Perfume粉丝的日本主持举办的“电音法要”是什么?
作者:Amane译
2018-12-16 06:30
お寺のお堂やスクリーンにサイケデリックな映像が投影され、お洒落なテクノ音楽が流れる中、低い読経の声が響く――奇想天外でありながらも、不思議な心地よさで人気を集めているパフォーマンスがある。
寺庙佛堂及大屏幕上投射着充满迷幻感的影像,伴随着时兴的电子音乐响起低沉的诵经声——这种好似异想天开却又给人不可思议的安心感的表演方式如今正大受欢迎。
テクノ音楽や照明、プロジェクションマッピングなど、最新の技術を用いて極楽浄土の世界観を演出した「テクノ法要」。なぜ、今、「テクノ法要」なのか。「テクノ法要」を主宰し、東京国立博物館で12月9日まで開かれる「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」展とのコラボレーションでパフォーマンスを披露した福井・照恩寺住職の朝倉行宣さん(51)に話を伺った。
“电音法要”是运用电子音乐、照明、投影映射等最新技术来展现极乐净土的世界观。为何如今 “电音法要”会受人追捧?笔者采访了到12月9日为止在东京国立博物馆和“京都 大报恩寺 快庆・定庆的佛陀”展进行联动表演的福井・照恩寺住持朝仓行宣(51岁)。
「テクノ法要」が新しいとは思わない
我不认为“电音法要”是全新的事物
——2016年5月から始められた「テクノ法要」ですが、そのあまりの斬新さに当初から話題になっていましたね。今年の4月には、「ニコニコ超会議」で2000人以上の前でパフォーマンスをされました。
——“电音法要”始于2016年5月,因太过标新立异当时一下子成为了话题。今年4月,您于“niconico超会议”上在2000多名观众前进行了表演。
朝倉行宣さん(以下、朝倉):ネットを中心に、若い方々には「きれいだね」「すごいね」と、お年寄りからは「もうすぐこういう世界にいけるのね」と温かい言葉をいただいています。
朝仓行宣法师(以下简称朝仓):主要是在网络上收到了许多令人欣慰的回应,年轻人们表示“真是悦耳”、“好棒”;而年长者则表示“再过不久就可以去这样的世界了呢”。
ただ、私自身はこの「テクノ法要」を新しいことだとか、斬新なことだとは考えていません。たとえば、世界遺産の宇治の平等院も、できた当時は最先端のアミューズメントだったと思うんですよ。金箔が貼り付けてあったり、さまざまな彫刻があったりして、1000年前の最新技術を使っている。極楽浄土の世界観を、そのときの技術でめいっぱいに表現したものであって、当時を生きた人たちにとってはびっくりするようなものだったと思うんです。
然而,我个人并不认为“电音法要”是种新事物或是种突发奇想的产物。例如世界遗产之一宇治平等院,在落成初想必是当时最前沿的娱乐圣地,贴着金箔,塑有形态各异的雕刻,采用了1000年前最新的技术。对那时的人们来说,那是以当时技术最大限度地表现了极乐净土世界观的建筑,一定很叹为观止吧。
つまり、僕たちが伝統だと思っているものも、昔から自然に存在していたわけではなくて、誰かが新しく創造した表現がいいものだったから残っている。ですから、今、現代の技術を使って新しい表現に挑戦することは、特に目新しいことではないんです。
换句话说,一直被我们认为是传统的事物也不是自古便理所当然存在着的,而是由一些人创造出来,因为表现得当得以流传下来。所以如今使用现代技术挑战新的表现方式,也不是标新立异的事。
「寺離れ」を加速させる「お寺への誤解」
“对寺庙的误解”加速了“人们远离寺庙”
——そもそも、なぜ「テクノ法要」をはじめられたのでしょうか。
——话说回来,您是为何开始创作“电音法要”的呢?
朝倉:やはり、お寺のお参りが少なくなっていく状況が心配でして。普段からお参りに来ていただける方々というのは、お年寄りが中心なんです。でも、そうしたお年寄りの方も、だんだん足が悪くなってしまったり、それこそ亡くなったりして、いつもお寺を大事にしてくださっていた方々がどんどんいなくなっていってしまって……。
朝仓:归根结底,还是对寺庙参拜者越来越少这一现状感到忧心。平时来寺庙参拜的人主要就是老年人。然而,这些老年人不是腿脚越来越不方便,就是过世了,一直重视寺庙的人慢慢减少了…
その代わりに、息子さんやお嫁さんが新しくお寺にいらっしゃるかといったら、もういらっしゃらないんですよね。そういった中で、若い人たちや子供たちなど、幅広い世代の方々に興味を持ってもらいたいなと考えて始めました。
相对的是,这些老年人的儿子和儿媳已经不再接替他们来参拜寺庙。在这个过程中我们开始思考,如何让年轻人、孩童等各个年龄层的人对寺庙产生兴趣。
——たしかに、普段からお寺に足を運ぶ習慣は、若い人にはないですよね。
——的确,年轻人没有平时去寺庙参拜的习惯呢。
朝倉:お寺に対して非常に誤解があると思うんですよ。たとえば、「法要」という言葉。今、辞書にまで「法要=亡くなった方を弔う行事」と書いてあるんですが、実はこれ、間違いなんです。
朝仓:我认为年轻人对寺庙有很大的误解。比如说“法要”这个词。现在连字典里都写着“法要=祭奠逝者的仪式”,实际这是错误的。
——そうなんですか。
——是这样吗?
朝倉:ええ。仏教では、仏の教えそのものを「法」というんですけれども、本来はその「法」の「要」に出会うことを法要というんですよ。
朝仓:是的。在佛教中,佛的教诲称为“法”,而本来的“法要”是指领会“法”的“核心”。
ですから、 お釈迦様のお誕生日をお祝いする 「花まつり」も法要のひとつですし、仏前結婚式も法要のひとつ。亡くなった方をご縁とする法要は、法要の中の一部でしかないんです。
因此,庆祝释迦佛祖诞辰的庆典“花祭”是法要之一,在佛前举办婚礼也是法要之一。祭典逝者法要只不过是法要的一部分罢了。
仏の教えというのは亡くなった人のためではなくて、本来は生きている私たちのためにあるもの。それが、いつの間にか「法要」は亡くなった人のためにあるもの、と捉えられるようになってきてしまった。そうした誤解はどうにかしないといけないと思っています。
原本佛的教诲并不是为了逝者,而是为了生者存在的。然而不知从何时起,人们将“法要”理解成了为逝者而存在的仪式。我一直认为必须要解开这个误解。
若者に人気の仏教の教えは?
年轻人中受欢迎的佛教教诲是什么?
——「仏の教えは生きている人たちのためのもの」とおっしゃっいましたが、若い人たちに人気の教えはありますか。
——您说“佛的教诲是为了生者”,那有没有在年轻人中受欢迎的的教诲呢?
朝倉:たとえば、「固定概念を崩していこうよ」という話でしょうか。これは今っぽい言葉に聞こえますが、実は仏教の教えの一つでもあるんです。
朝仓:比如说,“打破固定观念”这句话。听起来很现代,但实际也是佛教教诲之一。
「正見」という悟りを開くに至る上で大事な教えでは、「物事の一面にとらわれて他の面が見えなくなると、間違った認識をしてしまいますよ」ということを説いています。人に対してもそうですよね。たとえば、間違いを犯した人について「この人はこんな悪いことをした」と考えるのも間違いではないんだけれども、それがその人の全てではない。
在“正见”,即开悟过程中,核心教诲中有这样的劝诫:“拘泥于事物其中一面而看不到其他方面时,就会产生错误认识”。对世人来说也是如此。例如面对犯错的人,想着“这个人竟做了如此坏事”并没有错,但这并不是此人的全部。
見方を「変え」なくてもいいんです。「変える」と言うと、それもひとつの見方を否定することになるでしょう。もっと違う面もあるかな、こんな一面もあるかな、と見方を「増やす」ことが、人付き合いでも、お仕事でも大事なんだと思います。
不“改变”见解也没问题,“改变”也是否定某种见解。还有其他不同的面,会不会还有这样一面,像这样“增加”自己的见解,无论在人际交往中还是在工作中都很重要。
テクノ法要のきっかけはPerfumeのライブだった
电音法要问世的契机是Perfume的演出
——もともと、音楽はお好きだったのですか。
——您原本就喜欢音乐是吗。
朝倉:若い頃は音楽で食べていきたいと思っていたくらい好きです(笑)。アーティストで言うと、中学1年生の頃からずっと好きなのはYMO。あとはレイ・ハラカミさんやコーネリアスとしてソロ活動している小山田圭吾さんなども好きです。
朝仓:我年轻时喜欢音乐到想要靠它吃饭呢(笑)。说到音乐人,我从中学一年级时起一直都喜欢YMO。还有REI HARAKAMI,以及以Cornelius之名单独活动小山田圭吾先生。
——「テクノ法要」をはじめるにあたって、元から音楽がお好きだったことは大きく関係しているということでしょうか。
——您开始创作“电音法要”,和原本就喜爱音乐有很大关系吧。
朝倉:ええ。直接のきっかけは、Perfumeのライブで「Dream Land」という曲のパフォーマンスを見たことです。「これ、意図して書いているのかな」というくらいに仏教的な歌詞の曲を、3人が羽衣をまとった天女様のような衣装でパフォーマンスしていて、「あっ、これは浄土だわ……」と思って。
朝仓:是的。直接契机是在Perfume的live上看了《Dream Land》这首曲子的表演。歌词特别有佛教氛围,甚至给人种“这是有意识这么写的吧”的感觉,舞台上盛装表演的Perfume三人就像身披羽衣的天女,不由让我如此做想“啊,这就是净土啊…”。
そこから、「仏教をこんな形で表現できたらいいな」と考えて、「テクノ法要」を始めることにつながりましたね。
此后,我开始考虑“要是能用这种形式表现佛教的话就好了”,这就是“电音法要”的开始吧。
音楽と仏教の意外な共通点
音乐与佛教间意外的共通点
——Perfumeもお聞きになるんですね。
——您也听Perfume呢。
朝倉:音楽に対しても偏見をなくそうと思っているんです。テクノだから好きなわけじゃないし、YMOの曲だからといって全部いいわけじゃないし。自分にとって「これはいい」という感覚を大事に、妄信しないように気をつけて、いろいろな音楽を聴くようにしているんですよ。
朝仓:面对音乐我也希望能消除偏见。我并不是喜欢所有电音,哪怕是YMO的曲子也不是全部都很棒。对我来说是重视“这曲子真好”的感觉,注意不能轻信,让自己接触各种不同的音乐。
——でも、いろいろな音楽を聴き続けるって難しくないですか。人間はある年齢になると、ピタリと新しい音楽を聴かなくなる、という研究があるとも聞きます。
——但是,一直听不同类型的音乐不是挺困难的吗?我曾听说有这样一个研究:当人到了一定年龄,就会突然不听新音乐了。
朝倉:いや、耳をフリーにしておくだけいいんですよ。街でも、テレビでも、ラジオからでも、あとは今はYouTubeからも、いろいろ流れてくるじゃないですか。そのときに、パッと「あっ、これいい曲だな」と思うだけでいいんです。
朝仓:不,只要让耳朵保持自由就好。不管是在街上,还是从电视、广播、以及如今的YouTube里,不是都能听到各种音乐嘛。只要那时突然觉得“啊,这曲子不错啊”就足够了。
仏教にもそういうところがあって、いろいろ流れていく中で、アンテナが1本あると、そのうちなにかが引っかかる。そうすると、「おもしろいな、いいこと言ってるな、もうちょっとアンテナ伸ばしてみようかな」となって、いつも通り過ぎているだけのものがひっかかってくるようになるんですよね。
佛教中也有与之类似的部分,在传来的各种声音中,只要竖着一根天线,届时就会挂住些什么。这样的话就会发展为“挺有趣啊,说得真好,要不要再把天线拉长点看看”,就会接触到日常不过擦肩而过的东西。
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