始め
私は理解のある
女性として奥さんに対していた。私がその気で話しているうちに、奥さんの様子が次第に変って来た。奥さんは私の頭脳に訴える代りに、私の
心臓を動かし始めた。自分と夫の間には何の
蟠まりもない、またないはずであるのに、やはり何かある。それだのに眼を
開けて
見極めようとすると、やはり
何にもない。奥さんの苦にする要点はここにあった。
奥さんは最初世の中を見る先生の眼が
厭世的だから、その結果として自分も嫌われているのだと断言した。そう断言しておきながら、ちっともそこに落ち付いていられなかった。底を割ると、かえってその逆を考えていた。先生は自分を嫌う結果、とうとう世の中まで
厭になったのだろうと推測していた。けれどもどう骨を折っても、その推測を突き留めて事実とする事ができなかった。先生の態度はどこまでも
良人らしかった。親切で優しかった。疑いの
塊りをその日その日の
情合で包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。
「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあなたのいう
人世観とか何とかいうものから、ああなったのか。隠さずいって
頂戴」
私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答えが何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。そうして私はそこに私の知らないあるものがあると信じていた。
「私には
解りません」
奥さんは予期の
外れた時に見る
憐れな表情をその
咄嗟に現わした。私はすぐ私の言葉を継ぎ足した。
「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通りを奥さんに伝えるだけです。先生は
嘘を
吐かない
方でしょう」
奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。
「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」
「先生がああいう
風になった
源因についてですか」
「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれるんですが、……」
「どんな事ですか」
奥さんはいい渋って
膝の上に置いた自分の手を眺めていた。
「あなた判断して下すって。いうから」
「私にできる判断ならやります」
「みんなはいえないのよ。みんないうと
叱られるから。叱られないところだけよ」
私は緊張して
唾液を
呑み込んだ。
「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の
好いお友達が一人あったのよ。その
方がちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」
奥さんは私の耳に
私語くような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうして」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。
「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから
後なんです。先生の性質が段々変って来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」
「その人の墓ですか、
雑司ヶ谷にあるのは」
「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。私はそれが知りたくって
堪らないんです。だからそこを一つあなたに判断して頂きたいと思うの」
私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。
私は私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。奥さんもまたできるだけ私によって慰められたそうに見えた。それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。けれども私はもともと事の
大根を
攫んでいなかった。奥さんの不安も実はそこに
漂う薄い雲に似た疑惑から出て来ていた。事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。知れているところでも
悉皆は私に話す事ができなかった。したがって慰める私も、慰められる奥さんも、共に波に浮いて、ゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、
覚束ない私の判断に
縋り付こうとした。
十時
頃になって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、前に
坐っている私をそっちのけにして立ち上がった。そうして
格子を開ける先生をほとんど
出合い
頭に迎えた。私は取り残されながら、
後から奥さんに
尾いて行った。
下女だけは
仮寝でもしていたとみえて、ついに出て来なかった。
先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。今しがた奥さんの美しい眼のうちに
溜った涙の光と、それから黒い
眉毛の根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変化を異常なものとして注意深く
眺めた。もしそれが
詐りでなかったならば、(実際それは詐りとは思えなかったが)、今までの奥さんの訴えは
感傷を
玩ぶためにとくに私を相手に
拵えた、
徒らな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっともその時の私には奥さんをそれほど批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。
先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。それから「来ないんで
張合が抜けやしませんか」といった。
帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。その調子は忙しいところを暇を
潰させて気の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。奥さんはそういいながら、
先刻出した西洋菓子の残りを、紙に包んで私の手に持たせた。私はそれを
袂へ入れて、人通りの少ない
夜寒の
小路を曲折して
賑やかな町の方へ急いだ。
私はその晩の事を記憶のうちから
抽き抜いてここへ
詳しく書いた。これは書くだけの必要があるから書いたのだが、実をいうと、奥さんに菓子を
貰って帰るときの気分では、それほど当夜の会話を重く見ていなかった。私はその
翌日午飯を食いに学校から帰ってきて、
昨夜机の上に
載せて置いた菓子の包みを見ると、すぐその中からチョコレートを塗った
鳶色のカステラを出して
頬張った。そうしてそれを食う時に、
必竟この菓子を私にくれた二人の
男女は、幸福な
一対として世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。
秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。私は先生の
宅へ
出はいりをするついでに、衣服の
洗い
張りや
仕立て
方などを奥さんに頼んだ。それまで
繻絆というものを着た事のない私が、シャツの上に黒い襟のかかったものを重ねるようになったのはこの時からであった。子供のない奥さんは、そういう世話を焼くのがかえって
退屈凌ぎになって、
結句身体の薬だぐらいの事をいっていた。
「こりゃ
手織りね。こんな
地の
好い着物は今まで縫った事がないわ。その代り縫い
悪いのよそりゃあ。まるで針が立たないんですもの。お
蔭で針を二本折りましたわ」
こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に
面倒くさいという顔をしなかった。
冬が来た時、
私は偶然国へ帰らなければならない事になった。私の母から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。
父はかねてから
腎臓を病んでいた。中年以後の人にしばしば見る通り、父のこの
病は慢性であった。その代り要心さえしていれば急変のないものと当人も家族のものも信じて疑わなかった。現に父は養生のお
蔭一つで、
今日までどうかこうか
凌いで来たように客が来ると
吹聴していた。その父が、母の書信によると、庭へ出て何かしている
機に突然
眩暈がして引ッ繰り返った。
家内のものは軽症の
脳溢血と思い違えて、すぐその手当をした。
後で医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎臓病とを結び付けて考えるようになったのである。
冬休みが来るにはまだ少し
間があった。私は学期の終りまで待っていても
差支えあるまいと思って一日二日そのままにしておいた。するとその一日二日の間に、父の寝ている様子だの、母の心配している顔だのが時々眼に浮かんだ。そのたびに一種の心苦しさを
嘗めた私は、とうとう帰る決心をした。国から旅費を送らせる
手数と時間を省くため、私は
暇乞いかたがた先生の所へ行って、
要るだけの金を一時立て替えてもらう事にした。
先生は少し
風邪の気味で、座敷へ出るのが
臆劫だといって、私をその書斎に通した。書斎の
硝子戸から冬に
入って
稀に見るような懐かしい
和らかな日光が
机掛けの上に
射していた。先生はこの日あたりの
好い
室の中へ大きな火鉢を置いて、
五徳の上に懸けた
金盥から立ち
上る
湯気で、
呼吸の苦しくなるのを防いでいた。
「大病は
好いが、ちょっとした
風邪などはかえって
厭なものですね」といった先生は、苦笑しながら私の顔を見た。
先生は病気という病気をした事のない人であった。先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。
「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は
真平です。先生だって同じ事でしょう。試みにやってご覧になるとよく
解ります」
「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病に
罹りたいと思ってる」
私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。
「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」
先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。それを奥の
茶箪笥か何かの
抽出から出して来た奥さんは、白い半紙の上へ
鄭寧に重ねて、「そりゃご心配ですね」といった。
「
何遍も卒倒したんですか」と先生が聞いた。
「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」
「ええ」
先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。
「どうせむずかしいんでしょう」と私がいった。
「そうさね。私が代られれば代ってあげても
好いが。――
嘔気はあるんですか」
「どうですか、何とも書いてないから、
大方ないんでしょう」
「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」と奥さんがいった。
私はその晩の汽車で東京を立った。
父の病気は思ったほど悪くはなかった。それでも着いた時は、
床の上に
胡坐をかいて、「みんなが心配するから、まあ我慢してこう
凝としている。なにもう起きても
好いのさ」といった。しかしその
翌日からは母が止めるのも聞かずに、とうとう床を上げさせてしまった。母は
不承無性に
太織りの
蒲団を畳みながら「お父さんはお前が帰って来たので、急に気が強くおなりなんだよ」といった。
私には父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなかった。
私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。これは万一の事がある場合でなければ、容易に
父母の顔を見る自由の
利かない男であった。妹は他国へ
嫁いだ。これも急場の間に合うように、おいそれと呼び寄せられる女ではなかった。
兄妹三人のうちで、一番便利なのはやはり書生をしている私だけであった。その私が母のいい付け通り学校の課業を
放り出して、休み前に帰って来たという事が、父には大きな満足であった。
「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり
仰山な手紙を書くものだからいけない」
父は口ではこういった。こういったばかりでなく、今まで敷いていた
床を上げさせて、いつものような元気を示した。
「あんまり軽はずみをしてまた
逆回すといけませんよ」
私のこの注意を父は愉快そうにしかし
極めて軽く受けた。
「なに大丈夫、これでいつものように
要心さえしていれば」
実際父は大丈夫らしかった。家の中を自由に往来して、息も切れなければ、
眩暈も感じなかった。ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格別それを気に留めなかった。
私は先生に手紙を書いて
恩借の礼を述べた。正月上京する時に持参するからそれまで待ってくれるようにと断わった。そうして父の病状の思ったほど険悪でない事、この分なら当分安心な事、眩暈も
嘔気も皆無な事などを書き連ねた。最後に先生の
風邪についても
一言の見舞を
附け加えた。私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。
私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。出した後で父や母と先生の
噂などをしながら、
遥かに先生の書斎を想像した。
「こんど東京へ行くときには
椎茸でも持って行ってお上げ」
「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」
「
旨くはないが、別に
嫌いな人もないだろう」
私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。
先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、驚かされた。先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一本の手紙が私には大層な喜びになった。もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なかったが。
第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない事をちょっと断わっておきたい。私は先生の生前にたった二通の手紙しか
貰っていない。その一通は今いうこの簡単な返書で、あとの一通は先生の死ぬ前とくに私
宛で書いた大変長いものである。
父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど
戸外へは出なかった。一度天気のごく穏やかな日の午後庭へ下りた事があるが、その時は万一を
気遣って、私が引き添うように
傍に付いていた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑って応じなかった。
私は退屈な父の相手としてよく
将碁盤に向かった。二人とも無精な
性質なので、
炬燵にあたったまま、盤を
櫓の上へ
載せて、
駒を動かすたびに、わざわざ手を
掛蒲団の下から出すような事をした。時々
持駒を
失くして、次の勝負の来るまで双方とも知らずにいたりした。それを母が灰の中から
見付け出して、
火箸で
挟み上げるという
滑稽もあった。
「
碁だと盤が高過ぎる上に、足が着いているから、炬燵の上では打てないが、そこへ来ると将碁盤は
好いね、こうして楽に差せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」
父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。要するに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。始めのうちは珍しいので、この
隠居じみた娯楽が私にも相当の興味を与えたが、少し時日が
経つに
伴れて、若い私の気力はそのくらいな
刺戟で満足できなくなった。私は
金や
香車を握った
拳を頭の上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。
私は東京の事を考えた。そうして
漲る心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける
鼓動を聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた。
私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分らないほど
大人しい男であった。
他に認められるという点からいえばどっちも
零であった。それでいて、この将碁を差したがる父は、単なる娯楽の相手としても私には物足りなかった。かつて遊興のために
往来をした
覚えのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に影響を与えていた。ただ頭というのはあまりに
冷やか過ぎるから、私は胸といい直したい。肉のなかに先生の力が
喰い込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのごとくに驚いた。
私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々
陳腐になって来た。これは夏休みなどに国へ帰る誰でもが一様に経験する心持だろうと思うが、当座の一週間ぐらいは下にも置かないように、ちやほや
歓待されるのに、その峠を
定規通り通り越すと、あとはそろそろ家族の熱が冷めて来て、しまいには有っても無くっても構わないもののように粗末に取り扱われがちになるものである。私も滞在中にその峠を通り越した。その上私は国へ帰るたびに、父にも母にも
解らない変なところを東京から持って帰った。昔でいうと、
儒者の家へ
切支丹の
臭いを持ち込むように、私の持って帰るものは父とも母とも調和しなかった。無論私はそれを隠していた。けれども元々身に着いているものだから、出すまいと思っても、いつかそれが父や母の眼に
留まった。私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。
父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。念のためにわざわざ遠くから相当の医者を招いたりして、慎重に診察してもらってもやはり私の知っている以外に異状は認められなかった。私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。立つといい出すと、人情は妙なもので、父も母も反対した。
「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母がいった。
「まだ四、五日いても間に合うんだろう」と父がいった。
私は自分の
極めた
出立の日を動かさなかった。
東京へ帰ってみると、
松飾はいつか取り払われていた。町は寒い風の吹くに任せて、どこを見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。
私は
早速先生のうちへ金を返しに行った。例の
椎茸もついでに持って行った。ただ出すのは少し変だから、母がこれを差し上げてくれといいましたとわざわざ断って奥さんの前へ置いた。椎茸は新しい菓子折に入れてあった。
鄭寧に礼を述べた奥さんは、次の
間へ立つ時、その折を持って見て、軽いのに驚かされたのか、「こりゃ何の
御菓子」と聞いた。奥さんは懇意になると、こんなところに
極めて
淡泊な
小供らしい心を見せた。
二人とも父の病気について、色々
掛念の問いを繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった。
「なるほど
容体を聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気をつけないといけません」
先生は
腎臓の
病について私の知らない事を多く知っていた。
「自分で病気に
罹っていながら、気が付かないで平気でいるのがあの病の特色です。私の知ったある
士官は、とうとうそれでやられたが、全く
嘘のような死に方をしたんですよ。何しろ
傍に寝ていた
細君が看病をする暇もなんにもないくらいなんですからね。夜中にちょっと苦しいといって、細君を起したぎり、
翌る朝はもう死んでいたんです。しかも細君は夫が寝ているとばかり思ってたんだっていうんだから」
今まで楽天的に傾いていた私は急に不安になった。
「私の
父もそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね」
「医者は何というのです」
「医者は
到底治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」
「それじゃ
好いでしょう。医者がそういうなら。私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかもそれがずいぶん乱暴な軍人なんだから」
私はやや安心した。私の変化を
凝と見ていた先生は、それからこう付け足した。
「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても
脆いものですね。いつどんな事でどんな死にようをしないとも限らないから」
「先生もそんな事を考えてお
出ですか」
「いくら丈夫の私でも、
満更考えない事もありません」
先生の口元には微笑の影が見えた。
「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う
間に死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で」
「不自然な暴力って何ですか」
「何だかそれは私にも
解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のお
蔭ですね」
「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」
その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。先生のいった自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、
後は何らのこだわりを私の頭に残さなかった。私は今まで
幾度か手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。
その年の六月に卒業するはずの
私は、ぜひともこの論文を
成規通り四月いっぱいに書き上げてしまわなければならなかった。二、三、四と指を折って余る時日を勘定して見た時、私は少し自分の度胸を
疑った。
他のものはよほど前から材料を
蒐めたり、ノートを
溜めたりして、
余所目にも
忙しそうに見えるのに、私だけはまだ何にも手を着けずにいた。私にはただ年が改まったら大いにやろうという決心だけがあった。私はその決心でやり出した。そうして
忽ち動けなくなった。今まで大きな問題を
空に
描いて、骨組みだけはほぼでき上っているくらいに考えていた私は、頭を
抑えて悩み始めた。私はそれから論文の問題を小さくした。そうして練り上げた思想を系統的に
纏める手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょっと付け加える事にした。
私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。私がかつてその選択について先生の意見を尋ねた時、先生は
好いでしょうといった。
狼狽した気味の私は、
早速先生の所へ出掛けて、私の読まなければならない参考書を聞いた。先生は自分の知っている限りの知識を、快く私に与えてくれた上に、必要の書物を、二、三冊貸そうといった。しかし先生はこの点について
毫も私を指導する任に当ろうとしなかった。
「
近頃はあんまり書物を読まないから、新しい事は知りませんよ。学校の先生に聞いた方が好いでしょう」
先生は一時非常の読書家であったが、その
後どういう訳か、前ほどこの方面に興味が働かなくなったようだと、かつて奥さんから聞いた事があるのを、私はその時ふと思い出した。私は論文をよそにして、そぞろに口を開いた。
「先生はなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか」
「なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでしょう。それから……」
「それから、まだあるんですか」
「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早くいえば老い込んだのです」
先生の言葉はむしろ平静であった。世間に背中を向けた人の
苦味を帯びていなかっただけに、私にはそれほどの
手応えもなかった。私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに帰った。
それからの私はほとんど論文に
祟られた精神病者のように眼を赤くして苦しんだ。私は一年
前に卒業した友達について、色々様子を聞いてみたりした。そのうちの
一人は
締切の日に車で事務所へ
馳けつけて
漸く間に合わせたといった。他の一人は五時を十五分ほど
後らして持って行ったため、
危く
跳ね付けられようとしたところを、主任教授の好意でやっと受理してもらったといった。私は不安を感ずると共に度胸を
据えた。毎日机の前で精根のつづく限り働いた。でなければ、薄暗い書庫にはいって、高い本棚のあちらこちらを
見廻した。私の眼は
好事家が
骨董でも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。
梅が咲くにつけて寒い風は段々
向を南へ
更えて行った。それが
一仕切経つと、桜の
噂がちらほら私の耳に聞こえ出した。それでも私は馬車馬のように正面ばかり見て、論文に
鞭うたれた。私はついに四月の下旬が来て、やっと予定通りのものを書き上げるまで、先生の敷居を
跨がなかった。
私の自由になったのは、
八重桜の散った枝にいつしか青い葉が
霞むように伸び始める初夏の季節であった。私は
籠を抜け出した小鳥の心をもって、広い天地を
一目に見渡しながら、自由に
羽搏きをした。私はすぐ先生の
家へ行った。
枳殻の垣が黒ずんだ枝の上に、
萌るような芽を吹いていたり、
柘榴の枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔らかそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて初めてそんなものを見るような珍しさを覚えた。
先生は
嬉しそうな私の顔を見て、「もう論文は片付いたんですか、結構ですね」といった。私は「お
蔭でようやく済みました。もう何にもする事はありません」といった。
実際その時の私は、自分のなすべきすべての仕事がすでに
結了して、これから先は威張って遊んでいても構わないような晴やかな心持でいた。私は書き上げた自分の論文に対して充分の自信と満足をもっていた。私は先生の前で、しきりにその内容を
喋々した。先生はいつもの調子で、「なるほど」とか、「そうですか」とかいってくれたが、それ以上の批評は少しも加えなかった。私は物足りないというよりも、
聊か拍子抜けの気味であった。それでもその日私の気力は、
因循らしく見える先生の態度に逆襲を試みるほどに
生々していた。私は青く
蘇生ろうとする大きな自然の中に、先生を誘い出そうとした。
「先生どこかへ散歩しましょう。外へ出ると大変
好い心持です」
「どこへ」
私はどこでも構わなかった。ただ先生を
伴れて郊外へ出たかった。
一時間の
後、先生と私は目的どおり市を離れて、村とも町とも区別の付かない静かな所を
宛もなく歩いた。私はかなめの垣から若い柔らかい葉を
□ぎ取って
芝笛を鳴らした。ある
鹿児島人を友達にもって、その人の
真似をしつつ自然に習い覚えた私は、この芝笛というものを鳴らす事が上手であった。私が得意にそれを吹きつづけると、先生は知らん顔をしてよそを向いて歩いた。
やがて若葉に
鎖ざされたように
蓊欝した小高い
一構えの下に細い
路が
開けた。門の柱に打ち付けた標札に何々園とあるので、その個人の邸宅でない事がすぐ知れた。先生はだらだら
上りになっている入口を
眺めて、「はいってみようか」といった。私はすぐ「植木屋ですね」と答えた。
植込の中を
一うねりして奥へ
上ると左側に
家があった。明け放った
障子の内はがらんとして人の影も見えなかった。ただ
軒先に据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が動いていた。
「静かだね。断わらずにはいっても構わないだろうか」
「構わないでしょう」
二人はまた奥の方へ進んだ。しかしそこにも人影は見えなかった。
躑躅が燃えるように咲き乱れていた。先生はそのうちで
樺色の
丈の高いのを指して、「これは
霧島でしょう」といった。
芍薬も
十坪あまり一面に植え付けられていたが、まだ季節が来ないので花を着けているのは一本もなかった。この芍薬
畠の
傍にある古びた縁台のようなものの上に先生は大の字なりに寝た。私はその余った
端の方に腰をおろして
烟草を吹かした。先生は
蒼い
透き
徹るような空を見ていた。私は私を包む若葉の色に心を奪われていた。その若葉の色をよくよく
眺めると、一々違っていた。同じ
楓の
樹でも同じ色を枝に着けているものは一つもなかった。細い杉苗の
頂に投げ
被せてあった先生の帽子が風に吹かれて落ちた。
私はすぐその帽子を取り上げた。
所々に着いている赤土を
爪で
弾きながら先生を呼んだ。
「先生帽子が落ちました」
「ありがとう」
身体を半分起してそれを受け取った先生は、起きるとも寝るとも片付かないその姿勢のままで、変な事を私に聞いた。
「突然だが、君の
家には財産がよっぽどあるんですか」
「あるというほどありゃしません」
「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」
「どのくらいって、山と
田地が少しあるぎりで、金なんかまるでないんでしょう」
先生が私の
家の経済について、問いらしい問いを掛けたのはこれが始めてであった。私の方はまだ先生の暮し向きに関して、何も聞いた事がなかった。先生と知り合いになった始め、私は先生がどうして遊んでいられるかを
疑った。その後もこの疑いは絶えず私の胸を去らなかった。しかし私はそんな
露骨な問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけとばかり思っていつでも控えていた。若葉の色で疲れた眼を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。
「先生はどうなんです。どのくらいの財産をもっていらっしゃるんですか」
「私は財産家と見えますか」
先生は平生からむしろ質素な
服装をしていた。それに
家内は
小人数であった。したがって住宅も決して広くはなかった。けれどもその生活の物質的に豊かな事は、内輪にはいり込まない私の眼にさえ明らかであった。要するに先生の暮しは
贅沢といえないまでも、あたじけなく切り詰めた無弾力性のものではなかった。
「そうでしょう」と私がいった。
「そりゃそのくらいの金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きな
家でも造るさ」
この時先生は起き上って、縁台の上に
胡坐をかいていたが、こういい終ると、竹の
杖の先で地面の上へ円のようなものを
描き始めた。それが済むと、今度はステッキを突き刺すように
真直に立てた。
「これでも元は財産家なんだがなあ」
先生の言葉は半分
独り
言のようであった。それですぐ
後に
尾いて行き損なった私は、つい黙っていた。
「これでも元は財産家なんですよ、君」といい直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。私はそれでも何とも答えなかった。むしろ不調法で答えられなかったのである。すると先生がまた問題を
他へ移した。
「あなたのお父さんの病気はその後どうなりました」
私は父の病気について正月以後何にも知らなかった。月々国から送ってくれる
為替と共に来る簡単な手紙は、例の通り父の
手蹟であったが、病気の訴えはそのうちにほとんど見当らなかった。その上書体も確かであった。この種の病人に見る
顫えが少しも筆の
運びを乱していなかった。
「何ともいって来ませんが、もう
好いんでしょう」
「
好ければ結構だが、――病症が病症なんだからね」
「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ち合ってるんでしょう。何ともいって来ませんよ」
「そうですか」
私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かんだままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていた。ところが先生の言葉の底には両方を結び付ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはずがなかった。
「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、
貰うものはちゃんと貰っておくようにしたらどうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」
「ええ」
私は先生の言葉に大した注意を払わなかった。私の家庭でそんな心配をしているものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。その上先生のいう事の、先生として、あまりに実際的なのに私は少し驚かされた。しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口にした。
「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような
言葉遣いをするのが気に
触ったら許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、いつ死ぬか分らないものだからね」
先生の
口気は珍しく苦々しかった。
「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」と私は弁解した。
「君の
兄弟は何人でしたかね」と先生が聞いた。
先生はその上に私の家族の
人数を聞いたり、親類の有無を尋ねたり、
叔父や
叔母の様子を問いなどした。そうして最後にこういった。
「みんな
善い人ですか」
「別に悪い人間というほどのものもいないようです。大抵
田舎者ですから」
「田舎者はなぜ悪くないんですか」
私はこの
追窮に苦しんだ。しかし先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。
「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の
親戚なぞの
中に、これといって、悪い人間はいないようだといいましたね。しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな
鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」
先生のいう事は、ここで切れる様子もなかった。私はまたここで何かいおうとした。すると
後ろの方で犬が急に
吠え出した。先生も私も驚いて後ろを振り返った。
縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある杉苗の
傍に、
熊笹が
三坪ほど地を隠すように茂って生えていた。犬はその顔と背を熊笹の上に現わして、盛んに吠え立てた。そこへ
十ぐらいの
小供が
馳けて来て犬を
叱り付けた。小供は
徽章の着いた黒い帽子を
被ったまま先生の前へ
廻って礼をした。
「叔父さん、はいって来る時、
家に
誰もいなかったかい」と聞いた。
「誰もいなかったよ」
「姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに」
「そうか、いたのかい」
「ああ。叔父さん、
今日はって、断ってはいって来ると
好かったのに」
先生は苦笑した。
懐中から
蟇口を出して、五銭の
白銅を小供の手に握らせた。
「おっかさんにそういっとくれ。少しここで休まして下さいって」
小供は
怜悧そうな眼に
笑いを
漲らして、
首肯いて見せた。
「今
斥候長になってるところなんだよ」
小供はこう断って、
躑躅の間を下の方へ駈け下りて行った。犬も
尻尾を高く巻いて小供の後を追い掛けた。しばらくすると同じくらいの年格好の小供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方へ駈けていった。
先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった。先生の気にする財産
云々の
掛念はその時の
私には全くなかった。私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。
先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも私に
解らない事はなかった。しかし私はこの句についてもっと知りたかった。
犬と
小供が去ったあと、広い若葉の園は再び
故の静かさに帰った。そうして我々は沈黙に
鎖ざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前にある
樹は大概
楓であったが、その枝に
滴るように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて
縁日へでも出掛けるものと想像した。先生はその音を聞くと、急に
瞑想から
呼息を吹き返した人のように立ち上がった。
「もう、そろそろ帰りましょう。
大分日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」
先生の背中には、さっき縁台の上に
仰向きに寝た
痕がいっぱい着いていた。私は両手でそれを払い落した。
「ありがとう。
脂がこびり着いてやしませんか」
「
綺麗に落ちました」
「この羽織はつい
此間拵えたばかりなんだよ。だからむやみに汚して帰ると、
妻に
叱られるからね。有難う」
二人はまただらだら
坂の中途にある
家の前へ来た。はいる時には誰もいる
気色の見えなかった
縁に、お
上さんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。二人は大きな金魚鉢の横から、「どうもお
邪魔をしました」と
挨拶した。お上さんは「いいえお
構い申しも致しませんで」と礼を返した
後、
先刻小供にやった
白銅の礼を述べた。
門口を出て二、三
町来た時、私はついに先生に向かって口を切った。
「さきほど先生のいわれた、人間は
誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」
「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」
「事実で
差支えありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」
先生は笑い出した。あたかも
時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張合いがないといった
風に。
「
金さ君。金を見ると、どんな
君子でもすぐ悪人になるのさ」
私には先生の返事があまりに平凡過ぎて
詰らなかった。先生が調子に乗らないごとく、私も拍子抜けの気味であった。私は澄ましてさっさと歩き出した。いきおい先生は少し
後れがちになった。先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。
「そら見たまえ」
「何をですか」
「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」
待ち合わせるために振り向いて
立ち
留まった私の顔を見て、先生はこういった。
その時の
私は腹の中で先生を憎らしく思った。肩を並べて歩き出してからも、自分の聞きたい事をわざと聞かずにいた。しかし先生の方では、それに気が付いていたのか、いないのか、まるで私の態度に
拘泥る様子を見せなかった。いつもの通り沈黙がちに落ち付き払った歩調をすまして運んで行くので、私は少し
業腹になった。何とかいって一つ先生をやっ付けてみたくなって来た。
「先生」
「何ですか」
「先生はさっき少し
昂奮なさいましたね。あの植木屋の庭で休んでいる時に。私は先生の昂奮したのを
滅多に見た事がないんですが、今日は珍しいところを拝見したような気がします」
先生はすぐ返事をしなかった。私はそれを
手応えのあったようにも思った。また
的が
外れたようにも感じた。仕方がないから
後はいわない事にした。すると先生がいきなり道の
端へ寄って行った。そうして
綺麗に刈り込んだ
生垣の下で、
裾をまくって小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。
「やあ失敬」
先生はこういってまた歩き出した。私はとうとう先生をやり込める事を断念した。私たちの通る道は段々
賑やかになった。今までちらほらと見えた広い
畠の斜面や
平地が、全く眼に
入らないように左右の
家並が
揃ってきた。それでも
所々宅地の隅などに、
豌豆の
蔓を竹にからませたり、
金網で
鶏を囲い飼いにしたりするのが閑静に
眺められた。市中から帰る
駄馬が仕切りなく
擦れ違って行った。こんなものに始終気を
奪られがちな私は、さっきまで胸の中にあった問題をどこかへ振り落してしまった。先生が突然そこへ
後戻りをした時、私は実際それを忘れていた。
「私は
先刻そんなに昂奮したように見えたんですか」
「そんなにというほどでもありませんが、少し……」
「いや見えても構わない。実際
昂奮するんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」
先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。むしろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私にも全くの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな
執着力をいまだかつて想像した事さえなかった。私は先生をもっと弱い人と信じていた。そうしてその弱くて高い
処に、私の懐かしみの根を置いていた。一時の気分で先生にちょっと
盾を突いてみようとした私は、この言葉の前に小さくなった。先生はこういった。
「私は
他に
欺かれたのです。しかも血のつづいた
親戚のものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。私の父の前には善人であったらしい彼らは、父の死ぬや
否や許しがたい不徳義漢に変ったのです。私は彼らから受けた屈辱と損害を
小供の時から
今日まで
背負わされている。恐らく死ぬまで背負わされ通しでしょう。私は死ぬまでそれを忘れる事ができないんだから。しかし私はまだ
復讐をしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」
私は
慰藉の言葉さえ口へ出せなかった。
その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。
私はむしろ先生の態度に
畏縮して、先へ進む気が起らなかったのである。
二人は市の
外れから電車に乗ったが、車内ではほとんど口を聞かなかった。電車を降りると間もなく別れなければならなかった。別れる時の先生は、また変っていた。常よりは晴やかな調子で、「これから六月までは一番気楽な時ですね。ことによると生涯で一番気楽かも知れない。精出して遊びたまえ」といった。私は笑って帽子を
脱った。その時私は先生の顔を見て、先生ははたして心のどこで、一般の人間を憎んでいるのだろうかと
疑った。その眼、その口、どこにも
厭世的の影は
射していなかった。
私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。しかし同じ問題について、利益を受けようとしても、受けられない事が
間々あったといわなければならない。先生の談話は時として
不得要領に終った。その日二人の間に起った郊外の談話も、この不得要領の一例として私の胸の
裏に残った。
無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこういった。
「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと
解ってるくせに、はっきりいってくれないのは困ります」
「私は何にも隠してやしません」
「隠していらっしゃいます」
「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で
纏め上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去を
悉くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」
「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」
先生はあきれたといった
風に、私の顔を見た。
巻烟草を持っていたその手が少し
顫えた。
「あなたは大胆だ」
「ただ
真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去を
訐いてもですか」
訐くという言葉が、突然恐ろしい
響きをもって、私の耳を打った。私は今私の前に
坐っているのが、一人の
罪人であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は
蒼かった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の
因果で、人を
疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で
好いから、
他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
私の声は顫えた。
「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が
増かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」
私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。
私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでも私は予定通り及第した。卒業式の日、私は
黴臭くなった古い冬服を
行李の中から出して着た。式場にならぶと、どれもこれもみな暑そうな顔ばかりであった。私は風の通らない
厚羅紗の下に密封された自分の
身体を持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょになった。
私は式が済むとすぐ帰って
裸体になった。下宿の二階の窓をあけて、
遠眼鏡のようにぐるぐる巻いた卒業証書の穴から、見えるだけの世の中を見渡した。それからその卒業証書を机の上に放り出した。そうして大の字なりになって、
室の真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。
私はその晩先生の家へ
御馳走に招かれて行った。これはもし卒業したらその日の
晩餐はよそで
喰わずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。
食卓は約束通り座敷の
縁近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い
糊の
硬い
卓布が美しくかつ清らかに電燈の光を
射返していた。先生のうちで
飯を食うと、きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネルの上に、
箸や
茶碗が置かれた。そうしてそれが必ず洗濯したての
真白なものに限られていた。
「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、
一層始めから色の着いたものを使うが
好い。白ければ純白でなくっちゃ」
こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。書斎なども実に
整然と片付いていた。
無頓着な私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。
「先生は
癇性ですね」とかつて奥さんに告げた時、奥さんは「でも着物などは、それほど気にしないようですよ」と答えた事があった。それを
傍に聞いていた先生は、「本当をいうと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。考えると実に
馬鹿馬鹿しい
性分だ」といって笑った。精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、または倫理的に潔癖だという意味か、私には
解らなかった。奥さんにも
能く通じないらしかった。
その晩私は先生と向い合せに、例の白い
卓布の前に
坐った。奥さんは二人を左右に置いて、
独り庭の方を正面にして席を占めた。
「お目出とう」といって、先生が私のために
杯を上げてくれた。私はこの
盃に対してそれほど
嬉しい気を起さなかった。無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさをもっていなかったのが、一つの
源因であった。けれども先生のいい方も決して私の
嬉しさを
唆る
浮々した調子を帯びていなかった。先生は笑って
杯を上げた。私はその笑いのうちに、
些とも意地の悪いアイロニーを認めなかった。同時に目出たいという真情も
汲み取る事ができなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語っていた。
奥さんは私に「結構ね。さぞお
父さんやお
母さんはお喜びでしょう」といってくれた。私は突然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。
「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。
「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。
「ええ、たしかしまってあるはずですが」
卒業証書の
在処は二人ともよく知らなかった。
飯になった時、奥さんは
傍に
坐っている
下女を次へ立たせて、自分で
給仕の役をつとめた。これが表立たない客に対する先生の家の
仕来りらしかった。始めの一、二回は
私も窮屈を感じたが、度数の重なるにつけ、
茶碗を奥さんの前へ出すのが、何でもなくなった。
「お茶? ご
飯? ずいぶんよく食べるのね」
奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そんなに
調戯われるほど食欲が進まなかった。
「もうおしまい。あなた
近頃大変
小食になったのね」
「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」
奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと
水菓子を運ばせた。
「これは
宅で
拵えたのよ」
用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に
振舞うだけの余裕があると見えた。私はそれを二杯
更えてもらった。
「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をずらして、
敷居際で背中を
障子に
靠たせていた。
私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという
目的もなかった。返事にためらっている私を見た時、奥さんは「教師?」と聞いた。それにも答えずにいると、今度は、「じゃお
役人?」とまた聞かれた。私も先生も笑い出した。
「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくらいなんですから。だいちどれが
善いか、どれが悪いか、自分がやって見た上でないと
解らないんだから、選択に困る訳だと思います」
「それもそうね。けれどもあなたは
必竟財産があるからそんな
呑気な事をいっていられるのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」
私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。私は腹の中で奥さんのいう事実を認めた。しかしこういった。
「少し先生にかぶれたんでしょう」
「
碌なかぶれ方をして下さらないのね」
先生は苦笑した。
「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分けてもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」
私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの
躑躅の咲いている五月の初めを思い出した。あの時帰り
途に、先生が
昂奮した語気で、私に物語った強い言葉を、再び耳の底で繰り返した。それは強いばかりでなく、むしろ
凄い言葉であった。けれども事実を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあった。
「奥さん、お
宅の財産はよッぽどあるんですか」
「何だってそんな事をお聞きになるの」
「先生に聞いても教えて下さらないから」
奥さんは笑いながら先生の顔を見た。
「教えて上げるほどないからでしょう」
「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、
宅へ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから聞かして下さい」
先生は庭の方を向いて、澄まして
烟草を吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかった。
「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。――そりゃどうでも
宜いとして、あなたはこれから何か
為さらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生のようにごろごろばかりしていちゃ……」
「ごろごろばかりしていやしないさ」
先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を否定した。
私はその夜十時過ぎに先生の家を辞した。二、三日うちに帰国するはずになっていたので、座を立つ前に私はちょっと
暇乞いの言葉を述べた。
「また当分お目にかかれませんから」
「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」
私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。しかし暑い盛りの八月を東京まで来て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。
「まあ九月
頃になるでしょう」
「じゃずいぶんご
機嫌よう。私たちもこの夏はことによるとどこかへ行くかも知れないのよ。ずいぶん暑そうだから。行ったらまた
絵端書でも送って上げましょう」
「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」
先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。
「何まだ行くとも行かないとも
極めていやしないんです」
席を立とうとした時、先生は急に私をつらまえて、「時にお父さんの病気はどうなんです」と聞いた。私は父の健康についてほとんど知るところがなかった。何ともいって来ない以上、悪くはないのだろうくらいに考えていた。
「そんなに
容易く考えられる病気じゃありませんよ。
尿毒症が出ると、もう
駄目なんだから」
尿毒症という言葉も意味も私には
解らなかった。この前の冬休みに国で医者と会見した時に、私はそんな術語をまるで聞かなかった。
「本当に大事にしてお上げなさいよ」と奥さんもいった。「毒が脳へ
廻るようになると、もうそれっきりよ、あなた。笑い事じゃないわ」
無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。
「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」
「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」
奥さんは昔同じ病気で死んだという自分のお母さんの事でも
憶い出したのか、沈んだ調子でこういったなり下を向いた。私も父の運命が本当に気の毒になった。
すると先生が突然奥さんの方を向いた。
「
静、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」
「なぜ」
「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それとも
己の方がお前より前に片付くかな。大抵世間じゃ
旦那が先で、
細君が後へ残るのが当り前のようになってるね」
「そう
極った訳でもないわ。けれども男の
方はどうしても、そら年が上でしょう」
「だから先へ死ぬという理屈なのかね。すると己もお前より先にあの世へ行かなくっちゃならない事になるね」
「あなたは特別よ」
「そうかね」
「だって丈夫なんですもの。ほとんど
煩った
例がないじゃありませんか。そりゃどうしたって私の方が先だわ」
「先かな」
「え、きっと先よ」
先生は私の顔を見た。私は笑った。
「しかしもしおれの方が先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」
「どうするって……」
奥さんはそこで
口籠った。先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったらしかった。けれども再び顔をあげた時は、もう気分を
更えていた。
「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。
老少不定っていうくらいだから」
奥さんはことさらに私の方を見て
笑談らしくこういった。
私は立て掛けた腰をまたおろして、話の区切りの付くまで二人の相手になっていた。
「君はどう思います」と先生が聞いた。
先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、
固より私に判断のつくべき問題ではなかった。私はただ笑っていた。
「寿命は分りませんね。私にも」
「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんと
極った年数をもらって来るんだから仕方がないわ。先生のお
父さんやお母さんなんか、ほとんど
同じよ、あなた、亡くなったのが」
「亡くなられた日がですか」
「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」
この知識は私にとって新しいものであった。私は不思議に思った。
「どうしてそう一度に死なれたんですか」
奥さんは私の問いに答えようとした。先生はそれを
遮った。
「そんな話はお
止しよ。つまらないから」
先生は手に持った
団扇をわざとばたばたいわせた。そうしてまた奥さんを顧みた。
「
静、おれが死んだらこの
家をお前にやろう」
奥さんは笑い出した。
「ついでに地面も下さいよ」
「地面は
他のものだから仕方がない。その代りおれの持ってるものは
皆なお前にやるよ」
「どうも有難う。けれども横文字の本なんか
貰っても仕様がないわね」
「古本屋に売るさ」
「売ればいくらぐらいになって」
先生はいくらともいわなかった。けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった。そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。奥さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答えをしているらしく見えた。それがいつの間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。
「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ
何遍おっしゃるの。
後生だからもう
好い加減にして、おれが死んだらは
止して
頂戴。
縁喜でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」
先生は庭の方を向いて笑った。しかしそれぎり奥さんの
厭がる事をいわなくなった。私もあまり長くなるので、すぐ席を立った。先生と奥さんは玄関まで送って出た。
「ご病人をお
大事に」と奥さんがいった。
「また九月に」と先生がいった。
私は
挨拶をして
格子の外へ足を踏み出した。玄関と門の間にあるこんもりした
木犀の
一株が、私の
行手を
塞ぐように、
夜陰のうちに枝を張っていた。私は二、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に
被われているその
梢を見て、来たるべき秋の花と香を
想い浮べた。私は先生の
宅とこの木犀とを、以前から心のうちで、離す事のできないもののように、いっしょに記憶していた。私が偶然その
樹の前に立って、再びこの宅の玄関を
跨ぐべき次の秋に思いを
馳せた時、今まで格子の間から
射していた玄関の電燈がふっと消えた。先生夫婦はそれぎり奥へはいったらしかった。私は一人暗い表へ出た。
私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に
調える買物もあったし、ご
馳走を詰めた胃袋にくつろぎを与える必要もあったので、ただ
賑やかな町の方へ歩いて行った。町はまだ宵の口であった。用事もなさそうな
男女がぞろぞろ動く中に、私は今日私といっしょに卒業したなにがしに会った。彼は私を無理やりにある
酒場へ連れ込んだ。私はそこで
麦酒の泡のような彼の
気□を聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎであった。
私はその
翌日も暑さを
冒して、頼まれものを買い集めて歩いた。手紙で注文を受けた時は何でもないように考えていたのが、いざとなると大変
臆劫に感ぜられた。私は電車の中で汗を
拭きながら、
他の時間と手数に気の毒という観念をまるでもっていない
田舎者を憎らしく思った。
私はこの
一夏を無為に過ごす気はなかった。国へ帰ってからの日程というようなものをあらかじめ作っておいたので、それを
履行するに必要な書物も手に入れなければならなかった。私は半日を
丸善の二階で
潰す覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から隅まで一冊ずつ点検して行った。
買物のうちで一番私を困らせたのは女の
半襟であった。小僧にいうと、いくらでも出してはくれるが、さてどれを選んでいいのか、買う段になっては、ただ迷うだけであった。その上
価が
極めて不定であった。安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、聞かずにいると、かえって大変安かったりした。あるいはいくら比べて見ても、どこから価格の差違が出るのか見当の付かないのもあった。私は全く弱らせられた。そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんを
煩わさなかったかを悔いた。
私は
鞄を買った。無論和製の下等な品に過ぎなかったが、それでも金具やなどがぴかぴかしているので、田舎ものを
威嚇かすには充分であった。この鞄を買うという事は、私の母の注文であった。卒業したら新しい鞄を買って、そのなかに
一切の
土産ものを入れて帰るようにと、わざわざ手紙の中に書いてあった。私はその文句を読んだ時に笑い出した。私には母の
料簡が
解らないというよりも、その言葉が一種の
滑稽として訴えたのである。
私は
暇乞いをする時先生夫婦に述べた通り、それから三日目の汽車で東京を立って国へ帰った。この冬以来父の病気について先生から色々の注意を受けた私は、一番心配しなければならない地位にありながら、どういうものか、それが大して苦にならなかった。私はむしろ父がいなくなったあとの母を想像して気の毒に思った。そのくらいだから私は心のどこかで、父はすでに亡くなるべきものと覚悟していたに違いなかった。九州にいる兄へやった手紙のなかにも、私は父の
到底故のような健康体になる見込みのない事を述べた。一度などは職務の都合もあろうが、できるなら繰り合せてこの夏ぐらい一度顔だけでも見に帰ったらどうだとまで書いた。その上年寄が二人ぎりで田舎にいるのは
定めて心細いだろう、我々も子として
遺憾の
至りであるというような感傷的な文句さえ使った。私は実際心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。
私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。私は不愉快になった。私はまた先生夫婦の事を
想い浮べた。ことに二、三日前
晩食に呼ばれた時の会話を
憶い出した。
「どっちが先へ死ぬだろう」
私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと
判然分っていたならば、先生はどうするだろう。奥さんはどうするだろう。先生も奥さんも、今のような態度でいるより
外に仕方がないだろうと思った。(死に近づきつつある父を国元に控えながら、この私がどうする事もできないように)。私は人間を
果敢ないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。
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