昭和32年、新任の所長が着任してきた。篠原武司は鉄道の可能性を世に訴える講演会をやりたいと言い出した。三木、松平、そして公職追放が解かれた河辺にも声がかかった。お互いなんの研究をしているか知らなかった。彼らは熱海の旅館に集まった。そして、自分たちの研究を付き合わせた。三木は飛行機の形を列車に持ち込みたいと考えていた。列車の車体を流線形にし、軽量化すれば、飛躍的にスピードが上がると訴えた。松平は車体の振動を吸収する台車を作れば、脱線を恐れずスピードが出せると言った。河辺は低周波の信号を使って、列車を自動的に止める装置を研究していた。どんな高速でも、安全面は保障すると言い切った。全員の研究が付き合わされた時、一つの超高速列車の姿が浮かび上がってきた。7時間半かかる東京、大阪間が実に3時間で走れると弾き出されたのである。
1957年,新一任的所长正式上任。所长筱原武司说,想做一个演讲来向世人展示铁路的潜力。于是,三木和松平被召集了起来,被解除了公职的河边也被重新启用。而他们相互之间当时还不知道对方是研究什么的。于是他们在热海的旅馆里碰头,相互介绍了自己进行的研究。三木表示,想模仿飞机的外观设计,来设计一种流线型的火车车体,这样一来,只要减轻车体重量,就可以使速度得到极大的提升。松平说,如果制造一种吸收震动的装置的话,就可以提高速度而不用担心列车脱轨。河边此前一直在研究一种可进行自动刹车的低频率装置,他断言,使用这种装置不管速度多快都可以确保安全。当把他们各自的研究集合起来的时候,一列超高速列车的身影终于浮现在了大家面前。东从京到大阪的火车原本需要7个半小时,而超高速列车只需花费3个小时。