七

 おれは即夜そくや下宿を引きはらった。宿へ帰って荷物をまとめていると、女房にょうぼうが何か不都合ふつごうでもございましたか、お腹の立つ事があるなら、っておくれたら改めますと云う。どうもおどろく。世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかりそろってるんだろう。出てもらいたいんだか、居てもらいたいんだかわかりゃしない。まるで気狂きちがいだ。こんな者を相手に喧嘩けんかをしたって江戸えどっ子の名折れだから、車屋をつれて来てさっさと出てきた。
 出た事は出たが、どこへ行くというあてもない。車屋が、どちらへ参りますと云うから、だまっていて来い、今にわかる、と云って、すたすたやって来た。面倒めんどうだから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまり手数だ。こうして歩いてるうちには下宿とか、何とか看板のあるうちを目付け出すだろう。そうしたら、そこが天意にかなったわが宿と云う事にしよう。とぐるぐる、閑静かんせいで住みよさそうな所をあるいているうち、とうとう鍛冶屋町かじやちょうへ出てしまった。ここは士族屋敷やしきで下宿屋などのある町ではないから、もっとにぎやかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといい事を考え付いた。おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでいる。うらなり君は土地の人で先祖代々の屋敷をひかえているくらいだから、この辺の事情には通じているに相違そういない。あの人をたずねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかも知れない。さいわい一度挨拶あいさつに来て勝手は知ってるから、がしてあるく面倒はない。ここだろうと、いい加減に見当をつけて、ごめんご免と二返ばかり云うと、おくから五十ぐらいな年寄としよりが古風な紙燭しそくをつけて、出て来た。おれは若い女もきらいではないが、年寄を見ると何だかなつかしい心持ちがする。大方きよがすきだから、そのたましいが方々のおばあさんに乗り移るんだろう。これは大方うらなり君のおっさんだろう。切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似ている。まあお上がりと云うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を玄関げんかんまで呼び出して実はこれこれだが君どこか心当りはありませんかと尋ねてみた。うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、この裏町に萩野はぎのと云って老人夫婦ぎりでらしているものがある、いつぞや座敷ざしきを明けておいても無駄むだだから、たしかな人があるなら貸してもいいから周旋しゅうせんしてくれとたのんだ事がある。今でも貸すかどうか分らんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。
 その夜から萩野の家の下宿人となった。おどろいたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、翌日あくるひから入れちがいに野だが平気な顔をして、おれの居た部屋を占領せんりょうした事だ。さすがのおれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、おたがいに乗せっこをしているのかも知れない。いやになった。
 世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並せけんなみにしなくちゃ、りきれない訳になる。巾着切きんちゃくきりの上前をはねなければ三度のごぜんいただけないと、事がまればこうして、生きてるのも考え物だ。と云ってぴんぴんした達者なからだで、首をくくっちゃ先祖へ済まない上に、外聞が悪い。考えると物理学校などへはいって、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本もとでにして牛乳屋でも始めればよかった。そうすれば清もおれのそばはなれずに済むし、おれも遠くから婆さんの事を心配しずにくらされる。いっしょに居るうちは、そうでもなかったが、こうして田舎いなかへ来てみると清はやっぱり善人だ。あんな気立きだてのいい女は日本中さがして歩いたってめったにはない。婆さん、おれの立つときに、少々風邪かぜを引いていたが今頃いまごろはどうしてるか知らん。先だっての手紙を見たらさぞ喜んだろう。それにしても、もう返事がきそうなものだが――おれはこんな事ばかり考えて二三日暮していた。
 気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々たずねてみるが、聞くたんびに何にも参りませんと気の毒そうな顔をする。ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方そうほう共上品だ。じいさんがるになると、変な声を出してうたいをうたうには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうと無暗むやみに出て来ないから大きに楽だ。お婆さんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにおでなんだのぞなもしなどと質問をする。奥さんがあるように見えますかね。可哀想かわいそうにこれでもまだ二十四ですぜと云ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと冒頭ぼうとうを置いて、どこのだれさんは二十でおよめをおもらいたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人ふたりお持ちたのと、何でも例を半ダースばかり挙げて反駁はんばくを試みたにはおそれ入った。それじゃぼくも二十四でお嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を真似まねて頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。
「本当の本当ほんまのって僕あ、嫁が貰いたくって仕方がないんだ」
「そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ」この挨拶あいさつには痛み入って返事が出来なかった。
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるにきまっとらい。私はちゃんと、もう、らんどるぞなもし」
「へえ、活眼かつがんだね。どうして、睨らんどるんですか」
「どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ちがれておいでるじゃないかなもし」
「こいつあおどろいた。大変な活眼だ」
あたりましたろうがな、もし」
「そうですね。中ったかも知れませんよ」
「しかし今時の女子おなごは、むかしちごうて油断が出来んけれ、お気をお付けたがええぞなもし」
「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい」
「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」
「それで、やっと安心した。それじゃ何を気を付けるんですい」
「あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが――」
「どこに不たしかなのが居ますかね」
「ここにも大分ります。先生、あの遠山のおじょうさんをご存知かなもし」
「いいえ、知りませんね」
「まだご存知ないかなもし。ここらであなた一番の別嬪べっぴんさんじゃがなもし。あまり別嬪さんじゃけれ、学校の先生方はみんなマドンナマドンナと言うといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」
「うん、マドンナですか。僕あ芸者の名かと思った」
「いいえ、あなた。マドンナと云うと唐人とうじんの言葉で、別嬪さんの事じゃろうがなもし」
「そうかも知れないね。驚いた」
「大方画学の先生がお付けた名ぞなもし」
「野だがつけたんですかい」
「いいえ、あの吉川よしかわ先生がお付けたのじゃがなもし」
「そのマドンナが不たしかなんですかい」
「そのマドンナさんが不たしかなマドンナさんでな、もし」
厄介やっかいだね。渾名あだなの付いてる女にゃ昔からろくなものは居ませんからね。そうかも知れませんよ」
「ほん当にそうじゃなもし。鬼神きじんのおまつじゃの、妲妃だっきのお百じゃのててこわい女がりましたなもし」
「マドンナもその同類なんですかね」
「そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話をしておくれた古賀先生なもし――あの方の所へおよめに行く約束やくそくが出来ていたのじゃがなもし――」
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艶福えんぷくのある男とは思わなかった。人は見懸みかけによらない者だな。ちっと気を付けよう」
「ところが、去年あすこのお父さんが、お亡くなりて、――それまではお金もあるし、銀行の株も持っておいでるし、万事都合つごうがよかったのじゃが――それからというものは、どういうものか急に暮し向きが思わしくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人が好過よすぎるけれ、おだまされたんぞなもし。それや、これやでお輿入こしいれも延びているところへ、あの教頭さんがおでて、是非お嫁にほしいとお云いるのじゃがなもし」
「あの赤シャツがですか。ひどいやつだ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」
「人を頼んで懸合かけおうておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出来かねて――まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツさんが、手蔓てづるを求めて遠山さんの方へ出入でいりをおしるようになって、とうとうあなた、お嬢さんを手馴付てなづけておしまいたのじゃがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お嬢さんもお嬢さんじゃてて、みんながるく云いますのよ。いったん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、今さら学士さんがおいでたけれ、その方にえよてて、それじゃ今日様こんにちさまへ済むまいがなもし、あなた」
「全く済まないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこありませんね」
「それで古賀さんにお気の毒じゃてて、お友達の堀田ほったさんが教頭の所へ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になれば貰うかも知れんが、今のところは遠山家とただ交際をしているばかりじゃ、遠山家と交際をするには別段古賀さんに済まん事もなかろうとお云いるけれ、堀田さんも仕方がなしにおもどりたそうな。赤シャツさんと堀田さんは、それ以来折合おりあいがわるいという評判ぞなもし」
「よくいろいろな事を知ってますね。どうして、そんなくわしい事が分るんですか。感心しちまった」
せまいけれ何でも分りますぞなもし」
 分り過ぎて困るくらいだ。この容子ようすじゃおれの天麩羅てんぷら団子だんごの事も知ってるかも知れない。厄介やっかいな所だ。しかしお蔭様かげさまでマドンナの意味もわかるし、山嵐と赤シャツの関係もわかるし大いに後学になった。ただ困るのはどっちが悪る者だか判然しない。おれのような単純なものには白とか黒とか片づけてもらわないと、どっちへ味方をしていいか分らない。
「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね」
「山嵐て何ぞなもし」
「山嵐というのは堀田の事ですよ」
「そりゃ強い事は堀田さんの方が強そうじゃけれど、しかし赤シャツさんは学士さんじゃけれ、働きはあるかたぞな、もし。それから優しい事も赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がええというぞなもし」
「つまりどっちがいいんですかね」
「つまり月給の多い方がえらいのじゃろうがなもし」
 これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。それから二三日して学校から帰るとお婆さんがにこにこして、へえお待遠さま。やっと参りました。と一本の手紙を持って来てゆっくりご覧と云って出て行った。取り上げてみると清からの便りだ。符箋ふせんが二三まいついてるから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へまわして、いか銀から、萩野はぎのへ廻って来たのである。その上山城屋では一週間ばかり逗留とうりゅうしている。宿屋だけに手紙までとめるつもりなんだろう。開いてみると、非常に長いもんだ。っちゃんの手紙を頂いてから、すぐ返事をかこうと思ったが、あいにく風邪を引いて一週間ばかりていたものだから、ついおそくなって済まない。その上今時のお嬢さんのように読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、かくのによっぽど骨が折れる。おいに代筆を頼もうと思ったが、せっかくあげるのに自分でかかなくっちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざたがきを一返して、それから清書をした。清書をするには二日で済んだが、下た書きをするには四日かかった。読みにくいかも知れないが、これでも一生懸命いっしょうけんめいにかいたのだから、どうぞしまいまで読んでくれ。という冒頭ぼうとうで四尺ばかり何やらかやらしたためてある。なるほど読みにくい。字がまずいばかりではない、大抵たいてい平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句読くとうをつけるのによっぽど骨が折れる。おれはちな性分だから、こんな長くて、分りにくい手紙は、五円やるから読んでくれと頼まれても断わるのだが、この時ばかりは真面目まじめになって、はじめからしまいまで読み通した。読み通した事は事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。部屋のなかは少し暗くなって、前の時より見にくく、なったから、とうとう椽鼻えんばなへ出てこしをかけながら鄭寧ていねいに拝見した。すると初秋はつあきの風が芭蕉ばしょうの葉を動かして、素肌すはだきつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、しまいぎわには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、むこうの生垣まで飛んで行きそうだ。おれはそんな事には構っていられない。坊っちゃんは竹を割ったような気性だが、ただ肝癪かんしゃくが強過ぎてそれが心配になる。――ほかの人に無暗むやみ渾名あだななんか、つけるのは人にうらまれるもとになるから、やたらに使っちゃいけない、もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。――田舎者は人がわるいそうだから、気をつけてひどい目にわないようにしろ。――気候だって東京より不順に極ってるから、寝冷ねびえをして風邪を引いてはいけない。坊っちゃんの手紙はあまり短過ぎて、容子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。――宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困りゃしないか、田舎へ行ってたよりになるはお金ばかりだから、なるべく倹約けんやくして、万一の時に差支さしつかえないようにしなくっちゃいけない。――お小遣こづかいがなくて困るかも知れないから、為替かわせで十円あげる。――せんだって坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが、東京へ帰って、うちを持つ時の足しにと思って、郵便局へ預けておいたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。――なるほど女と云うものは細かいものだ。
 おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考えんでいると、しきりのふすまをあけて、萩野のお婆さんが晩めしを持ってきた。まだ見ておでるのかなもし。えっぽど長いお手紙じゃなもし、と云ったから、ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をしてぜんについた。見ると今夜も薩摩芋さつまいもつけだ。ここのうちは、いか銀よりも鄭寧ていねいで、親切で、しかも上品だが、しい事に食い物がまずい。昨日も芋、一昨日おとといも芋で今夜も芋だ。おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、こう立てつづけに芋を食わされては命がつづかない。うらなり君を笑うどころか、おれ自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になっちまう。清ならこんな時に、おれの好きなまぐろのさし身か、蒲鉾かまぼこのつけ焼を食わせるんだが、貧乏びんぼう士族のけちんぼうと来ちゃ仕方がない。どう考えても清といっしょでなくっちあ駄目だめだ。もしあの学校に長くでも居る模様なら、東京からせてやろう。天麩羅蕎麦そばを食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿に居て芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、教育者はつらいものだ。禅宗ぜんしゅう坊主だって、これよりは口に栄耀えようをさせているだろう。――おれは一皿の芋を平げて、机の抽斗ひきだしから生卵を二つ出して、茶碗ちゃわんふちでたたき割って、ようやくしのいだ。生卵ででも営養をとらなくっちあ一週二十一時間の授業が出来るものか。
 今日は清の手紙で湯に行く時間が遅くなった。しかし毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持ちがわるい。汽車にでも乗って出懸でかけようと、例の赤手拭あかてぬぐいをぶら下げて停車場ていしゃばまで来ると二三分前に発車したばかりで、少々待たなければならぬ。ベンチへ腰を懸けて、敷島しきしまを吹かしていると、偶然ぐうぜんにもうらなり君がやって来た。おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の毒になった。平常ふだんから天地の間に居候いそうろうをしているように、小さく構えているのがいかにもあわれに見えたが、今夜は憐れどころのさわぎではない。出来るならば月給を倍にして、遠山のお嬢さんと明日あしたから結婚けっこんさして、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がした矢先だから、やお湯ですか、さあ、こっちへお懸けなさいと威勢いせいよく席をゆずると、うらなり君はおそれ入った体裁で、いえかもうておくれなさるな、と遠慮えんりょだか何だかやっぱり立ってる。少し待たなくっちゃ出ません、草臥くたびれますからお懸けなさいとまた勧めてみた。実はどうかして、そばへ懸けてもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。それではお邪魔じゃまいたしましょうとようやくおれの云う事を聞いてくれた。世の中には野だみたように生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。山嵐のようにおれが居なくっちゃ日本にっぽんが困るだろうと云うような面をかたの上へせてる奴もいる。そうかと思うと、赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもって自ら任じているのもある。教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと云わぬばかりのたぬきもいる。皆々みなみなそれ相応に威張ってるんだが、このうらなり先生のように在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のように大人おとなしくしているのは見た事がない。顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて赤シャツになびくなんて、マドンナもよっぼど気の知れないおきゃんだ。赤シャツが何ダース寄ったって、これほど立派な旦那様だんなさまが出来るもんか。
「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。大分たいぎそうに見えますが……」「いえ、別段これという持病もないですが……」
「そりゃ結構です。からだが悪いと人間も駄目ですね」
「あなたは大分ご丈夫じょうぶのようですな」
「ええせても病気はしません。病気なんてものあ大嫌いですから」
 うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。
 ところへ入口で若々しい女の笑声がきこえたから、何心なくり返ってみるとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとがならんで切符きっぷを売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶すいしょうたま香水こうすいあっためて、てのひらにぎってみたような心持ちがした。年寄の方が背は低い。しかし顔はよく似ているから親子だろう。おれは、や、来たなと思う途端とたんに、うらなり君の事は全然すっかり忘れて、若い女の方ばかり見ていた。すると、うらなり君が突然とつぜんおれのとなりから、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。マドンナじゃないかと思った。三人は切符所の前で軽く挨拶している。遠いから何を云ってるのか分らない。
 停車場の時計を見るともう五分で発車だ。早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へんで来たものがある。見れば赤シャツだ。何だかべらべら然たる着物へ縮緬ちりめんの帯をだらしなく巻き付けて、例の通り金鎖きんぐさりをぶらつかしている。あの金鎖りは贋物にせものである。赤シャツはだれも知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。赤シャツは馳け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符売下所うりさげじょの前に話している三人へ慇懃いんぎんにお辞儀じぎをして、何か二こと、三こと、云ったと思ったら、急にこっちへ向いて、例のごとく猫足ねこあしにあるいて来て、や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。あの時計はたしかかしらんと、自分の金側きんがわを出して、二分ほどちがってると云いながら、おれのそばへ腰をおろした。女の方はちっとも見返らないでつえの上にあごをのせて、正面ばかりながめている。年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。いよいよマドンナに違いない。
 やがて、ピューと汽笛きてきが鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろがちに乗り込む。赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。上等へ乗ったって威張れるどころではない、住田すみたまで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういうおれでさえ上等を奮発ふんぱつして白切符をにぎってるんでもわかる。もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、大抵たいていは下等へ乗る。赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。うらなり君は活版でしたように下等ばかりへ乗る男だ。先生、下等の車室の入口へ立って、何だか躊躇ちゅうちょていであったが、おれの顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。おれはこの時何となく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。
 温泉へ着いて、三階から、浴衣ゆかたのなりで湯壺ゆつぼへ下りてみたら、またうらなり君に逢った。おれは会議や何かでいざと極まると、咽喉のどふさがって饒舌しゃべれない男だが、平常ふだん随分ずいぶん弁ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。何だか憐れぽくってたまらない。こんな時に一口でも先方の心をなぐさめてやるのは、江戸えどっ子の義務だと思ってる。ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。何を云っても、とかいえとかぎりで、しかもそのいえが大分面倒めんどうらしいので、しまいにはとうとう切り上げて、こっちからご免蒙めんこうむった。
 湯の中では赤シャツに逢わなかった。もっとも風呂ふろの数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で逢うとは極まっていない。別段不思議にも思わなかった。風呂を出てみるといい月だ。町内の両側にやなぎうわって、柳のえだるい影を往来の中へおとしている。少し散歩でもしよう。北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突き当りがお寺で、左右が妓楼ぎろうである。山門のなかに遊廓ゆうかくがあるなんて、前代未聞の現象だ。ちょっとはいってみたいが、また狸から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。門の並びに黒い暖簾のれんをかけた、小さな格子窓こうしまどの平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。丸提灯まるぢょうちん汁粉しるこ、お雑煮ぞうにとかいたのがぶらさがって、提灯の火が、軒端のきばに近い一本の柳の幹を照らしている。食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。
 食いたい団子の食えないのは情ない。しかし自分の許嫁いいなずけが他人に心を移したのは、なお情ないだろう。うらなり君の事を思うと、団子はおろか、三日ぐらい断食だんじきしても不平はこぼせない訳だ。本当に人間ほどあてにならないものはない。あの顔を見ると、どうしたって、そんな不人情な事をしそうには思えないんだが――うつくしい人が不人情で、冬瓜とうがん水膨みずぶくれのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断が出来ない。淡泊たんぱくだと思った山嵐は生徒を煽動せんどうしたと云うし。生徒を煽動したのかと思うと、生徒の処分を校長にせまるし。厭味いやみで練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれに余所よそながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナを胡魔化ごまかしたり、胡魔化したのかと思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと云うし。いか銀が難癖なんくせをつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だ公がかわったり――どう考えてもあてにならない。こんな事を清にかいてやったら定めて驚く事だろう。箱根はこねの向うだから化物ばけものが寄り合ってるんだと云うかも知れない。
 おれは、性来しょうらい構わない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌いで来たのだが、ここへ来てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを物騒ぶっそうに思い出した。別段際だった大事件にも出逢わないのに、もう五つ六つ年を取ったような気がする。早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。などとそれからそれへ考えて、いつか石橋をわたって野芹川のぜりがわどてへ出た。川と云うとえらそうだが実は一間ぐらいな、ちょろちょろした流れで、土手に沿うて十二丁ほど下ると相生村あいおいむらへ出る。村には観音様かんのんさまがある。
 温泉の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。太鼓たいこが鳴るのは遊廓に相違ない。川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向うに人影ひとかげが見え出した。月にかしてみると影は二つある。温泉へ来て村へ帰る若いしゅかも知れない。それにしてはうたもうたわない。存外静かだ。
 だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。一人は女らしい。おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離きょりに逼った時、男がたちまち振り向いた。月はうしろからさしている。その時おれは男の様子を見て、はてなと思った。男と女はまた元の通りにあるき出した。おれは考えがあるから、急に全速力で追っけた。先方は何の気もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移している。今は話し声も手に取るように聞える。土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。おれは苦もなく後ろから追い付いて、男のそでけざま、二足前へ出したくびすをぐるりと返して男の顔をのぞんだ。月は正面からおれの五分がりの頭から顋のあたりまで、会釈えしゃくもなくてらす。男はあっと小声に云ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女をうながすが早いか、温泉の町の方へ引き返した。
 赤シャツは図太くて胡魔化すつもりか、気が弱くて名乗りそくなったのかしら。ところが狭くて困ってるのは、おればかりではなかった。

     八

 赤シャツに勧められてつりに行った帰りから、山嵐やまあらしを疑ぐり出した。無い事を種に下宿を出ろと云われた時は、いよいよ不埒ふらちやつだと思った。ところが会議の席では案に相違そういして滔々とうとうと生徒厳罰論げんばつろんを述べたから、おや変だなと首をひねった。萩野はぎのばあさんから、山嵐が、うらなり君のために赤シャツと談判をしたと聞いた時は、それは感心だと手をった。この様子ではわる者は山嵐じゃあるまい、赤シャツの方が曲ってるんで、好加減いいかげん邪推じゃすいまことしやかに、しかも遠廻とおまわしに、おれの頭の中へましたのではあるまいかと迷ってる矢先へ、野芹川のぜりがわの土手で、マドンナを連れて散歩なんかしている姿を見たから、それ以来赤シャツは曲者くせものだとめてしまった。曲者だか何だかよくはわからないが、ともかくもい男じゃない。表と裏とはちがった男だ。人間は竹のように真直まっすぐでなくっちゃたのもしくない。真直なものは喧嘩けんかをしても心持ちがいい。赤シャツのようなやさしいのと、親切なのと、高尚こうしょうなのと、琥珀こはくのパイプとを自慢じまんそうに見せびらかすのは油断が出来ない、めったに喧嘩も出来ないと思った。喧嘩をしても、回向院えこういん相撲すもうのような心持ちのいい喧嘩は出来ないと思った。そうなると一銭五厘の出入でいり控所ひかえじょ全体をおどろかした議論の相手の山嵐の方がはるかに人間らしい。会議の時に金壺眼かなつぼまなこをぐりつかせて、おれをにらめた時はにくい奴だと思ったが、あとで考えると、それも赤シャツのねちねちした猫撫声ねこなでごえよりはましだ。実はあの会議が済んだあとで、よっぽど仲直りをしようかと思って、一こと二こと話しかけてみたが、野郎やろう返事もしないで、まだむくってみせたから、こっちも腹が立ってそのままにしておいた。
 それ以来山嵐はおれと口を利かない。机の上へ返した一銭五厘はいまだに机の上に乗っている。ほこりだらけになって乗っている。おれは無論手が出せない、山嵐は決して持って帰らない。この一銭五厘が二人の間の墻壁しょうへきになって、おれは話そうと思っても話せない、山嵐はがんとしてだまってる。おれと山嵐には一銭五厘がたたった。しまいには学校へ出て一銭五厘を見るのが苦になった。
 山嵐とおれが絶交の姿となったに引きえて、赤シャツとおれは依然いぜんとして在来の関係を保って、交際をつづけている。野芹川でった翌日などは、学校へ出ると第一番におれのそばへ来て、君今度の下宿はいいですかのまたいっしょに露西亜ロシア文学をりに行こうじゃないかのといろいろな事を話しかけた。おれは少々にくらしかったから、昨夜ゆうべは二返逢いましたねとったら、ええ停車場ていしゃばで――君はいつでもあの時分出掛でかけるのですか、遅いじゃないかと云う。野芹川の土手でもお目にかかりましたねとらわしてやったら、いいえぼくはあっちへは行かない、湯にはいって、すぐ帰ったと答えた。何もそんなにかくさないでもよかろう、現に逢ってるんだ。よくうそをつく男だ。これで中学の教頭が勤まるなら、おれなんか大学総長がつとまる。おれはこの時からいよいよ赤シャツを信用しなくなった。信用しない赤シャツとは口をきいて、感心している山嵐とは話をしない。世の中は随分妙ずいぶんみょうなものだ。
 ある日の事赤シャツがちょっと君に話があるから、僕のうちまで来てくれと云うから、しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時ごろ出掛けて行った。赤シャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとくのむかしに引きはらって立派な玄関げんかんを構えている。家賃は九円五拾銭じっせんだそうだ。田舎いなかへ来て九円五拾銭払えばこんな家へはいれるなら、おれも一つ奮発ふんぱつして、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろうと思ったくらいな玄関だ。頼むと云ったら、赤シャツの弟が取次とりつぎに出て来た。この弟は学校で、おれに代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。その癖渡くせわたりものだから、生れ付いての田舎者よりも人がるい。
 赤シャツに逢って用事を聞いてみると、大将例の琥珀のパイプで、きなくさ烟草たばこをふかしながら、こんな事を云った。「君が来てくれてから、前任者の時代よりも成績せいせきがよくあがって、校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので――どうか学校でも信頼しんらいしているのだから、そのつもりで勉強していただきたい」
「へえ、そうですか、勉強って今より勉強は出来ませんが――」
「今のくらいで充分じゅうぶんです。ただ先だってお話しした事ですね、あれを忘れずにいて下さればいいのです」
「下宿の世話なんかするものあ剣呑けんのんだという事ですか」
「そう露骨ろこつに云うと、意味もない事になるが――まあ善いさ――精神は君にもよく通じている事と思うから。そこで君が今のように出精しゅっせいして下されば、学校の方でも、ちゃんと見ているんだから、もう少しして都合つごうさえつけば、待遇たいぐうの事も多少はどうにかなるだろうと思うんですがね」
「へえ、俸給ほうきゅうですか。俸給なんかどうでもいいんですが、上がれば上がった方がいいですね」
「それで幸い今度転任者が一人出来るから――もっとも校長に相談してみないと無論受け合えない事だが――その俸給から少しは融通ゆうずうが出来るかも知れないから、それで都合をつけるように校長に話してみようと思うんですがね」
「どうも難有ありがとう。だれが転任するんですか」
「もう発表になるから話しても差しつかえないでしょう。実は古賀君です」
「古賀さんは、だってここの人じゃありませんか」
「ここのの人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です」
「どこへくんです」
日向ひゅうが延岡のべおかで――土地が土地だから一級俸あがって行く事になりました」
だれか代りが来るんですか」
「代りも大抵たいてい極まってるんです。その代りの具合で君の待遇上の都合もつくんです」
「はあ、結構です。しかし無理に上がらないでも構いません」
「とも角も僕は校長に話すつもりです。それで校長も同意見らしいが、追っては君にもっと働いていただかなくってはならんようになるかも知れないから、どうか今からそのつもりで覚悟かくごをしてやってもらいたいですね」
「今より時間でも増すんですか」
「いいえ、時間は今より減るかも知れませんが――」
「時間が減って、もっと働くんですか、妙だな」
「ちょっと聞くと妙だが、――判然とは今言いにくいが――まあつまり、君にもっと重大な責任を持ってもらうかも知れないという意味なんです」
 おれには一向分らない。今より重大な責任と云えば、数学の主任だろうが、主任は山嵐だから、やっこさんなかなか辞職する気遣きづかいはない。それに、生徒の人望があるから転任や免職めんしょくは学校の得策であるまい。赤シャツの談話はいつでも要領を得ない。要領を得なくっても用事はこれで済んだ。それから少し雑談をしているうちに、うらなり君の送別会をやる事や、ついてはおれが酒を飲むかと云う問や、うらなり先生は君子で愛すべき人だと云う事や――赤シャツはいろいろ弁じた。しまいに話をかえて君俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思って、俳句はやりません、さようならと、そこそこに帰って来た。発句ほっく芭蕉ばしょう髪結床かみいどこの親方のやるもんだ。数学の先生が朝顔やに釣瓶つるべをとられてたまるものか。
 帰ってうんと考え込んだ。世間には随分気の知れない男が居る。家屋敷はもちろん、勤める学校に不足のない故郷がいやになったからと云って、知らぬ他国へ苦労を求めに出る。それも花の都の電車がかよってる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何の事だ。おれは船つきのいいここへ来てさえ、一ヶ月立たないうちにもう帰りたくなった。延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ。赤シャツの云うところによると船から上がって、一日いちんち馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた一日いちんち車へ乗らなくっては着けないそうだ。名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。さると人とが半々に住んでるような気がする。いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、何という物数奇ものずきだ。
 ところへあいかわらずばあさんが夕食ゆうめしを運んで出る。今日もまたいもですかいと聞いてみたら、いえ今日はお豆腐とうふぞなもしと云った。どっちにしたって似たものだ。
「お婆さん古賀さんは日向へ行くそうですね」
「ほん当にお気の毒じゃな、もし」
「お気の毒だって、好んで行くんなら仕方がないですね」
「好んで行くて、誰がぞなもし」
「誰がぞなもしって、当人がさ。古賀先生が物数奇に行くんじゃありませんか」
「そりゃあなた、大違いの勘五郎かんごろうぞなもし」
「勘五郎かね。だって今赤シャツがそう云いましたぜ。それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの法螺右衛門ほらえもんだ」
「教頭さんが、そうお云いるのはもっともじゃが、古賀さんのおきともないのももっともぞなもし」
「そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういう訳なんですい」
「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」
「どんな訳をお話したんです」
「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほどくらむきが豊かになうてお困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしておくれんかてて、あなた」
「なるほど」
「校長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでお母さんも安心して、今に増給のご沙汰さたがあろぞ、今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ、校長さんがちょっと来てくれと古賀さんにお云いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五円余分にとれるから、お望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。――」
「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」
「さよよ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここにりたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長がお云いたげな」
「へん人を馬鹿ばかにしてら、面白おもしろくもない。じゃ古賀さんは行く気はないんですね。どうれで変だと思った。五円ぐらい上がったって、あんな山の中へ猿のお相手をしに行く唐変木とうへんぼくはまずないからね」
「唐変木て、先生なんぞなもし」
「何でもいいでさあ、――全く赤シャツの作略さりゃくだね。よくない仕打しうちだ。まるで欺撃だましうちですね。それでおれの月給を上げるなんて、不都合ふつごうな事があるものか。上げてやるったって、誰が上がってやるものか」
「先生は月給がお上りるのかなもし」
「上げてやるって云うから、ことわろうと思うんです」
「何で、お断わりるのぞなもし」
「何でもお断わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯ひきょうでさあ」
「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人おとなしく頂いておく方が得ぞなもし。若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢がまんじゃあったのに惜しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたとくやむのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、難有ありがとうと受けておおきなさいや」
年寄としよりの癖に余計な世話を焼かなくってもいい。おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ」
 婆さんはだまって引き込んだ。じいさんは呑気のんきな声を出してうたいをうたってる。謡というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分らなくする術だろう。あんな者を毎晩きずにうなる爺さんの気が知れない。おれは謡どころのさわぎじゃない。月給を上げてやろうと云うから、別段欲しくもなかったが、入らない金を余しておくのももったいないと思って、よろしいと承知したのだが、転任したくないものを無理に転任させてその男の月給の上前をねるなんて不人情な事が出来るものか。当人がもとの通りでいいと云うのに延岡くんだりまで落ちさせるとは一体どう云う了見りょうけんだろう。太宰権帥だざいごんのそつでさえ博多はかた近辺で落ちついたものだ。河合又五郎かあいまたごろうだって相良さがらでとまってるじゃないか。とにかく赤シャツの所へ行って断わって来なくっちあ気が済まない。
 小倉こくらはかまをつけてまた出掛けた。大きな玄関へっ立って頼むと云うと、また例の弟が取次に出て来た。おれの顔を見てまた来たかという眼付めつきをした。用があれば二度だって三度だって来る。よる夜なかだってたたおこさないとは限らない。教頭の所へご機嫌伺きげんうかがいにくるようなおれと見損みそくなってるか。これでも月給が入らないから返しにきたんだ。すると弟が今来客中だと云うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりたいと云ったらおくへ引き込んだ。足元を見ると、畳付たたみつきの薄っぺらな、のめりの駒下駄こまげたがある。奥でもう万歳ばんざいですよと云う声がきこえる。お客とは野だだなと気がついた。野だでなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を穿くものはない。
 しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がりたまえ、外の人じゃない吉川君だ、と云うから、いえここでたくさんです。ちょっと話せばいいんです、と云って、赤シャツの顔を見ると金時のようだ。野だ公と一杯いっぱい飲んでると見える。
「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たんです」
 赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔をながめたが、とっさの場合返事をしかねて茫然ぼうぜんとしている。増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを不審ふしんに思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直してこなくってもよさそうなものだと、あきれ返ったのか、または双方合併そうほうがっぺいしたのか、妙な口をして突っ立ったままである。
「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで……」
「古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです」
「そうじゃないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいいから、郷里に居たいのです」
「君は古賀君から、そう聞いたのですか」
「そりゃ当人から、聞いたんじゃありません」
「じゃ誰からお聞きです」
「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっさんから聞いたのを今日僕に話したのです」
「じゃ、下宿の婆さんがそう云ったのですね」
「まあそうです」
「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、そういう意味に解釈して差支さしつかえないでしょうか」
 おれはちょっと困った。文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。妙な所へこだわって、ねちねちし寄せてくる。おれはよく親父おやじから貴様はそそっかしくて駄目だめだ駄目だと云われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。婆さんの話を聞いてはっと思って飛び出して来たが、実はうらなり君にもうらなりのおっ母さんにも逢ってくわしい事情は聞いてみなかったのだ。だからこう文学士流にり付けられると、ちょっと受け留めにくい。
 正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに対して不信任を心のうちで申し渡してしまった。下宿の婆さんもけちんぼうの欲張り屋に相違ないが、嘘はかない女だ、赤シャツのように裏表はない。おれは仕方がないから、こう答えた。
「あなたの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙めんこうむります」
「それはますます可笑おかしい。今君がわざわざおいでになったのは増俸を受けるにはしのびない、理由を見出したからのように聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね」
「解しかねるかも知れませんがね。とにかく断わりますよ」
「そんなにいやなら強いてとまでは云いませんが、そう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹変ひょうへんしちゃ、将来君の信用にかかわる」
「かかわっても構わないです」
「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩ゆずって、下宿の主人が……」
「主人じゃない、婆さんです」
「どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで、君の増給は古賀君の所得をけずって得たものではないでしょう。古賀君は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。その剰余じょうよを君にわすと云うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡でただ今よりも栄進される。新任者は最初からの約束やくそくで安くくる。それで君が上がられれば、これほど都合つごうのいい事はないと思うですがね。いやならいやでもいいが、もう一返うちでよく考えてみませんか」
 おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう巧妙こうみょうな弁舌をふるえば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたとおそれ入って引きさがるのだけれども、今夜はそうは行かない。ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。途中とちゅうで親切な女みたような男だと思い返した事はあるが、それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽどいやになっている。だから先がどれほどうまく論理的に弁論をたくましくしようとも、堂々たる教頭流におれを遣り込めようとも、そんな事は構わない。議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中までれさせる訳には行かない。金や威力いりょく理屈りくつで人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査じゅんさでも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。
「あなたの云う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。考えたって同じ事です。さようなら」と云いすてて門を出た。頭の上には天の川が一筋かかっている。

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