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一)私は正しい日本語なんてないような気がします。もし、あるとすれば日本語検定試験で正解になるものが、正しい日本語に一番近いような気がします。学校文法は、小中学校の授業で○×をつける基準になるものであって、私たちが日常使っている日本語とは別物のように思います。

一)我总觉得,这世上不存在什么正确的日语。如果有的话,日语检定考试中出现的正确答案应该算是最接近的吧。学校里的语法是中小学授课时判定对错的标准,和我们平常用的日语是两回事儿。

二)大学で国語学を専攻していて、形容詞の語史を卒論のテーマにしました。久しく国語学とは無縁の生活をしていましたが、 先日、樹さんのHPをみつけて「正しい日本語」ってなんだろうと考えたのですが、みんなが真似する日本語ではないかと思いました。

二)我在大学专攻国语学,毕业论文写的是形容词的语源。后来在生活中很久都没碰国语学了,前几日看到了树先生的主页,思考了下正确日语的定义,我想,大家纷纷效仿的日语应该是正确的日语吧。

昔は有名な歌人や作品の言葉遣いが模範となっていて、歌や文章を作る人はその言葉遣いを真似て創作をしていたんですよね。自分の仕事の場面で考えても(私は通販会社で電話のオペレータなどをしているのですが)分かりやすくていい印象の言い回しが耳にはいれば、次からは同じ場面ではその言葉を使うようにします。

过去,有名的和歌诗人及作品的遣词用语在人们眼中是一种榜样,作文章作诗的人在创作时会对其进行模仿,对吧。仔细想想在自己的工作中也是如此(我在邮购公司做话务员),一旦听到那些易懂且给人留下良好印象的表述,就会在以后同样的场合中用起来。

逆に尊敬語や謙譲語でいうと間違ってない言い方でも 「私正しい言葉遣いしてるのよ。文句ある!?」って感じの印象を受ける言い方はしないようにします。「ら抜き言葉」や「させていただきます」にしても、人が言っているのを聞くとおかしいと思っていてもいざその状況になると自分も言ってしまいます。理由はなにせよ、みんなが真似して言ってしまう言葉がコミュニケーションの中で理にかなっている言葉なのではないかと思います。

注:させていただく--もともとは、自分の行為を相手に許可してもらい、それによって相手に対してへりくだった気持ちを表すことばだが、最近では「先生のご著書を読ませていただきました」といった言い方が増えている。作家の著書を購入して読むのも自分の意思であって、作家から贈呈されて読んだのでなければ、本来の用法からすると誤りである。実際には受けていない許可や恩恵を受けているかのように見立てて、相手を敬っていることを示す丁寧表現のつもりで使っているようだ。

反之,在说敬语及谦逊语的时候,我也会注意不给人留下这样的印象——“我没说错什么话啊,有什么问题么?”。还有“ら抜き言葉(动词变型后省略了ら,查看具体意思>>>)”及“させていただきます(请允许我……)”,虽然听别人说时会觉得很怪,但是一旦到了那种情况下,自己也会不自觉的使用。不管是什么原因,我觉得,人们不经意间就会去模仿的词句应该就是交流中使用起来比较合理的词句吧。

私も学生の時は「正しい日本語=今時の言葉でない日本語」などと漠然と思っていました。でも大学で国語学を勉強して、そんなことを言ってたら古代中国語が正しい日本語になってしまうと思いました。結局、樹さんがいつもHPにかいてらっしゃるように、「多くの人と共通理解が得られること」「多くの人に不愉快な感情を与えないこと」 だと私も思います。

在学生时代,我也总觉得“正确的日语=非当下常用语”。不过,后来在大学里学了国语学后发现,要是按照那样的想法来看,古代汉语就会变成正确的日语了。最后,我还是认为,正如树先生平时在主页上说的那样,正确的日语应该做到“能和众人达到共识”、“不会让众人感到不愉快”。

三)日本語の問題集のかっこのなかに適当な単語や助詞を入れる問題がありますが、初級の場合文法で説明できる問題ばかりだと思います。だから、その答えが正しい日本語だと言えます。でも、「に住む」が正解でも実際は「で住む」も使いますから、答えは一つではないときもあります。便宜上、文法で正しい日本語を定義している感じがします。

三)在日语问题集中会出现下面这样的问题,那就是在括号中添上合适的单词或者助词,如果是初级水平的话,那给出的问题都是能用语法来解释的。因此可以说,那些问题的答案属于正确的日语。但是,就算“に住む”是正确答案,实际生活中“で住む”也是能用的,有时候答案不只有一个。我觉得,为了方便起见,人们才用语法来定义正确的日语。

突き詰めて行くと、文法よりも感覚のほうが重要な気がします。正しいかどうかわからないけど、皆使ってるという感じです。文法上、正しくてもそれがあまり使われない表現なら、正しいとは言いきれないと思います。

深究起来,我总觉得比起“语法”,“感觉”这东西更重要。虽然不知道对不对,可大家都是这么用的。而那些语法上虽是对的、平时却不怎么被人们使用的表达,就不一定能算得上是正确的。

何が正しいか?と定義するよりも、どんな表現をよく使うかということの方が大事かなと思います。

个人认为,比起去定义什么才是正确的,想想什么表达是常用的才更重要吧。

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