私は1990年代に1年半イギリスのスコットランドに滞在し、その後で日本に帰ってきた時、翻訳書でいっぱいであると改めて気づかされた。何をいまさらと言われるかもしれないが、そう、われわれは翻訳文化の国にいる。自分のものを外国に輸出するより、熱心に外国のものを紹介し学び続けているのである。でも翻訳がなければどうだろう。ロシアの文学本も、ドイツの思想書も読むことはできない。それを考えれば、翻訳があることはたしかに便利でありがたい。

90年代我曾在英国苏格兰呆了一年半,之后回到日本时,再次意识到这儿遍地都是翻译书籍。可能会有人觉得我大惊小怪,确实,我们身处在翻译文化国度。即比起向外国输出自己的东西,更热衷于不断介绍并持续学习外国的东西。但如果没了翻译会怎样呢?那么不管是俄国的文学书、还是德国的思想书,都只会是天书。这么一想,有翻译存在确实方便且值得我们庆幸。

他方、こういうことがある。ある研究会でイギリス経済学の古典の解釈を聞くことがあった。その時に報告者は当の経済学者が書いた別の本をあげて、その訳書が何を言っているかさっぱり分からないと漏らすことがあった。思うに、それには2つの原因がある。1つはその古典の性格からくることであって、われわれ日本人はイギリス経験論の手法に馴染みが少ない。もう1つの原因は、翻訳がまずいことである。翻訳は大変な努力を要するのであるが、読者に本を閉じさせては何のための翻訳かとなる。私も当の訳書には報告者と同じ感想をもっていた。本当に分かりたければ「原書」――原書と言う言葉そのものがおかしいのだが――を読んだ方がいいと言いたくなるが、それでは翻訳する意味はない。私が問題にするのはいわゆる誤訳のことではない。語学的にいくら「正確」な訳であっても、ヨコのものを逐一タテにするだけで、読み手に内容を著者に代わって伝えようとすることのない訳、これが問題である。訳者に自分で読んでみてくれ、分かるか?と言いたくなることがある。つまり訳文が常に「原文」を思い起こさせ、われわれの言葉、「日本語」になっていないことがある。

另一方面,还有这样的情况。我曾在某次研究会上听取关于英国经济学的古典释义。当时汇报者例举出了那位经济学家的另一本著作,称那本译书完全不知所云。我想原因有二,其一是源于日本人的古典性格,我们不太能适应英国的经验论手法。其二则是翻译糟糕。翻译是很需要下功夫的事,但如果读者都不待见,做来又有何价值呢?对于那本译书,我和汇报者想法是一致的。如果真想弄个明白,去读原著(当然原著这词本身就很怪)就行了,只是这样一来翻译就没了意义。我觉得问题并不在于所谓的误译,而是这样一种翻译,它尽管从语言学角度来说十分“正确”,事实上却只是变了种说话形式,而忽略了要代替作者向读者传递内容这一目的。有时候真的想问问译者,你倒是自己读读看,能读懂吗?也就是说,这类译文并没有变成我们自己的语言“日语”,而是常常让人想起原文。

それとはまったく反対の訳はある。最近の経験であるが、ポール・ド・クライフンの『微生物の狩人』を秋元寿恵夫の訳で読んだ時である。最初の一行からまったくなんの障害もなくすっと入り、その世界にひきこまれてしまった。著者がアメリカ人であることをまったく感じさせず、直接われわれ日本人に語っているかのようであった。訳文がそのまま「原文」となっているのである。元の英語がよい文章であったかもしれないが。そんなわけで微生物学史の世界を何の苦もなく歩きまわることができた。それと比べると、たいていの訳書は訳文と「原文」との間がしっくりせず、読んでいて隙間風を感じることが多い。

另外还有完全与此相反的翻译。这是最近我读秋元寿惠夫所译的保罗•德•克鲁伊夫著作《微生物猎人传》时感受到的。这书第一行读来便如行云流水般流畅,让人不觉间被带入那个世界。我完全感觉不到美国原作者的影子,而是仿佛有人面对面向我们日本人述说着一般,可以说是译文如原文。当然或许是英文原文本就比较出色。这么一来,我便能在微生物史世界里毫无障碍地踱来踱去。相比之下,大多数译书都没好好把握住译文与“原文”之间的平衡,很多时候读起来总是觉得别扭。

未完待续,敬请期待下期——翻译轶事之福泽谕吉篇

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