら、私は金銭にかけて、鷹揚だったかも知れません。しかしそれは
気性の問題ではありませんから、私の内生活に取ってほとんど関係のないのと一般でした。奥さんはまた女だけにそれを私の全体に
推し広げて、同じ言葉を応用しようと
力めるのです。
「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ付かなくなりました。自分の心が自分の
坐っている所に、ちゃんと落ち付いているような気にもなれました。要するに奥さん始め
家のものが、
僻んだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました。
奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな
風に取り扱ってくれたものとも思われますし、また自分で公言するごとく、実際私を
鷹揚だと観察していたのかも知れません。私のこせつき方は頭の中の現象で、それほど外へ出なかったようにも考えられますから、あるいは奥さんの方で
胡魔化されていたのかも
解りません。
私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました。奥さんともお嬢さんとも
笑談をいうようになりました。茶を入れたからといって向うの
室へ呼ばれる日もありました。また私の方で菓子を買って来て、二人をこっちへ招いたりする晩もありました。私は急に交際の区域が
殖えたように感じました。それがために大切な勉強の時間を
潰される事も何度となくありました。不思議にも、その妨害が私には
一向邪魔にならなかったのです。奥さんはもとより
閑人でした。お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えました。それで三人は顔さえ見るといっしょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。
私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでした。お嬢さんは縁側を直角に曲って、私の
室の前に立つ事もありますし、茶の間を抜けて、次の室の
襖の影から姿を見せる事もありました。お嬢さんは、そこへ来てちょっと
留まります。それからきっと私の名を呼んで、「ご勉強?」と聞きます。私は大抵むずかしい書物を机の前に開けて、それを見詰めていましたから、
傍で見たらさぞ勉強家のように見えたのでしょう。しかし実際をいうと、それほど熱心に書物を研究してはいなかったのです。
頁の上に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。待っていて来ないと、仕方がないから私の方で立ち上がるのです。そうして向うの室の前へ行って、こっちから「ご勉強ですか」と聞くのです。
お嬢さんの
部屋は茶の間と続いた六畳でした。奥さんはその茶の間にいる事もあるし、またお嬢さんの部屋にいる事もありました。つまりこの二つの部屋は
仕切があっても、ないと同じ事で、親子二人が
往ったり来たりして、どっち付かずに占領していたのです。私が外から声を掛けると、「おはいんなさい」と答えるのはきっと奥さんでした。お嬢さんはそこにいても
滅多に返事をした事がありませんでした。
時たまお嬢さん一人で、用があって私の室へはいったついでに、そこに
坐って話し込むような場合もその
内に出て来ました。そういう時には、私の心が妙に不安に
冒されて来るのです。そうして若い女とただ
差向いで坐っているのが不安なのだとばかりは思えませんでした。私は何だかそわそわし出すのです。自分で自分を裏切るような不自然な態度が私を苦しめるのです。しかし相手の方はかえって平気でした。これが琴を
浚うのに声さえ
碌に出せなかった
[#「出せなかった」は底本では「出せなかったの」]あの女かしらと疑われるくらい、恥ずかしがらないのです。あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、「はい」と返事をするだけで、容易に腰を上げない事さえありました。それでいてお嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼にはよくそれが
解っていました。よく解るように振舞って見せる
痕迹さえ明らかでした。
「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと
一息するのです。それと同時に、物足りないようなまた済まないような気持になるのです。私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見たらなおそう見えるでしょう。しかしその
頃の私たちは大抵そんなものだったのです。
奥さんは
滅多に外出した事がありませんでした。たまに
宅を留守にする時でも、お嬢さんと私を二人ぎり残して行くような事はなかったのです。それがまた偶然なのか、故意なのか、私には解らないのです。私の口からいうのは変ですが、奥さんの様子を
能く観察していると、何だか自分の娘と私とを接近させたがっているらしくも見えるのです。それでいて、
或る場合には、私に対して
暗に警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。
私は奥さんの態度をどっちかに
片付けてもらいたかったのです。頭の働きからいえば、それが明らかな矛盾に違いなかったのです。しかし
叔父に
欺かれた記憶のまだ新しい私は、もう一歩踏み込んだ疑いを
挟まずにはいられませんでした。私は奥さんのこの態度のどっちかが本当で、どっちかが
偽りだろうと推定しました。そうして判断に迷いました。ただ判断に迷うばかりでなく、何でそんな妙な事をするかその意味が私には
呑み込めなかったのです。
理由を考え出そうとしても、考え出せない私は、罪を女という一字に
塗り付けて我慢した事もありました。
必竟女だからああなのだ、女というものはどうせ
愚なものだ。私の考えは行き
詰まればいつでもここへ落ちて来ました。
それほど女を
見縊っていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。私の理屈はその人の前に全く用を
為さないほど動きませんでした。私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんの事を考えると、
気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし愛という不可思議なものに
両端があって、その高い
端には神聖な感じが働いて、低い端には
性欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を
捕まえたものです。私はもとより人間として肉を離れる事のできない
身体でした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉の
臭いを帯びていませんでした。
私は母に対して反感を
抱くと共に、子に対して恋愛の度を
増して行ったのですから、三人の関係は、下宿した始めよりは段々複雑になって来ました。もっともその変化はほとんど内面的で外へは現れて来なかったのです。そのうち私はあるひょっとした機会から、今まで奥さんを誤解していたのではなかろうかという気になりました。奥さんの私に対する矛盾した態度が、どっちも偽りではないのだろうと考え直して来たのです。その上、それが
互い
違いに奥さんの心を支配するのでなくって、いつでも両方が同時に奥さんの胸に存在しているのだと思うようになったのです。つまり奥さんができるだけお嬢さんを私に接近させようとしていながら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾のようだけれども、その警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻すのでも何でもなく、やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察したのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するのを
忌むのだと解釈したのです。お嬢さんに対して、肉の方面から近づく念の
萌さなかった私は、その時
入らぬ心配だと思いました。しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。
「私は奥さんの態度を色々
綜合して見て、私がここの
家で充分信用されている事を確かめました。しかもその信用は初対面の時からあったのだという証拠さえ発見しました。
他を
疑り始めた私の胸には、この発見が少し奇異なくらいに響いたのです。私は男に比べると女の方がそれだけ直覚に富んでいるのだろうと思いました。同時に、女が男のために、
欺されるのもここにあるのではなかろうかと思いました。奥さんをそう観察する私が、お嬢さんに対して同じような直覚を強く働かせていたのだから、今考えるとおかしいのです。私は
他を信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから。
私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。ことに今度の事件については何もいわなかったのです。私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉快を感じました。私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうと
力めました。ところがそれでは向うが承知しません。何かに付けて、私の国元の事情を知りたがるのです。私はとうとう何もかも話してしまいました。私は二度と国へは帰らない。帰っても何にもない、あるのはただ父と母の墓ばかりだと告げた時、奥さんは大変感動したらしい様子を見せました。お嬢さんは泣きました。私は話して
好い事をしたと思いました。私は
嬉しかったのです。
私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。それからは私を自分の
親戚に当る若いものか何かを取り扱うように待遇するのです。私は腹も立ちませんでした。むしろ愉快に感じたくらいです。ところがそのうちに私の
猜疑心がまた起って来ました。
私が奥さんを
疑り始めたのは、ごく
些細な事からでした。しかしその些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます。私はどういう拍子かふと奥さんが、
叔父と同じような意味で、お嬢さんを私に接近させようと
力めるのではないかと考え出したのです。すると今まで親切に見えた人が、急に
狡猾な策略家として私の眼に映じて来たのです。私は
苦々しい唇を
噛みました。
奥さんは最初から、
無人で
淋しいから、客を置いて世話をするのだと公言していました。私もそれを
嘘とは思いませんでした。懇意になって色々打ち明け話を聞いた
後でも、そこに
間違いはなかったように思われます。しかし一般の経済状態は大して
豊かだというほどではありませんでした。利害問題から考えてみて、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかったのです。
私はまた警戒を加えました。けれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。私は一人で自分を
嘲笑しました。馬鹿だなといって、自分を
罵った事もあります。しかしそれだけの矛盾ならいくら馬鹿でも私は大した苦痛も感ぜずに済んだのです。私の
煩悶は、奥さんと同じようにお嬢さんも策略家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。二人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろうと思うと、私は急に苦しくって
堪らなくなるのです。不愉快なのではありません。絶体絶命のような行き詰まった心持になるのです。それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました。私にはどっちも想像であり、またどっちも真実であったのです。
「私は相変らず学校へ出席していました。しかし教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような心持がしました。勉強もその通りでした。眼の中へはいる活字は心の底まで
浸み渡らないうちに
烟のごとく消えて行くのです。私はその上無口になりました。それを二、三の友達が誤解して、
冥想に
耽ってでもいるかのように、
他の友達に伝えました。私はこの誤解を解こうとはしませんでした。都合の
好い仮面を人が貸してくれたのを、かえって
仕合せとして喜びました。それでも時々は気が済まなかったのでしょう、発作的に
焦燥ぎ
廻って彼らを驚かした事もあります。
私の宿は
人出入りの少ない
家でした。親類も多くはないようでした。お嬢さんの学校友達がときたま遊びに来る事はありましたが、
極めて小さな声で、いるのだかいないのだか分らないような話をして帰ってしまうのが常でした。それが私に対する遠慮からだとは、いかな私にも気が付きませんでした。私の所へ訪ねて来るものは、大した乱暴者でもありませんでしたけれども、
宅の人に
気兼をするほどな男は一人もなかったのですから。そんなところになると、下宿人の私は
主人のようなもので、
肝心のお嬢さんがかえって
食客の
位地にいたと同じ事です。
しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点です。ただそこにどうでもよくない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければお嬢さんの
室で、突然男の声が聞こえるのです。その声がまた私の客と違って、すこぶる低いのです。だから何を話しているのかまるで分らないのです。そうして分らなければ分らないほど、私の神経に一種の
昂奮を与えるのです。私は
坐っていて変にいらいらし出します。私はあれは親類なのだろうか、それともただの知り合いなのだろうかとまず考えて見るのです。それから若い男だろうか年輩の人だろうかと思案してみるのです。坐っていてそんな事の知れようはずがありません。そうかといって、
起って行って
障子を開けて見る訳にはなおいきません。私の神経は震えるというよりも、大きな波動を打って私を苦しめます。私は客の帰った後で、きっと忘れずにその人の名を聞きました。お嬢さんや奥さんの返事は、また極めて簡単でした。私は物足りない顔を二人に見せながら、物足りるまで
追窮する勇気をもっていなかったのです。権利は無論もっていなかったのでしょう。私は自分の品格を重んじなければならないという教育から来た自尊心と、現にその自尊心を
裏切している物欲しそうな
顔付とを同時に彼らの前に示すのです。彼らは笑いました。それが
嘲笑の意味でなくって、好意から来たものか、また好意らしく見せるつもりなのか、私は即坐に解釈の余地を
見出し得ないほど
落付を失ってしまうのです。そうして事が済んだ後で、いつまでも、馬鹿にされたのだ、馬鹿にされたんじゃなかろうかと、
何遍も心のうちで繰り返すのです。
私は自由な
身体でした。たとい学校を中途で
已めようが、またどこへ行ってどう暮らそうが、あるいはどこの何者と結婚しようが、
誰とも相談する必要のない位地に立っていました。私は思い切って奥さんにお嬢さんを
貰い受ける話をして見ようかという決心をした事がそれまでに何度となくありました。けれどもそのたびごとに私は
躊躇して、口へはとうとう出さずにしまったのです。断られるのが恐ろしいからではありません。もし断られたら、私の運命がどう変化するか分りませんけれども、その代り今までとは方角の違った場所に立って、新しい世の中を見渡す便宜も生じて来るのですから、そのくらいの勇気は出せば出せたのです。しかし私は
誘き寄せられるのが
厭でした。
他の手に乗るのは何よりも
業腹でした。
叔父に
欺された私は、これから先どんな事があっても、人には欺されまいと決心したのです。
「私が書物ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物を
拵えろといいました。私は実際
田舎で織った
木綿ものしかもっていなかったのです。その
頃の学生は
絹の
入った着物を肌に着けませんでした。私の友達に
横浜の
商人か
何かで、
宅はなかなか
派出に暮しているものがありましたが、そこへある時
羽二重の
胴着が配達で届いた事があります。すると
皆ながそれを見て笑いました。その男は恥ずかしがって色々弁解しましたが、
折角の胴着を
行李の底へ
放り込んで利用しないのです。それをまた大勢が寄ってたかって、わざと着せました。すると運悪くその胴着に
蝨がたかりました。友達はちょうど
幸いとでも思ったのでしょう、評判の胴着をぐるぐると丸めて、散歩に出たついでに、
根津の大きな
泥溝の中へ
棄ててしまいました。その時いっしょに歩いていた私は、橋の上に立って笑いながら友達の
所作を
眺めていましたが、私の胸のどこにも
勿体ないという気は少しも起りませんでした。
その頃から見ると私も
大分大人になっていました。けれどもまだ自分で
余所行の着物を拵えるというほどの
分別は出なかったのです。私は卒業して
髯を生やす時代が来なければ、服装の心配などはするに及ばないものだという変な考えをもっていたのです。それで奥さんに書物は
要るが着物は要らないといいました。奥さんは私の買う書物の分量を知っていました。買った本をみんな読むのかと聞くのです。私の買うものの
中には字引きもありますが、当然眼を通すべきはずでありながら、
頁さえ切ってないのも多少あったのですから、私は返事に窮しました。私はどうせ要らないものを買うなら、書物でも衣服でも同じだという事に気が付きました。その上私は色々世話になるという口実の
下に、お嬢さんの気に入るような帯か
反物を買ってやりたかったのです。それで万事を奥さんに依頼しました。
奥さんは自分一人で行くとはいいません。私にもいっしょに来いと命令するのです。お嬢さんも行かなくてはいけないというのです。今と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若い女などといっしょに歩き
廻る習慣をもっていなかったものです。その頃の私は今よりもまだ習慣の奴隷でしたから、多少
躊躇しましたが、思い切って出掛けました。
お嬢さんは大層着飾っていました。
地体が色の白いくせに、
白粉を豊富に塗ったものだからなお目立ちます。往来の人がじろじろ見てゆくのです。そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。
三人は
日本橋へ行って買いたいものを買いました。買う間にも色々気が変るので、思ったより
暇がかかりました。奥さんはわざわざ私の名を呼んでどうだろうと相談をするのです。時々
反物をお嬢さんの肩から胸へ
竪に
宛てておいて、私に二、三歩
遠退いて見てくれろというのです。私はそのたびごとに、それは
駄目だとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。
こんな事で時間が
掛って帰りは
夕飯の時刻になりました。奥さんは私に対するお礼に何かご
馳走するといって、
木原店という
寄席のある狭い
横丁へ私を連れ込みました。横丁も狭いが、飯を食わせる
家も狭いものでした。この
辺の地理を
一向心得ない私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。
我々は
夜に
入って
家へ帰りました。その
翌日は日曜でしたから、私は終日
室の
中に閉じ
籠っていました。月曜になって、学校へ出ると、私は朝っぱらそうそう級友の一人から
調戯われました。いつ
妻を迎えたのかといってわざとらしく聞かれるのです。それから私の
細君は非常に美人だといって
賞めるのです。私は三人
連で日本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものとみえます。
「私は
宅へ帰って奥さんとお嬢さんにその話をしました。奥さんは笑いました。しかし定めて迷惑だろうといって私の顔を見ました。私はその時腹のなかで、男はこんな
風にして、女から気を引いて見られるのかと思いました。奥さんの眼は充分私にそう思わせるだけの意味をもっていたのです。私はその時自分の考えている通りを
直截に打ち明けてしまえば好かったかも知れません。しかし私にはもう
狐疑という
薩張りしない
塊りがこびり付いていました。私は打ち明けようとして、ひょいと
留まりました。そうして話の角度を故意に少し
外らしました。
私は
肝心の自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。そうしてお嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです。奥さんは二、三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に告げました。しかしまだ学校へ出ているくらいで年が若いから、こちらではさほど急がないのだと説明しました。奥さんは口へは出さないけれども、お嬢さんの容色に
大分重きを置いているらしく見えました。
極めようと思えばいつでも極められるんだからというような事さえ口外しました。それからお嬢さんより
外に子供がないのも、容易に手離したがらない
源因になっていました。嫁にやるか、
聟を取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。
話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。しかしそれがために、私は機会を
逸したと同様の結果に
陥ってしまいました。私は自分について、ついに
一言も口を開く事ができませんでした。私は
好い加減なところで話を切り上げて、自分の
室へ帰ろうとしました。
さっきまで
傍にいて、あんまりだわとか何とかいって笑ったお嬢さんは、いつの間にか向うの隅に行って、背中をこっちへ向けていました。私は立とうとして振り返った時、その
後姿を見たのです。後姿だけで人間の心が読めるはずはありません。お嬢さんがこの問題についてどう考えているか、私には見当が付きませんでした。お嬢さんは戸棚を前にして
坐っていました。その戸棚の一
尺ばかり
開いている
隙間から、お嬢さんは何か引き出して
膝の上へ置いて
眺めているらしかったのです。私の眼はその隙間の
端に、
一昨日買った
反物を見付け出しました。私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。
私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのです。その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ
解らないほど不意でした。それがお嬢さんを早く片付けた方が得策だろうかという意味だと
判然した時、私はなるべく
緩くらな方がいいだろうと答えました。奥さんは自分もそう思うといいました。
奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が
入り込まなければならない事になりました。その男がこの家庭の一員となった結果は、私の運命に非常な変化を
来しています。もしその男が私の生活の
行路を横切らなかったならば、おそらくこういう長いものをあなたに書き残す必要も起らなかったでしょう。私は手もなく、魔の通る前に立って、その瞬間の影に一生を薄暗くされて気が付かずにいたのと同じ事です。自白すると、私は自分でその男を
宅へ
引張って来たのです。無論奥さんの
許諾も必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、奥さんに頼んだのです。ところが奥さんは
止せといいました。私には連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せという奥さんの方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。だから私は私の
善いと思うところを
強いて断行してしまいました。
「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと
小供の時からの
仲好でした。小供の時からといえば断らないでも解っているでしょう、二人には同郷の縁故があったのです。Kは
真宗の坊さんの子でした。もっとも長男ではありません、次男でした。それである医者の所へ養子にやられたのです。私の生れた地方は大変
本願寺派の勢力の強い所でしたから、真宗の坊さんは
他のものに比べると、物質的に割が好かったようです。一例を挙げると、もし坊さんに女の子があって、その女の子が
年頃になったとすると、
檀家のものが相談して、どこか適当な所へ嫁にやってくれます。無論費用は坊さんの
懐から出るのではありません。そんな訳で
真宗寺は大抵
有福でした。
Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。また修業に出られる便宜があるので、養子の相談が
纏まったものかどうか、そこも私には分りません。とにかくKは医者の
家へ養子に行ったのです。それは私たちがまだ中学にいる時の事でした。私は
教場で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。
Kの養子先もかなりな財産家でした。Kはそこから学資を
貰って東京へ出て来たのです。出て来たのは私といっしょでなかったけれども、東京へ着いてからは、すぐ同じ下宿に入りました。その時分は一つ
室によく二人も三人も机を並べて
寝起きしたものです。Kと私も二人で同じ
間にいました。山で
生捕られた動物が、
檻の中で抱き合いながら、外を
睨めるようなものでしたろう。二人は東京と東京の人を
畏れました。それでいて六畳の
間の中では、天下を
睥睨するような事をいっていたのです。
しかし我々は
真面目でした。我々は実際偉くなるつもりでいたのです。ことにKは強かったのです。寺に生れた彼は、常に
精進という言葉を使いました。そうして彼の行為動作は
悉くこの精進の一語で形容されるように、私には見えたのです。私は心のうちで常にKを
畏敬していました。
Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。これは彼の父の感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、
解りません。ともかくも彼は普通の坊さんよりは
遥かに坊さんらしい性格をもっていたように見受けられます。元来Kの
養家では彼を医者にするつもりで東京へ出したのです。しかるに頑固な彼は医者にはならない決心をもって、東京へ出て来たのです。私は彼に向って、それでは養父母を
欺くと同じ事ではないかと
詰りました。大胆な彼はそうだと答えるのです。道のためなら、そのくらいの事をしても構わないというのです。その時彼の用いた道という言葉は、おそらく彼にもよく解っていなかったでしょう。私は無論解ったとはいえません。しかし年の若い私たちには、この
漠然とした言葉が
尊とく響いたのです。よし解らないにしても
気高い心持に支配されて、そちらの方へ動いて行こうとする
意気組に
卑しいところの見えるはずはありません。私はKの説に賛成しました。私の同意がKにとってどのくらい有力であったか、それは私も知りません。
一図な彼は、たとい私がいくら反対しようとも、やはり自分の思い通りを貫いたに違いなかろうとは察せられます。しかし万一の場合、賛成の声援を与えた私に、多少の責任ができてくるぐらいの事は、子供ながら私はよく承知していたつもりです。よしその時にそれだけの覚悟がないにしても、成人した眼で、過去を振り返る必要が起った場合には、私に割り当てられただけの責任は、私の方で帯びるのが
至当になるくらいな語気で私は賛成したのです。
「Kと
私は同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の好きな道を歩き出したのです。知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度胸とが、二つながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平気でした。
最初の夏休みにKは国へ帰りませんでした。
駒込のある寺の
一間を借りて勉強するのだといっていました。私が帰って来たのは九月上旬でしたが、彼ははたして
大観音の
傍の汚い寺の中に
閉じ
籠っていました。彼の座敷は本堂のすぐ傍の狭い
室でしたが、彼はそこで自分の思う通りに勉強ができたのを喜んでいるらしく見えました。私はその時彼の生活の段々坊さんらしくなって行くのを認めたように思います。彼は
手頸に
珠数を懸けていました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する
真似をして見せました。彼はこうして日に
何遍も珠数の輪を勘定するらしかったのです。ただしその意味は私には
解りません。円い輪になっているものを一粒ずつ数えてゆけば、どこまで数えていっても終局はありません。Kはどんな所でどんな心持がして、
爪繰る手を留めたでしょう。
詰らない事ですが、私はよくそれを思うのです。
私はまた彼の室に聖書を見ました。私はそれまでにお
経の名を
度々彼の口から聞いた覚えがありますが、
基督教については、問われた事も答えられた
例もなかったのですから、ちょっと驚きました。私はその
理由を
訊ねずにはいられませんでした。Kは理由はないといいました。これほど人の
有難がる書物なら読んでみるのが当り前だろうともいいました。その上彼は機会があったら、『コーラン』も読んでみるつもりだといいました。彼はモハメッドと剣という言葉に大いなる興味をもっているようでした。
二年目の夏に彼は国から催促を受けてようやく帰りました。帰っても専門の事は何にもいわなかったものとみえます。
家でもまたそこに気が付かなかったのです。あなたは学校教育を受けた人だから、こういう消息をよく解しているでしょうが、世間は学生の生活だの、学校の規則だのに関して、驚くべく無知なものです。我々に何でもない事が
一向外部へは通じていません。我々はまた比較的内部の空気ばかり吸っているので、校内の事は細大ともに世の中に知れ渡っているはずだと思い過ぎる癖があります。Kはその点にかけて、私より世間を知っていたのでしょう、澄ました顔でまた戻って来ました。国を立つ時は私もいっしょでしたから、汽車へ乗るや
否やすぐどうだったとKに問いました。Kはどうでもなかったと答えたのです。
三度目の夏はちょうど私が永久に父母の墳墓の地を去ろうと決心した年です。私はその時Kに帰国を勧めましたが、Kは応じませんでした。そう
毎年家へ帰って何をするのだというのです。彼はまた踏み
留まって勉強するつもりらしかったのです。私は仕方なしに一人で東京を立つ事にしました。私の郷里で暮らしたその二カ月間が、私の運命にとって、いかに
波瀾に富んだものかは、前に書いた通りですから繰り返しません。私は不平と
幽欝と孤独の
淋しさとを一つ胸に
抱いて、九月に
入ってまたKに
逢いました。すると彼の運命もまた私と同様に変調を示していました。彼は私の知らないうちに、
養家先へ手紙を出して、こっちから自分の
詐りを白状してしまったのです。彼は最初からその覚悟でいたのだそうです。
今更仕方がないから、お前の好きなものをやるより
外に
途はあるまいと、向うにいわせるつもりもあったのでしょうか。とにかく大学へ入ってまでも養父母を
欺き通す気はなかったらしいのです。また欺こうとしても、そう長く続くものではないと見抜いたのかも知れません。
「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。親を
騙すような
不埒なものに学資を送る事はできないという厳しい返事をすぐ寄こしたのです。Kはそれを
私に見せました。Kはまたそれと前後して実家から受け取った
書翰も見せました。これにも前に劣らないほど厳しい
詰責の言葉がありました。
養家先へ対して済まないという義理が加わっているからでもありましょうが、こっちでも
一切構わないと書いてありました。Kがこの事件のために復籍してしまうか、それとも
他に妥協の道を講じて、依然養家に
留まるか、そこはこれから起る問題として、差し当りどうかしなければならないのは、月々に必要な学資でした。
私はその点についてKに何か
考えがあるのかと尋ねました。Kは
夜学校の教師でもするつもりだと答えました。その時分は今に比べると、
存外世の中が
寛ろいでいましたから、内職の口はあなたが考えるほど
払底でもなかったのです。私はKがそれで充分やって行けるだろうと考えました。しかし私には私の責任があります。Kが養家の希望に
背いて、自分の行きたい道を行こうとした時、賛成したものは私です。私はそうかといって手を
拱いでいる訳にゆきません。私はその場で物質的の補助をすぐ申し出しました。するとKは一も二もなくそれを
跳ね付けました。彼の性格からいって、自活の方が友達の保護の
下に立つより
遥に快よく思われたのでしょう。彼は大学へはいった以上、自分一人ぐらいどうかできなければ男でないような事をいいました。私は私の責任を
完うするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。それで彼の思う通りにさせて、私は手を引きました。
Kは自分の望むような口をほどなく探し出しました。しかし時間を
惜しむ彼にとって、この仕事がどのくらい
辛かったかは想像するまでもない事です。彼は今まで通り勉強の手をちっとも
緩めずに、新しい荷を
背負って猛進したのです。私は彼の健康を
気遣いました。しかし
剛気な彼は笑うだけで、少しも私の注意に取り合いませんでした。
同時に彼と養家との関係は、段々こん
絡がって来ました。時間に余裕のなくなった彼は、前のように私と話す機会を奪われたので、私はついにその
顛末を詳しく聞かずにしまいましたが、解決のますます困難になってゆく事だけは承知していました。人が仲に入って調停を試みた事も知っていました。その人は手紙でKに帰国を
促したのですが、Kは到底
駄目だといって、応じませんでした。この
剛情なところが、――Kは学年中で帰れないのだから仕方がないといいましたけれども、向うから見れば剛情でしょう。そこが事態をますます険悪にしたようにも見えました。彼は養家の感情を害すると共に、実家の
怒りも買うようになりました。私が心配して双方を融和するために手紙を書いた時は、もう何の
効果もありませんでした。私の手紙は
一言の返事さえ受けずに葬られてしまったのです。私も腹が立ちました。今までも
行掛り上、Kに同情していた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。
最後にKはとうとう復籍に決しました。養家から出してもらった学資は、実家で弁償する事になったのです。その代り実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。昔の言葉でいえば、まあ
勘当なのでしょう。あるいはそれほど強いものでなかったかも知れませんが、当人はそう解釈していました。Kは母のない男でした。彼の性格の一面は、たしかに
継母に育てられた結果とも見る事ができるようです。もし彼の実の母が生きていたら、あるいは彼と実家との関係に、こうまで
隔たりができずに済んだかも知れないと私は思うのです。彼の父はいうまでもなく
僧侶でした。けれども義理堅い点において、むしろ
武士に似たところがありはしないかと疑われます。
「Kの事件が一段落ついた
後で、
私は彼の姉の夫から長い封書を受け取りました。Kの養子に行った先は、この人の親類に当るのですから、彼を周旋した時にも、彼を復籍させた時にも、この人の意見が重きをなしていたのだと、Kは私に話して聞かせました。
手紙にはその後Kがどうしているか知らせてくれと書いてありました。姉が心配しているから、なるべく早く返事を
貰いたいという依頼も付け加えてありました。Kは寺を
嗣いだ兄よりも、
他家へ縁づいたこの姉を好いていました。彼らはみんな一つ腹から生れた
姉弟ですけれども、この姉とKとの間には
大分年歯の差があったのです。それでKの
小供の時分には、
継母よりもこの姉の方が、かえって本当の母らしく見えたのでしょう。
私はKに手紙を見せました。Kは何ともいいませんでしたけれども、自分の所へこの姉から同じような意味の書状が二、三度来たという事を打ち明けました。Kはそのたびに心配するに及ばないと答えてやったのだそうです。運悪くこの姉は生活に余裕のない家に片付いたために、いくらKに同情があっても、物質的に弟をどうしてやる訳にも行かなかったのです。
私はKと同じような返事を彼の義兄
宛で出しました。その
中に、万一の場合には私がどうでもするから、安心するようにという意味を強い言葉で書き現わしました。これは
固より私の
一存でした。Kの
行先を心配するこの姉に安心を与えようという好意は無論含まれていましたが、私を
軽蔑したとより
外に取りようのない彼の実家や
養家に対する意地もあったのです。
Kの復籍したのは一年生の時でした。それから二年生の
中頃になるまで、約一年半の間、彼は独力で
己れを支えていったのです。ところがこの過度の労力が次第に彼の健康と精神の上に影響して来たように見え出しました。それには無論養家を出る出ないの
蒼蠅い問題も手伝っていたでしょう。彼は段々
感傷的になって来たのです。時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で
背負って立っているような事をいいます。そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。それから自分の未来に
横たわる
光明が、次第に彼の眼を
遠退いて行くようにも思って、いらいらするのです。学問をやり始めた時には、誰しも偉大な抱負をもって、新しい旅に
上るのが常ですが、一年と立ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの
鈍いのに気が付いて、過半はそこで失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の
焦慮り方はまた普通に比べると
遥かに
甚しかったのです。私はついに彼の気分を落ち付けるのが
専一だと考えました。
私は彼に向って、余計な仕事をするのは
止せといいました。そうして当分
身体を楽にして、遊ぶ方が大きな将来のために得策だと忠告しました。
剛情なKの事ですから、容易に私のいう事などは聞くまいと、かねて予期していたのですが、実際いい出して見ると、思ったよりも説き落すのに骨が折れたので弱りました。Kはただ学問が自分の目的ではないと主張するのです。意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、まるで
酔興です。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。彼はむしろ神経衰弱に
罹っているくらいなのです。私は仕方がないから、彼に向って
至極同感であるような様子を見せました。自分もそういう点に向って、人生を進むつもりだったとついには明言しました。(もっともこれは私に取ってまんざら空虚な言葉でもなかったのです。Kの説を聞いていると、段々そういうところに釣り込まれて来るくらい、彼には力があったのですから)。最後に私はKといっしょに住んで、いっしょに向上の
路を
辿って行きたいと
発議しました。私は彼の剛情を折り曲げるために、彼の前に
跪く事をあえてしたのです。そうして
漸との事で彼を私の家に連れて来ました。
「私の座敷には控えの
間というような四畳が付属していました。玄関を上がって私のいる所へ通ろうとするには、ぜひこの四畳を横切らなければならないのだから、実用の点から見ると、
至極不便な
室でした。私はここへKを入れたのです。もっとも最初は同じ八畳に二つ机を並べて、次の間を共有にして置く考えだったのですが、Kは狭苦しくっても一人でいる方が
好いといって、自分でそっちのほうを
択んだのです。
前にも話した通り、奥さんは私のこの所置に対して始めは不賛成だったのです。下宿屋ならば、一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商売でないのだから、なるべくなら
止した方が
好いというのです。私が決して世話の焼ける人でないから構うまいというと、世話は焼けないでも、気心の知れない人は
厭だと答えるのです。それでは今
厄介になっている私だって同じ事ではないかと
詰ると、私の気心は初めからよく分っていると弁解して
已まないのです。私は苦笑しました。すると奥さんはまた理屈の方向を
更えます。そんな人を連れて来るのは、私のために悪いから
止せといい直します。なぜ私のために悪いかと聞くと、今度は向うで苦笑するのです。
実をいうと私だって
強いてKといっしょにいる必要はなかったのです。けれども月々の費用を金の形で彼の前に並べて見せると、彼はきっとそれを受け取る時に
躊躇するだろうと思ったのです。彼はそれほど独立心の強い男でした。だから私は彼を私の
宅へ置いて、
二人前の食料を彼の知らない
間にそっと奥さんの手に渡そうとしたのです。しかし私はKの経済問題について、
一言も奥さんに打ち明ける気はありませんでした。
私はただKの健康について
云々しました。一人で置くとますます人間が
偏屈になるばかりだからといいました。それに付け足して、Kが
養家と
折合の悪かった事や、実家と離れてしまった事や、色々話して聞かせました。私は
溺れかかった人を抱いて、自分の熱を向うに移してやる覚悟で、Kを引き取るのだと告げました。そのつもりであたたかい面倒を見てやってくれと、奥さんにもお嬢さんにも頼みました。私はここまで来て
漸々奥さんを説き伏せたのです。しかし私から何にも聞かないKは、この
顛末をまるで知らずにいました。私もかえってそれを満足に思って、のっそり引き移って来たKを、知らん顔で迎えました。
奥さんとお嬢さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話や
何かをしてくれました。すべてそれを私に対する好意から来たのだと解釈した私は、心のうちで喜びました。――Kが相変らずむっちりした様子をしているにもかかわらず。
私がKに向って新しい
住居の心持はどうだと聞いた時に、彼はただ
一言悪くないといっただけでした。私からいわせれば悪くないどころではないのです。彼の今までいた所は北向きの湿っぽい
臭いのする汚い
室でした。
食物も室
相応に粗末でした。私の家へ引き移った彼は、
幽谷から
喬木に移った趣があったくらいです。それをさほどに思う
気色を見せないのは、一つは彼の強情から来ているのですが、一つは彼の主張からも出ているのです。仏教の教義で養われた彼は、衣食住についてとかくの
贅沢をいうのをあたかも不道徳のように考えていました。なまじい昔の高僧だとか
聖徒だとかの
伝を読んだ彼には、ややともすると精神と肉体とを切り離したがる癖がありました。肉を
鞭撻すれば霊の光輝が増すように感ずる場合さえあったのかも知れません。
私はなるべく彼に
逆らわない方針を取りました。私は氷を
日向へ出して
溶かす工夫をしたのです。今に
融けて温かい水になれば、自分で自分に気が付く時機が来るに違いないと思ったのです。
「私は奥さんからそういう
風に取り扱われた結果、段々快活になって来たのです。それを自覚していたから、同じものを今度はKの上に応用しようと試みたのです。Kと私とが性格の上において、
大分相違のある事は、長く
交際って来た私によく
解っていましたけれども、私の神経がこの家庭に入ってから多少
角が取れたごとく、Kの心もここに置けばいつか沈まる事があるだろうと考えたのです。
Kは私より強い決心を有している男でした。勉強も私の倍ぐらいはしたでしょう。その上持って生れた頭の
質が私よりもずっとよかったのです。
後では専門が違いましたから何ともいえませんが、同じ級にいる
間は、中学でも高等学校でも、Kの方が常に上席を占めていました。私には平生から何をしてもKに及ばないという自覚があったくらいです。けれども私が
強いてKを私の
宅へ
引っ
張って来た時には、私の方がよく事理を
弁えていると信じていました。私にいわせると、彼は我慢と忍耐の区別を了解していないように思われたのです。これはとくにあなたのために付け足しておきたいのですから聞いて下さい。肉体なり精神なりすべて我々の能力は、外部の
刺戟で、発達もするし、破壊されもするでしょうが、どっちにしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、よく考えないと、非常に険悪な方向へむいて進んで行きながら、自分はもちろん
傍のものも気が付かずにいる恐れが生じてきます。医者の説明を聞くと、人間の胃袋ほど横着なものはないそうです。
粥ばかり食っていると、それ以上の堅いものを
消化す力がいつの間にかなくなってしまうのだそうです。だから何でも食う
稽古をしておけと医者はいうのです。けれどもこれはただ慣れるという意味ではなかろうと思います。次第に刺戟を増すに従って、次第に営養機能の抵抗力が強くなるという意味でなくてはなりますまい。もし反対に胃の力の方がじりじり弱って行ったなら結果はどうなるだろうと想像してみればすぐ
解る事です。Kは私より偉大な男でしたけれども、全くここに気が付いていなかったのです。ただ困難に慣れてしまえば、しまいにその困難は何でもなくなるものだと
極めていたらしいのです。
艱苦を繰り返せば、繰り返すというだけの
功徳で、その艱苦が気にかからなくなる時機に
邂逅えるものと信じ切っていたらしいのです。
私はKを説くときに、ぜひそこを明らかにしてやりたかったのです。しかしいえばきっと反抗されるに
極っていました。また昔の人の例などを、
引合に持って来るに違いないと思いました。そうなれば私だって、その人たちとKと違っている点を明白に述べなければならなくなります。それを
首肯ってくれるようなKならいいのですけれども、彼の性質として、議論がそこまでゆくと容易に
後へは返りません。なお先へ出ます。そうして、口で先へ出た通りを、行為で実現しに
掛ります。彼はこうなると恐るべき男でした。偉大でした。自分で自分を破壊しつつ進みます。結果から見れば、彼はただ自己の成功を打ち砕く意味において、偉大なのに過ぎないのですけれども、それでも決して平凡ではありませんでした。彼の
気性をよく知った私はついに何ともいう事ができなかったのです。その上私から見ると、彼は前にも述べた通り、多少神経衰弱に
罹っていたように思われたのです。よし私が彼を説き伏せたところで、彼は必ず激するに違いないのです。私は彼と
喧嘩をする事は恐れてはいませんでしたけれども、私が孤独の感に
堪えなかった自分の境遇を顧みると、親友の彼を、同じ孤独の境遇に置くのは、私に取って忍びない事でした。一歩進んで、より孤独な境遇に突き落すのはなお
厭でした。それで私は彼が
宅へ引き移ってからも、当分の間は批評がましい批評を彼の上に加えずにいました。ただ穏やかに周囲の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。
「私は
蔭へ
廻って、奥さんとお嬢さんに、なるべくKと話をするように頼みました。私は彼のこれまで通って来た無言生活が彼に
祟っているのだろうと信じたからです。使わない鉄が腐るように、彼の心には
錆が出ていたとしか、私には思われなかったのです。
奥さんは取り付き
把のない人だといって笑っていました。お嬢さんはまたわざわざその例を挙げて私に説明して聞かせるのです。火鉢に火があるかと尋ねると、Kはないと答えるそうです。では持って
来ようというと、
要らないと断るそうです。寒くはないかと聞くと、寒いけれども要らないんだといったぎり応対をしないのだそうです。私はただ苦笑している訳にもゆきません。気の毒だから、何とかいってその場を取り
繕っておかなければ済まなくなります。もっともそれは春の事ですから、
強いて火にあたる必要もなかったのですが、これでは取り付き把がないといわれるのも無理はないと思いました。
それで私はなるべく、自分が中心になって、女二人とKとの連絡をはかるように
力めました。Kと私が話している所へ
家の人を呼ぶとか、または家の人と私が一つ
室に落ち合った所へ、Kを引っ張り出すとか、どっちでもその場合に応じた方法をとって、彼らを接近させようとしたのです。もちろんKはそれをあまり好みませんでした。ある時はふいと
起って室の外へ出ました。またある時はいくら呼んでもなかなか出て来ませんでした。Kはあんな
無駄話をしてどこが面白いというのです。私はただ笑っていました。しかし心の
中では、Kがそのために私を
軽蔑していることがよく
解りました。
私はある意味から見て実際彼の軽蔑に
価していたかも知れません。彼の眼の着け所は私より
遥かに高いところにあったともいわれるでしょう。私もそれを
否みはしません。しかし眼だけ高くって、
外が釣り合わないのは手もなく
不具です。私は何を
措いても、この際彼を人間らしくするのが専一だと考えたのです。いくら彼の頭が偉い人の
影像で
埋まっていても、彼自身が偉くなってゆかない以上は、何の役にも立たないという事を発見したのです。私は彼を人間らしくする第一の手段として、まず異性の
傍に彼を
坐らせる方法を講じたのです。そうしてそこから出る空気に彼を
曝した上、
錆び付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。
この試みは次第に成功しました。初めのうち融合しにくいように見えたものが、段々一つに
纏まって
来出しました。彼は自分以外に世界のある事を少しずつ悟ってゆくようでした。彼はある日私に向って、女はそう
軽蔑すべきものでないというような事をいいました。Kははじめ女からも、私同様の知識と学問を要求していたらしいのです。そうしてそれが見付からないと、すぐ軽蔑の念を生じたものと思われます。今までの彼は、性によって立場を変える事を知らずに、同じ視線ですべての
男女を一様に観察していたのです。私は彼に、もし我ら二人だけが男同志で永久に話を交換しているならば、二人はただ直線的に先へ延びて行くに過ぎないだろうといいました。彼はもっともだと答えました。私はその時お嬢さんの事で、多少夢中になっている
頃でしたから、自然そんな言葉も使うようになったのでしょう。しかし裏面の消息は彼には
一口も打ち明けませんでした。
今まで書物で城壁をきずいてその中に立て
籠っていたようなKの心が、段々打ち解けて来るのを見ているのは、私に取って何よりも愉快でした。私は最初からそうした目的で事をやり出したのですから、自分の成功に伴う喜悦を感ぜずにはいられなかったのです。私は本人にいわない代りに、奥さんとお嬢さんに自分の思った通りを話しました。二人も満足の様子でした。
「Kと
私は同じ科におりながら、専攻の学問が違っていましたから、自然出る時や帰る時に遅速がありました。私の方が早ければ、ただ彼の
空室を通り抜けるだけですが、遅いと簡単な
挨拶をして自分の部屋へはいるのを例にしていました。Kはいつもの眼を書物からはなして、
襖を開ける私をちょっと見ます。そうしてきっと今帰ったのかといいます。私は何も答えないで
点頭く事もありますし、あるいはただ「うん」と答えて行き過ぎる場合もあります。
ある日私は
神田に用があって、帰りがいつもよりずっと
後れました。私は急ぎ足に門前まで来て、
格子をがらりと開けました。それと同時に、私はお嬢さんの声を聞いたのです。声は
慥かにKの
室から出たと思いました。玄関から
真直に行けば、茶の間、お嬢さんの部屋と二つ続いていて、それを左へ折れると、Kの室、私の室、という
間取なのですから、どこで誰の声がしたくらいは、久しく
厄介になっている私にはよく分るのです。私はすぐ格子を締めました。するとお嬢さんの声もすぐ
已みました。私が靴を脱いでいるうち、――私はその時分からハイカラで
手数のかかる
編上を
穿いていたのですが、――私がこごんでその
靴紐を解いているうち、Kの部屋では誰の声もしませんでした。私は変に思いました。ことによると、私の
疳違かも知れないと考えたのです。しかし私がいつもの通りKの室を抜けようとして、襖を開けると、そこに二人はちゃんと
坐っていました。Kは例の通り今帰ったかといいました。お嬢さんも「お帰り」と坐ったままで挨拶しました。私には気のせいかその簡単な挨拶が少し
硬いように聞こえました。どこかで自然を踏み
外しているような調子として、私の
鼓膜に響いたのです。私はお嬢さんに、奥さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家のうちが平常より何だかひっそりしていたから聞いて見ただけの事です。
奥さんははたして留守でした。
下女も奥さんといっしょに出たのでした。だから
家に残っているのは、Kとお嬢さんだけだったのです。私はちょっと首を傾けました。今まで長い間世話になっていたけれども、奥さんがお嬢さんと私だけを置き去りにして、
宅を空けた
例はまだなかったのですから。私は何か急用でもできたのかとお嬢さんに聞き返しました。お嬢さんはただ笑っているのです。私はこんな時に笑う女が嫌いでした。若い女に共通な点だといえばそれまでかも知れませんが、お嬢さんも下らない事によく笑いたがる女でした。しかしお嬢さんは私の顔色を見て、すぐ
不断の表情に帰りました。急用ではないが、ちょっと用があって出たのだと
真面目に答えました。下宿人の私にはそれ以上問い詰める権利はありません。私は沈黙しました。
私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も帰って来ました。やがて
晩食の食卓でみんなが顔を合わせる時刻が来ました。下宿した当座は万事客扱いだったので、食事のたびに下女が
膳を運んで来てくれたのですが、それがいつの間にか崩れて、
飯時には向うへ呼ばれて行く習慣になっていたのです。Kが新しく引き移った時も、私が主張して彼を私と同じように取り扱わせる事に
極めました。その代り私は薄い板で造った足の
畳み込める
華奢な食卓を奥さんに
寄附しました。今ではどこの
宅でも使っているようですが、その
頃そんな卓の周囲に並んで飯を食う家族はほとんどなかったのです。私はわざわざ
御茶の
水の家具屋へ行って、私の工夫通りにそれを造り
上げさせたのです。
私はその卓上で奥さんからその日いつもの時刻に
肴屋が来なかったので、私たちに食わせるものを買いに町へ行かなければならなかったのだという説明を聞かされました。なるほど客を置いている以上、それももっともな事だと私が考えた時、お嬢さんは私の顔を見てまた笑い出しました。しかし今度は奥さんに
叱られてすぐ
已めました。
「一週間ばかりして
私はまたKとお嬢さんがいっしょに話している
室を通り抜けました。その時お嬢さんは私の顔を見るや
否や笑い出しました。私はすぐ何がおかしいのかと聞けばよかったのでしょう。それをつい黙って自分の居間まで来てしまったのです。だからKもいつものように、今帰ったかと声を掛ける事ができなくなりました。お嬢さんはすぐ
障子を開けて茶の間へ入ったようでした。
夕飯の時、お嬢さんは私を変な人だといいました。私はその時もなぜ変なのか聞かずにしまいました。ただ奥さんが
睨めるような眼をお嬢さんに向けるのに気が付いただけでした。
私は食後Kを散歩に連れ出しました。二人は
伝通院の裏手から植物園の通りをぐるりと
廻ってまた
富坂の下へ出ました。散歩としては短い方ではありませんでしたが、その
間に話した事は
極めて少なかったのです。性質からいうと、Kは私よりも無口な男でした。私も多弁な方ではなかったのです。しかし私は歩きながら、できるだけ話を彼に
仕掛けてみました。私の問題はおもに二人の下宿している家族についてでした。私は奥さんやお嬢さんを彼がどう見ているか知りたかったのです。ところが彼は海のものとも山のものとも
見分けの付かないような返事ばかりするのです。しかもその返事は要領を得ないくせに、極めて簡単でした。彼は二人の女に関してよりも、専攻の学科の方に多くの注意を払っているように見えました。もっともそれは二学年目の試験が目の前に
逼っている
頃でしたから、普通の人間の立場から見て、彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。その上彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとかいって、無学な私を驚かせました。
我々が首尾よく試験を済ましました時、二人とももう
後一年だといって奥さんは喜んでくれました。そういう奥さんの
唯一の
誇りとも見られるお嬢さんの卒業も、間もなく来る順になっていたのです。Kは私に向って、女というものは何にも知らないで学校を出るのだといいました。Kはお嬢さんが学問以外に
稽古している
縫針だの琴だの
活花だのを、まるで眼中に置いていないようでした。私は彼の
迂闊を笑ってやりました。そうして女の価値はそんな所にあるものでないという昔の議論をまた彼の前で繰り返しました。彼は別段
反駁もしませんでした。その代りなるほどという様子も見せませんでした。私にはそこが愉快でした。彼のふんといったような調子が、依然として女を
軽蔑しているように見えたからです。女の代表者として私の知っているお嬢さんを、物の
数とも思っていないらしかったからです。今から回顧すると、私のKに対する
嫉妬は、その時にもう充分
萌していたのです。
私は夏休みにどこかへ行こうかとKに相談しました。Kは行きたくないような
口振を見せました。無論彼は自分の自由意志でどこへも行ける
身体ではありませんが、私が誘いさえすれば、またどこへ行っても
差支えない身体だったのです。私はなぜ行きたくないのかと彼に尋ねてみました。彼は理由も何にもないというのです。
宅で書物を読んだ方が自分の勝手だというのです。私が避暑地へ行って涼しい所で勉強した方が、身体のためだと主張すると、それなら私一人行ったらよかろうというのです。しかし私はK一人をここに残して行く気にはなれないのです。私はただでさえKと宅のものが段々親しくなって行くのを見ているのが、余り
好い心持ではなかったのです。私が最初希望した通りになるのが、何で私の心持を悪くするのかといわれればそれまでです。私は馬鹿に違いないのです。
果しのつかない二人の議論を見るに見かねて奥さんが仲へ入りました。二人はとうとういっしょに
房州へ行く事になりました。
「Kはあまり旅へ出ない男でした。
私にも
房州は始めてでした。二人は何にも知らないで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。たしか
保田とかいいました。今ではどんなに変っているか知りませんが、その
頃はひどい漁村でした。
第一どこもかしこも
腥いのです。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを
擦り
剥くのです。
拳のような大きな石が打ち寄せる波に
揉まれて、始終ごろごろしているのです。
私はすぐ
厭になりました。しかしKは
好いとも悪いともいいません。少なくとも
顔付だけは平気なものでした。そのくせ彼は海へ入るたんびにどこかに
怪我をしない事はなかったのです。私はとうとう彼を説き伏せて、そこから
富浦に行きました。富浦からまた
那古に移りました。すべてこの沿岸はその時分から
重に学生の集まる所でしたから、どこでも我々にはちょうど
手頃の海水浴場だったのです。Kと私はよく海岸の岩の上に
坐って、遠い海の色や、近い水の底を
眺めました。岩の上から
見下す水は、また特別に
綺麗なものでした。赤い色だの
藍の色だの、普通
市場に
上らないような色をした
小魚が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでいるのが鮮やかに指さされました。
私はそこに坐って、よく書物をひろげました。Kは何もせずに黙っている方が多かったのです。私にはそれが考えに
耽っているのか、景色に
見惚れているのか、もしくは好きな想像を
描いているのか、全く
解らなかったのです。私は時々眼を上げて、Kに何をしているのだと聞きました。Kは何もしていないと
一口答えるだけでした。私は自分の
傍にこうじっとして坐っているものが、Kでなくって、お嬢さんだったらさぞ愉快だろうと思う事がよくありました。それだけならまだいいのですが、時にはKの方でも私と同じような希望を
抱いて岩の上に坐っているのではないかしらと
忽然疑い出すのです。すると落ち付いてそこに書物をひろげているのが急に厭になります。私は不意に立ち
上ります。そうして遠慮のない大きな声を出して
怒鳴ります。
纏まった詩だの歌だのを面白そうに
吟ずるような
手緩い事はできないのです。ただ野蛮人のごとくにわめくのです。ある時私は突然彼の
襟頸を後ろからぐいと
攫みました。こうして海の中へ突き落したらどうするといってKに聞きました。Kは動きませんでした。後ろ向きのまま、ちょうど
好い、やってくれと答えました。私はすぐ首筋を
抑えた手を放しました。
Kの神経衰弱はこの時もう
大分よくなっていたらしいのです。それと反比例に、私の方は段々過敏になって来ていたのです。私は自分より落ち付いているKを見て、
羨ましがりました。また憎らしがりました。彼はどうしても私に取り合う
気色を見せなかったからです。私にはそれが一種の自信のごとく映りました。しかしその自信を彼に認めたところで、私は決して満足できなかったのです。私の疑いはもう一歩前へ出て、その性質を
明らめたがりました。彼は学問なり事業なりについて、これから自分の進んで行くべき前途の
光明を再び取り返した心持になったのだろうか。単にそれだけならば、Kと私との利害に何の衝突の起る訳はないのです。私はかえって世話のし
甲斐があったのを
嬉しく思うくらいなものです。けれども彼の安心がもしお嬢さんに対してであるとすれば、私は決して彼を許す事ができなくなるのです。不思議にも彼は私のお嬢さんを愛している
素振に全く気が付いていないように見えました。無論私もそれがKの眼に付くようにわざとらしくは振舞いませんでしたけれども。Kは元来そういう点にかけると
鈍い人なのです。私には最初からKなら大丈夫という安心があったので、彼をわざわざ
宅へ連れて来たのです。
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