上野老街 百卅周年

大きな荷を重そうに背負ったおばさんたちの姿が、今も脳裏に浮かんでくる。茨城や千葉方面から東京に野菜などを売りに来ていたのだろう。子どものころ、上野駅に行くとしばしば目にした光景だ

大妈们吃力地背着硕大箩筐的形象至今仍浮现在我的脑海。她们都是从茨城以及千叶等地来东京卖菜的。孩提时代,每每来到上野车站,经常能看到这一光景。

東京の北の玄関口が、おととい開業130周年を迎えた。昨年新装成った東京駅よりはだいぶ古い。節目を記念して、寝台特急が発着する13番ホームの発車合図が変わった。「あゝ上野駅」である

这个被称为东京北大门的地方,前天迎来了它开业130周年。当然,相比去年改造完工的东京站,这里更显得古朴亲民。因为这次的纪念活动,卧铺特快列车的始发站台第13号站台也改变了发车时总要播放的固定乐曲,将其改成了“啊,上野站”。

1964年に発売された井沢八郎のヒット曲。集団就職で地方から出てきた若者たちへの応援歌として、いまも多くの人の記憶に残る。♪くじけちゃならない人生が あの日ここから始まった…

这是一首于1964年面市销售的热播歌曲,由井泽八郎创作。作为一首鼓励那些从各地进京打工年轻人的劲歌,至今仍有不少人记忆犹新。♪不屈的人生,自那一天从这里开始······

この歌詞を地で行くようだったのが、後の首相、田中角栄だ。34年3月、15歳の少年は郷里新潟を出て上野に降り立った。ところが、自伝『わたくしの少年時代』には駅についての記述がない。すぐにタクシーに乗り、運転手にカモにされた。その経験が強烈すぎたのだろうか

有一名青年用自己的人生实践了歌词内容,他就是后来成为首相的田中角荣。1934年3月,一个才15岁的少年离开了家乡新澙来到了上野。不过,在他那本自传《我的少年时代》里并没有关于车站的记叙。光写到他立刻坐上了出租车,还被司机狠狠地宰了一把。或许是因为这一经历留下的印象过于强烈的缘故吧。

東北線や常磐線などの地上ホームは線路が行き止まりになっている。終着駅らしいつくりと雰囲気が旅情をそそる。今は新幹線も東京駅に通じ、通過駅になりかけているが、「ふるさとのなつかし停車場」(啄木)の魅力は変わらない

停靠东北线及常磐线等地方进京列车的站台边的铁轨都能看到尽头,这种终点站特有的氛围勾起了人们游兴。如今,新干线也都停靠在东京站了,这里成了通过车站。可即便如此,啄木先生的那首俳句魅力依旧,〈远离故土一书生,思念乡音欲断魂,车站旅客人潮涌,东北方言尚可闻〉

一時は駅舎を超高層ビルに建て替える計画もあった。バブル崩壊で構想が消え、独特の外観が保たれたのは幸いだった。博物館に美術館に音楽ホール、動物園に不忍池(しのばずのいけ)にアメ横。多彩な楽しみに溢れた街に摩天楼は似合わない。

有一个时期,甚至制订了将车站建筑改建成超高层摩天大楼的计划,由于经济泡沫的破灭构想也随之烟消云散,值得庆幸的是它的这一独特外观也因此而得以保全。博物馆、美术馆、音乐厅,动物园、不忍池还有ame横丁街,摩天大楼与这些洋溢着多彩情趣的街区是极不般配的。

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