どのような民族も、食事について固有の文化を持っている。食べ物の味を構成する要素は、甘(甘さ)、酸(酸味)、苦(苦さ)、鹹(塩辛さ)、辛(辛さ)の五つであるといわれているが、各民族はこれらの味をさまざまな食材から取り出して調味料として用い、自分たちの味を作ってきた。そして、味の決め手となる調味料の組み合わせを、長い歴史の中から選び取ってきたのである。

不管是哪个民族,饮食文化都是固有的。一般来说,构成食物味道的要素有甜、酸、苦、咸、辣五种,但是各个民族从不同的食材中提取这些味道用作调味料,从而做成属于自己的味道。而且,决定味道的调味料的组合,是经过漫长历史而选取出来的。

日本人にとって、食事の味の決め手となる基本的な調味料は、味噌 と醤油だろう。塩、酢のほかさまざまな香辛料も無論使われるが、和食ならではの日本的な味を支えているのは、やはり味噌と醤油である。

对于日本人来说,决定事物味道的基本调味料是味增和酱油吧。当然也会使用除了盐、醋以外各种各样的佐料,但是支撑起和食独有味道的果然还是味增和酱油。

味噌と醤油が今日あるような形になるのは、安土桃山時代だとされる。この時代は日本の食文化にとって、転換期をなすものであった。米を主食に、味噌汁と魚介類の料理で食事を取るという、今日の我々の食事パターンが確立したのも、この時代だったのである。

据说是在安土桃山时代形成了今天的味增和酱油。那个时代对于日本的食文化来说可以算是一个转换期。吃饭是以大米为主食,有味增汤和鱼类贝类的料理,现在我们的饮食模式也是从那个时代确立下来的。

ではそれ以前に、味噌と醤油に相当するものがなかったかというと、そうではない。縄文時代から、日本には醤(ひしお)というものがあって、それが味噌と醤油の共通の祖先として、長い間日本人の味覚を形作っていたのである。

但在那以前,类似味增和酱油的东西也并不是没有。从绳纹时代开始,日本就有酱(ひしお)了,它作为味增和酱油共同的祖先,在长时间内构成了日本人的味觉。

醤(ひしお)とは、食材を塩漬けにして発酵させたものをいった。原料となる食材には、魚、肉、野菜、穀類などがあり、それぞれ魚醤、草醤、穀醤などと呼ばれる。この醤をもちいて、味付けをするのである。

酱是将食材腌过之后发酵而成的。作为原料的食材有鱼、肉、蔬菜、贝类等,分别叫做鱼酱、菜酱、海鲜酱等。用这些酱来进行调味。

中国の史書「周礼」には醤に関する記述があるので、中国人は紀元前数百年前から、味付けに醤を用いていたことがわかる。詳細は明らかでないが、魚醤あるいは肉醤であったと考えられている。これが東南アジアにも広がり、ナンプラー などの原点となった。

中国的史书《周礼》中有关于酱的记述,可以知道中国人从公元前数百年开始就用酱来调味。虽然记述并不详细,但是可以认为那是鱼酱和肉酱。酱也扩展到了东南亚,鱼露等就来源于此。

日本では、すでに縄文時代に、ドングリを材料とした醤が作られていたようだが、本格化するのは大和朝廷時代以降であるらしい。奈良時代には、醤院(ひしおつかさ)という役所があって、醤を生産していたとされ、平安時代には、市場で売られるようになった。これらは唐から伝わった唐醤(からびしお)を母体にしており、原料は大豆や小麦などの穀類であった。

在日本,早在绳纹时代,就有用橡子作为材料来制作酱的,但是真正开始好像是在大和朝廷以后。在奈良时代,有叫作酱院的地方,是专门生产酱的。在平安时代,酱开始在市场上销售。这以从唐朝传下来的唐酱为母体,原料是大豆和小麦等谷类。

この醤から分化して独自の発展をしたのは、まず味噌である。平安時代には言葉としても確立し、その名(未醤といった)で、市で売られていた。これは大豆を原料とした豆醤(まめびしお)で、調味料としてのほか、保存食としても食べられた。

从这种酱分化之后最先独自发展的是味增。平安时代作为词语确立下来,并以这个名字(未酱)在市场销售。这是以大豆为原料的豆酱,除了作为调味料,还作为易保存的食品供大家品尝。

豆醤は同時に貴重な蛋白源 としての効用を持っていたので、中世以降は、携帯用食品として、また戦陣用の食料として広く用いられたほか、僧侶の間で普及した精進料理にも活用された。安土桃山時代には、味噌汁として汁物に用いられることが一般的になり、煮物、焼き物、鍋物などあらゆる調理分野に味噌が用いられるようになった。

豆酱同时还有作为珍贵蛋白原的功效,在中世纪以后,作为便携式食品,以及前线用的食物被广泛使用,除此之外,还被活用为在僧侣之间普及的精进料理。在安土桃山时代,一般情况下是作为味增汤的汤汁使用的,之后渐渐用在炖菜、烧烤、火锅类食物等所有的烹饪领域。

味噌には地域によってさまざまな工夫が加えられ、徳川時代には、白味噌、赤味噌、八丁味噌、仙台味噌といった豊富なバリエーションが出来上がった。今日もっとも愛用されているのは、信州味噌であるが、そのほかにも地味噌ともいうべきユニークな味噌が、全国あちこちで作られている。

味增根据地区的不同经过各种各样的加工,在德川时代出现了白味增、赤味噌、八丁味噌、仙台味增等丰富的种类。现在大家最喜欢的是信州味增,但是除此之外,还有叫作“地味噌”的独特的味增在全国各地被制作。

一方醤油が独自に発展するようになるのは、早くとも鎌倉時代以降である。禅僧覚心が宋から伝承した金山寺味噌を作っているうち、底に溜まった溜り汁が珍味であったので、それを調味料として用いたのが始まりだとされる。

而酱油开始独自发展最早是在镰仓时代以后。禅僧觉心在做从宋朝传承下来的金山寺味增时,发现底下存积的大酱汁非常美味,所以开始把它用作调味料。

その後も、醤油は溜りとして発展する。今日のような醸造方法が確立されたのは、やはり安土桃山時代である。醤油という文字が現れるのは、慶長年間に刊行された「易林本 節用集」という本の中であるが、恐らくはそれ以前から言葉として流通していたものと思われる。安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、醤油は米の二三倍もする高価なものであったようだ。

在这之后,酱油也作为大酱汁发展。像今天这样的酿造方法被确立还是桃山时代。酱油这两个字出现是在庆长年间发行的「易林本 節用集」这本书中,恐怕在这以前就作为词语通用了。从安土桃山时代到江户时代初期,酱油貌似卖到比米贵二三倍的高价。

江戸時代半ばには、醤油は庶民の食生活に深く溶け込み、煮物、焼き物、鍋物等さまざまな料理の味の基本をなすようになる。また、醤油汁を用いて、うどんや蕎麦が日常的に食べられるようにもなった。

江户时代中期,酱油融入到平民百姓的饮食生活中,构成了炖菜、烧烤、火锅类食物等各种料理味道的基本。另外,有了酱油汁,乌冬面、荞麦面成为了日常食品。

今日、醤油といえば、野田、銚子、佐原など関東地方で醸造が盛んである。上方など関西の醤油が溜まりや薄口醤油であったのに対し、関東の醤油は濃い口醤油といわれるもので、江戸時代中期以降に普及し、江戸風料理の発展に一役買った。

现在,在野田、銚子、佐原等关东地区,酿造酱油很盛行。上方等关西地区的酱油是大酱油和味道清淡的酱油,而与此相对,关东地区的酱油是重口味的酱油,在江户时代中期之后得到普及,推动了江户风料理的发展。

こうして歴史をたどってみると、味噌と醤油がいかに民族の味覚と深いかかわりを持っていたか、納得できよう。

这样追溯历史来看,就可以理解,味增和酱油与民族的味觉有着很深的羁绊。

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