选自《精彩日文晨读II-触动心底的幸福》
眼 心の窓 眼は口ほどにものを言い、と昔から言われていることだが、それどころではない。眼は口に優れているときのほうが多い。 口はあまり信用できないが、眼は心の中まで透かして見せる。 眼の中のどこにどう現れるのか、微妙すぎて説明できないが、人の心の動きが、そのママ眼に現れる。それは恐ろしいほど、眼の中の動きとなって現れる。 私は自分の視線が、相手の視線と合うことが怖い。つい視線を逸らしてしまう。心正しくない証拠だ。どうしても視線を逸らしてしまう。相手に負けている証拠であろう。 これは、ひどく行儀の悪いことだと言われている。確かに相手に対して失礼なことかもしれないが、どうしても相手の眼をまともに見て話すことができない。それは卑怯だと自分でも分かっているのに、眼を逸らしている。 だが、相手が話しているときだけ、相手の眼を見ている。私はずるいのだろうか。言葉で言われている以上のことが相手の眼の中に読み取ろうとしているのか。 私の場合は、対人恐怖症の中の、視線衝突恐怖症というようなものだろう。 相手の視線と自分の視線が空中で衝突して、カチンと火花を散らす、それが怖いので、本人の私には悪気がない。ただ視線がぶつかる時に、負けてしまうのだ。 私は、しゃべる時どうしても伏し目になってしまう。相手の視線から、眼を逸らしてしまう。 この頃になって気がついたことだが、私の作る彫刻の眼までが、伏し目がちになっている。 これも視線衝突を避けているのだが、これは恐怖症とは少し違う。 カッと眼を開いた彫刻は、私には強すぎていけない。 眼を伏せている方が、見る人の心を吸い込むことができるような気がする。
眼睛 心灵的窗户 有一句老话说,“眼睛像嘴一样会说话”。我觉得不仅如此,有的时候眼睛甚至比最还要厉害得多。 嘴有的时候不可靠,而透过眼睛,却能看到人的内心。 很难说清人的心事在眼睛的什么地方,以什么样的方式表现。但人的心事,的的确确就是那么直接地映在眼睛里,伴随着眼神的细微变化,直接的让人稍觉恐怖。 我害怕碰到别人的眼神,总是不知不觉地避开。大概是我的心不过纯粹吧。反正就是要避开,或许我就是这么输给对方了吧。 人们都说这样做没有礼貌。我也知道那样对对方很失礼,但是无论如何我都无法在对别人说话的时候直视对方。我知道这样会显得懦弱,但就是改不了。 但是,在听别人说话的时候,我却一定要看着对方。我是不是很狡猾。因为我不但要听他的声音,还要透过他的眼看到他的心。 有一种病症,叫做对人恐惧症。我大概属于其中的视线冲突恐惧症吧。 我害怕两个人的目光在空中相撞的那一瞬间,害怕那一瞬间迸射出的火花。我只是害怕而已,并无恶意。只是害怕,所以在相碰撞的那一瞬间我就一败涂地。 我在说话的时候,无论如何都要把眼光放低的,无论如何都要错开对方的目光。 最近我又发现一件事,就连我的雕刻作品的眼睛,也多是低着的。 这可能也是为了避开视线的碰撞吧。但是跟恐惧症还有点不同。 “啪”的睁大眼睛的雕像,对我来说太沉重了。 我反而认为,低着眼神的雕像,似乎更能吸引观赏者的目光,让人刻骨铭心。