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日中関係史においては、日本と中国にあった歴代の王朝と現在、「中華人民共和国」との関係の歴史を解説する。

中日关系史就是解说日本和中国的历代王朝,以及现在的中华人民共和国之间关系的历史。

先史 

日本列島は更新世末期から完新世初期にかけての氷河期の終了に伴う海水の浸入によってユーラシア大陸から切り離されるまでは同大陸とは地続きであったと考えられている。日本人の祖先にあたる人々の中には、アフリカから現在の中国大陸を経由して渡ってきた人々も含まれているものと見られている。

日本群岛本与大陆连在一起,直到第四纪更新世末期-全新世初期之间的冰川期结束,由于海水渗入,才逐渐与欧亚大陆隔海相望。日本人的祖先里,也包含了从非洲经由现在的中国大陆跋涉而来的人们。

古代

中国の文献に初めて倭国の記述が見られるようになるのは『漢書』における「地理志」の中である。紀元前1世紀ごろの倭は100国あまりの小国分立の状態であり、朝鮮半島にあった楽浪郡に使者を定期的に派遣して貢物献上していた。

中国历史文献中对倭国的记载,最早的史籍有《汉书·地理志》。公元前1世纪左右,倭国处于100多个小国分立的状态,定期向位于朝鲜半岛的乐浪郡朝贡。

また『後漢書』における「東夷伝」は、1 - 2世紀ごろの倭の様子を記している。57年に奴国の使者が洛陽に赴いて後漢の初代皇帝である光武帝から印綬を授けられた。それが、江戸時代に志賀島から発見された「漢委奴國王」と刻まれた倭奴国王印だとされる。また、107年には倭の国王である帥升らが160人の奴隷を安帝に献上した。これらは、後漢と冊封関係にあった小国が、九州北部に存在したことを示している。

《后汉书·东夷传》中也曾记载1~2世纪左右的倭国的情形。公元57年奴国(倭)使者前往洛阳,东汉的开国皇帝光武赐以印绶。即江户时期在志贺岛发现的刻有“委奴国王”的倭奴国王印。公元107年,倭国王帅升等向安帝献上160个奴隶。这些都显示了九州北部存在与东汉有册封关系的小国。

(图:倭奴国王印)

『三国志』の中の「魏志倭人伝」によると、3世紀ごろの倭の様子は帯方郡の海の向こうに邪馬台国があって内紛状態にあった。しかし、卑弥呼が女王になると祭政一致で国をうまく治めた。239年には、卑弥呼が魏に朝貢して「親魏倭王」が刻まれた金印と銅鏡を授かった。卑弥呼が死んだ後、国は再び乱れたが13歳の壱与を女王にして平安を保った。

据《三国志·魏志·倭人传》记载,3世纪左右,倭国在带方郡隔海相对的邪马台国处于内乱状态。然而,卑弥呼被推为女王,实行政教一致,把国家治理地很好。239年,卑弥呼向魏朝贡,被授予刻有“亲魏倭王”的金印和铜镜。卑弥呼死后,国家重新陷入动乱,直到13岁的壹与当上女王才恢复平静。

(图:卑弥呼)

その後約150年にわたり中国の史書には倭に関する記述がない。4世紀ごろの日本は、大和政権による支配体制が確立した。5世紀に入ると、いわゆる倭の五王(讃·珍·済·興·武)の遣使が行なわれ、各々が南朝の宋に朝貢していたことが『宋書』倭国伝に記してある。6世紀になると、百済から五経博士が渡来して儒教が伝わる。仏教もこの頃に伝わり、崇仏の是非を巡って蘇我氏と物部氏の武力闘争に発展する。589年に北周を継承した隋が魏晋南北朝時代を終わらせると、朝鮮半島経由の間接受容から中華文化の直接受容を画策するようになる。

之后约150年间,中国的史书中都没有关于倭国的记载。4世纪左右,日本由大和政权确立统治体制。进入5世纪,传说中的倭国五王(讚、珍、濟、興、武)先后遣使朝贡南朝宋,其在《宋书》倭国传中有记载。6世纪后,来自百济的五经博士传入儒教。这一时期也传入了佛教,围绕是否崇佛,苏我氏与物部氏升级武力斗争。589年,取代北周的隋一结束魏晋南北朝时代,便开始策划将日本由经由朝鲜半岛的间接接受,变为中华文化的直接接受。

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