战争残酷 黎民受害

後に東北大、明治学院大で教鞭を執った作間忠雄さんは、大学2年の43年に学徒出陣で海軍に入り、零(ゼロ)戦のパイロットになった。腕には自信があったが、特攻隊員の名簿には入らなかった

日后执教于东北大学、明治学院大学的作间忠雄先生在他大学2年1943年的时候以学生参军的形式加入了海军,成为一名零式舰载战斗机的驾驶员。虽然对于自己的技术很有信心,可就是进不了特攻队员的名单。

志願したのに選に漏れ、不満を抱く何人かで上官に抗議すると、選抜の基準を教えられた。「この戦争は負けだ。しかし、日本民族が全滅しては困るから、男独りか長男は除外せよとの命令だ。気持ちはわかるが、諦めろ」。出撃が決まった同僚は「死にたくない」と涙声で話した

明明有此志愿却被漏选,于是便拉上几个怀有不满情绪战友向上司提抗议,却被告知了选拔的标准,说“这场战争注定失败,可也不能让日本民族因此而彻底毁灭,有命令说独子或长子排除在战斗员之外。你们的心情可以理解,就死了这条心吧。”而那些被决定将要上战场的战友却哭哭唧唧地说“不想去死”。

次男や三男の隊員が次々と沖縄の海に散っていった。そのことが作間さんの脳裏を離れず、後に「沖縄の戦跡(たたかいあと)に憶(おも)う」と題する詩を書く。〈戦友(とも)よ/君は見たに違いない/あの凄惨な沖縄戦の地獄絵を/石塊(いしころ)のように殺され焼かれた島人を〉

那些在家里排行老二及老三的队员纷纷坠落于冲绳的海面,当时的情景在作间先生的脑海里久久萦绕挥之不去,后来他以此创作了一首题为“追忆冲绳战迹”的诗歌,〈战友啊/你一定看到了/冲绳战场那幅凄惨的地狱画面/那些被视同石块般惨遭烧杀的岛民〉

復員し、憲法研究者になった。93年に本紙「論壇」に寄稿している。先の大戦が「侵略戦争」だというなら、兵士らは「犬死に」だったのかという議論が起きていた。断じて違うと作間さんは書いた。「彼らは『日本国憲法』に化身して、平和日本のとなった、と私は確信している」

复员之后,他成了一名宪法研究者。1993年还曾投稿于本报“论坛”栏目,参与社会上出现的激烈争论,如果那场大战是“侵略战争”的话,那些士兵难道都是“白白送死”了吗?作间先生认为绝不是那样,文章称“我坚信他们化作了‘日本国宪法’,成为了和平日本的基石。”

作間さんは先月15日、90歳で亡くなった。最近、たまたま生前の著作『二十一世紀を生きる君に』を手にし、その事跡を大急ぎで追ってみた。わかったことには限りがあるが、紹介したくなった

上个月15日作间先生以90岁高龄辞世。最近,我还时不时地拿出他生前的著作《面对生活在二十一世纪的你》,急切地追逐当时事件轨迹。虽然知道的也很有限,但是很想告诉大家。

戦争を知る世代が少なくなった。政界でも同様である。安倍政権がきのう「主権回復」の式典を催した。作間さんならどう考えたか、と思う。

了解战争的那一代人越来越少了,政界也一样。昨天,安倍政权举办了“恢复主权”纪念活动,不知道作间先生会作何感想?

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