盛夏节电 面临考验

「みずばち」という言葉を幸田文(あや)の随筆で知った。明治生まれのこの人が若いころ、水を雑に使うと「いまに水罰があたって、水で不自由する」と叱られたそうだ。おまえに水がこしらえられるか――。叱る大人には、水は天地自然のおかげさまという思いがあった

“水罚”一词是从幸田文的随笔中获悉的。在出生于明治年间的此人年轻时,听说每当挥霍用水总要遭到训斥,“你立刻会遭到水罚,让你用不上水。”你能造出水来吗?因此,在训斥他的大人们心里有一种观念认为,水是天地自然的恩赐。

昔読んで以来、節水の夏が巡るたびにこの言葉を思い出してきた。2年前からは節電が加わった。必要なだけ電力会社がこしらえてくれるのをいいことに、思えば無邪気に使っていた。東日本大震災の後の、痛い自省である

自打过去读了这篇文章之后,每当节水的夏季来临时我就会想起这个词。从2年前开始还加上了个节电。我们总是借着电力公司一定会制造出必要的电力来,于是便不加思索地随意使用。这是自从东日本大地震之后我的一点沉痛反省。

そして3度目となる「節電の夏」が、きのうから始まった。過去2年と違って今年は数値目標がない。真に節電が定着するか、リバウンドしてしまうのか、試されることになる

第3次“节电之夏”昨天已经开始。与过去2年不同的是今年未设定数值目标。那么,节电能真正落实到位吗?会不会反弹回到原先的程度?实际情况将面临考验。

去年は夏本番を前に、福井県の大飯(おおい)原発だけが運転を再開した。政権は代わって、今の政府は再稼働に前傾を強めている。福島の教訓を忘れて、「必要ならいくらでもこしらえますよ」という誘惑に乗りたくはないものだ

去年,在盛夏到来之前仅福井县大饭核电站一家重新开始运转。政权更迭之后,这一届政府对于重启核电表现出较强的倾向性。但是,我们不希望忘记福岛的教训,又上“只要有必要,要多少就能发电多少。”之类诱惑的当。

幸田文に話を戻せば、東京の町なかへ来て驚いたそうだ。洗濯も食器洗いも水道を流しっぱなしで、「水罰」などと言う人はいなかったと書いている。時は流れて電気もしかり。現代人は少し、緩んでいたように思う

再把话题说回到幸田文上来,文章写道,他到东京城里一看吓了一跳,无论是洗衣物还是洗餐具,只见都是打开水龙头让水哗哗流,竟然没有一个提出劝诫,说点诸如“水罚”之类话的人。时光流逝,电力方面也已然如此。让人觉得,现代人真的太不在意了。

地球は未来からの預かりもの、と言う。始末のつかぬ使用済みの核燃料などをもうこれ以上、子孫にツケ回ししたくはない。きのうは職場の棚から団扇を引っ張り出し、風をもらって仕事をした。今年も頼もしい、夏の友である。

都说地球是未来托付给我们的寄存物。诸如无法收拾的用毕核燃料等伤害,再也不想更多地遗留给子孙后代来承担了。昨天,我从办公室的柜子上找出了一把团扇,工作中用它扇出点风来驱赶炎热。今年也不例外,还是要它当我可靠的盛夏之友。

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