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今日の「情熱大陸」(TBS系)は興味深かった。米国の高校で奮闘する日本語教師のドキュメンタリーである。全く英語を話せないまま渡米し、今では自由に英語を操りながら、その日本語教授法が高く評価されている。“日本語(母国語)を外国人に教える”というのは、日本語を母国語とする人ならば誰にでも出来る、と思われがちだが、そう一筋縄にはいかない。しかも、母国語というのは常に主観的なものであり、客観的に見ることなどほとんどないので、我々が極々普通に使っている表現が、日本語学習者にしてみれば「なぜ?」と思うことがあれこれあるのである。

今天的《情热大陆》(TBS系)很有意思,这一期记录了一位在美国高校奋斗的日语教师的故事。她在完全不会说英语的情况下远赴美国,如今不但英语能运用自如,连日语教育方法也得到了颇高的评价。可能大家容易有这样的误解,那就是只要母语是日语,谁都能去教外国人,但事实上却没那么容易。而且,母语这东西非常具有主观性,人们很少会客观的去看待它。因此,平常我们再熟悉不过的那些表达,在日语学习者看来,总是有这样那样的不解。

例えば、“赤い靴”“青い空”“黒い髪”“白い雪”と言うのに、なぜ“緑い葉っぱ”と言わないのか、“紫いぶどう”と言わないのか。はたまた、なぜ“黄い柿”と言わずに“黄色の柿”と言うのか。“大きな体”“小さな石”とは言うが、“丸なボール”とはほとんど言わない。“丸いボール”と言った方がより自然である。動詞の活用にしたって、“遊ぶ”を“遊んでいる”、“走る”を“走っている”と何の疑問も持たずにごく自然に口にしている。決して、“遊っている”“走んでいる”などとは間違わない。これらの一定のなさが語学学習者には厄介なのである。

比如,为什么“赤い靴(红鞋)”“青い空(蓝天)”“黒い髪(黑发)”“白い雪(白雪)”这些说法可以,“緑い葉っぱ”、“紫いぶどう”就不行呢?还有,为什么是“黄色の柿(黄色的柿子)”而不是“黄い柿”呢?虽然我们会说“大きな体(大块头)”“小さな石(小石头)”,但却很少说“丸なボール”,“丸いボール(圆球)”这种说法更加自然。还有动词的活用也是如此,我们会很自然的把“遊ぶ”变成“遊んでいる”,把“走る”变成“走っている”,没有任何疑问,也绝不会错说成“遊っている”“走んでいる”什么的。这种无规则性对语言学习者来说十分棘手。

日本語には冠詞(英語でいう“a”や“the”)がないので、日本人が英語を話すと冠詞を抜かしがちだが(ちなみに僕の卒論は、英語とフランス語の冠詞比較だったほど、冠詞にはうるさい冠詞大好きッ子である)、助詞(~は、~の、~を、など)のない言語を母国語とする人が日本語を話すと、なかなか正しく助詞を使い分けられない。

日语中没有冠词(如英语中的“a”“the”),因此日本人在说英语时容易将它们漏掉(顺便说下,我很是热爱冠词,对冠词研究也颇深,甚至连我的毕业论文都讲的是英语与法语的冠词比较),而母语中没有助词(~は、~の、~を等)的学习者在说日语时总是容易将它们混淆。

まぁ、コトバなんて伝わればいいのだから、冠詞がなかろうが、助詞を間違えようが、コミュニケーションに際して何ら問題はない。だが、今挙げた例のほかにも山のように、「この時はなんでこういう風に言うの?」と訊かれると、母国語であるゆえに答えられない。いちいち文法は考えないし、そもそも母国語の成り立ちやら文法など、ほとんど知らない。外国人の方がよほど詳しかったりする。日本語を客観的に捉え、学習するからである。僕の場合も同じで、英語圏の人より英文法を、フランス語圏の人よりフランス語文法を知っていて、「なぜこういう言い方をするのか」と問われたら、ネイティブ・スピーカーたちよりは的確に答えられるはずである。

不过嘛,语言这东西只要能传达清楚意思就行了,冠词有没有、助词对不对,在交流中不会有什么问题。只是,除了刚才我举的那些例子,还有很多时候都是如此,当被问道“为什么这种时候要这么说”时,我们会因为是母语而答不上来。因为平时不会把语法想得那么清楚,说到底,其实我们对母语的构成以及语法基本上都不了解。对于这些,有时候外国人要比我们清楚的多。因为他们是站在客观角度看待日语、学习日语的。我自己也是如此,我比英语圈的人更懂英语语法、也比法语圈的人更懂法语语法,如果被人问道“为什么要这么说”,想必能比本土人回答的更加准确。

今、友人にフランス語を教えているが、初心者を教えるのが一番難しい。でも、外国語を他人に教えるのは好きだし、分かりやすく説明する自信もある。しかしそれよりも難しいのは、「外国語」として勉強していない日本語を外国人に教える時だ。「それはそういうもの」「これはこういう言い方、覚えるしかない」「何でって言われても、そういう言い方だから」などと、答えにならない答えばかり出る。

如今我在教朋友法语,教初学者是最难的。不过,我又比较喜欢教别人外语,所以也有自信能够给出易懂的解释。然而,还有比这个更难的,那就是把对我来说非外语的日语教给外国人,结果总是会出现一些不是回答的回答,比如“这个就这样了”“就是这么说的,只能死记”“什么为什么啊,就是这样的说法了嘛”等等。

そして文法もそうなのだが、実はもっと説明に困ったことがあった。高校時代、我が家にホームステイをしていた台湾人留学生は、テレビで「クレヨンしんちゃん」を観ている時、やくざ風の男が親分に同下座しながら、

然后语法也是如此,其实,我曾经遇上过更难说清的事情。高中时期,曾经有个台湾留学生寄宿在我家,某日我们在看电视《蜡笔小新》,画面中出现了一个黑道模样的男人,他一边给头头跪下一边说,

「お願いします!どうか私を男にして下さい!!!」
と叫んだのを聞いて、僕にこう訊いた。
「この人、女の人なの?」

“拜托您了!请您一定要把我变成一个男人!!!”
他听了后,问了我一句。
“这人,是女的?”

文法がどうのこうの、言い方がどうのこうのよりも何よりも、文化や歴史、そして習慣を背景にしているのが言語である。ニュアンスの問題である。こういう質問をされた時ほど、腹の中で蚊が飛んでいるような歯痒さになることはない。

不管语法怎样,表达方式怎样,其实最重要的是它背后的文化、历史、还有习惯,这才是语言。这是语感问题。当我被问道这个问题时,心里痒的简直跟虫子挠似的,再也没比这更夸张的了。

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