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言語学と語学とは違う。言語学者が語学を習得するのはちょうど工学系の学生が様々なプログラミング言語を習得するのに似ているかもしれない。

语言学和外语学习是不同的。语言学家掌握外语就如工科学生要掌握各种程序设计语言一样吧。

注:言語学(げんごがく)とは、人間言語を対象とする科学的研究。実用を目的とする語学(母語以外の言語を学ぶこと)とは異なり、言語そのものの解明を目的とする。

語学は訓練だ。習うより慣れよの世界だ。言語学が“study”だとすれば語学は“learn”である。ある程度、強制でなければならない。鹿島茂は山崎正和の『文明としての教育』(新潮新書)の書評で次のように書いている。

外语学习是个训练过程,在这个圈子里,与其等别人来教,不如靠自己摸索领悟。如果语言学是“study”,那么外语学习便是“learn”,某种程度来说必须得强制。鹿岛茂(日本法语文学家、评论家)在山崎正和(日本剧作家、评论家)的著书《文明としての教育》(新潮新书)中写下了这样的书评。

これは外国語教師を三十年やってきた経験から言うのだが、外国語教育において最も好ましいものは「強制」であり、最悪なのは「自由」である。好きなときに好きなものをという自由放任の教育では、外国語は絶対に上達しない。

据我从事外语教师这行业三十多年的经验来看,在外语教育中最让人满意的方式是“强制”,最糟的则是“自由”。让学生处于放任自由型教育之下,也就是在喜欢的时间做自己喜欢的事情,外语是绝对不会进步的。

なぜか?外国語教育では、まずソシュール言語学でいうところのラング(規範体系としての言語)を徹底的に覚えさせなければならないが、これは、パロール(個人が運用する言語)とは異なり、先験的に存在するものであるから、外国語学習者を外部強制的にそこに着床させなければならないからである。

为什么?因为在外语教育中,教师必须让学生先彻底记住词汇语法体系(语言规范体系),这和个人语言应用不同,是种先天性的存在,因此必须从外部强制性让学习者融入其中。  

注:ソーシュール(スイスの言語学者、言語哲学者)の言語学では、言語活動であるランガージュを、ラング(言語の社会的側面)とパロール(言語の個人的側面)と分ける。ラングとは端的に言えば語彙と文法であり、パロールは原語のフランス語を反映しているように、発話となる。が、パロールは単に声に出して音声発話という意味ではなく、ラングの運用を指す。たとえば、「この部屋は寒いですね」という言語活動において「あなたにその窓を閉めてもらいたいのですよ」といった意図を反映するといった事象などは、パロールの領域の問題である。

本書の教育論を理解するには、このラングとパロールの二元論を頭に入れて、前者を「文明」、後者を「文化」と置き換えて読み進めていくのがいい。著者によれば、文明とは、繰り返された共同体の思考・行動が一定の形式(規範)に整えられて「体系」となった言語・技術・法律・礼儀作法・思考などを意味するのに対し、文化とは「文明が人間の身についた姿」であり、「身体化された文明」であるという。

要想理解本书的教育论,可以先记住上面提到的二元论,然后将前者置换成“文明”,后者置换成“文化”,再进行阅读便可。用作者的话来说,文明就是指社会共同体的思考及行动模式不断重复、洗练后形成的一定(规范)的体系,比如语言、技术、法律、礼法、思考等,而文化则是指“文明反映在人身上的行为”,即“文明身体化”。

例としてあげられるのが「ピアノと楽譜=文明」と「ピアノが弾けること=文化」の違いである。ピアノや楽譜は西洋文明の典型であり、楽譜は頭の中の秩序、ピアノは頭の中の技術を物質化したものである。では、ピアノが弾けるとはなにか?「たんにマニュアルに従い、順を追って鍵盤を押すということではありません。キーの前に座ったら、もう指が動いてしまっているという状態になったとき、真の意味でピアノが弾けるといえます。当然ながら、この行動には価値の上下があって、上手な人もあれば、下手な人もあるわけです」

就比如《钢琴和乐谱=文明》与《会弹钢琴=文化》两者之间的区别。钢琴及乐谱是西洋文明中的典型,乐谱为大脑中的条理,而钢琴则为大脑中的技术实体化的产物。那么,会弹钢琴又是指什么呢?“它并非只是遵循操作规范,照顺序按下键盘这么简单一回事儿。演奏者一坐在键盘前,手指便不由自主的动起来,达到这种状态才称得上是真正的会弹钢琴。当然,这种行为也存在价值差异,既有擅长的人,也有不擅长的人。”

頭の中にあるのが知識で、外にあるのが情報。例えば、語学の大部分は知識で、言語学の大部分は情報といえる。

存在于大脑中的内容称之为知识,散落在外部的内容称之为信息。或者,我们可以这么说,外语学习中大部分是知识,语言学则大部分是信息。

語学の天才といっても2種類ある。ある言語が深くできる人と、たくさんの言語ができる人(ポリグロット“polyglot”という)である。前者には例えば、森鴎外をはじめとする明治の英語の達人がいる。

外语学习中有两种天才,一种是深入掌握了某种语言的人,另一种是会多门语言的人(这种我们称之为ポリグロット“polyglot”)。比如,以森鸥外为首的明治时期的英语大家们便是前者。

注:森鷗外(もりおうがい)は:明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。第一次世界大戦以降、夏目漱石と並ぶ文豪と称される。

同時通訳で作家だった米原万里は岩波の『読書のたのしみ』で次のように書いている。

身为同声传译家、作家的米原万里先生在岩波文库《読書のたのしみ》一书中这样写道。

現在、曲がりなりにも私が母語の日本語と第一外国語のロシア語を使いこなし、両者のあいだを行き来する通訳という仕事で口を糊することができるのは、ふたつの言葉で多読乱読してきたおかげだと思っている。新しい言葉を身に付けるためにも、維持するためにも、読書は最も苦痛の少ない、しかも最も有効な手段である。だから、「通訳になるにはどのくらいの語学力が必要なのでしょうか」と尋ねられるたびに、私は自信満々に答えている。小説を楽しめるぐらいの語学力ですね、と。そして、さらにつけ加える。外国語だけでなく、日本語でも、と。

虽说在能力上还多有不足,但如今我也算是能将母语日语及一外俄语运用自如,靠这两边打交道的翻译工作来养家糊口,能做到今天这样,多亏了我一直用这两种语言泛读滥读至今。不管是掌握新词新句还是保持语言能力,读书都是痛苦最少且最有效的一种手段。所以每当有人问我“成为翻译家需要有多强的语言能力”时,我总是颇有自信的回答说, “能把读小说当成是一种享受,大概这种程度吧”,之后又不忘再加一句,“不光是外语,对母语日语也是如此”。

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