明治初期を舞台に描かれた大ヒットアニメ『るろうに剣心』で主人公たちが食べているのが印象的だった「牛鍋」。実際、明治に普及した食べ物だったということをご存じだろうか。それどころか、日本人が「牛肉」を口にするようになったのが、明治だったという。今回はその歴史について紹介していく。

以明治初期为背景的大热动画《浪客剑心》中,主角团吃的正是大众印象中的「牛鍋(日式牛肉火锅)」。实际上,这道料理在明治时期就已普及,你可知道?不止如此,据说日本人吃“牛肉”的习惯也是在明治时期形成的。这次给大家介绍一下日本的这一历史。

■文明開化のシンボルとして一般にも普及した「牛鍋」

■作为文明开化的象征,广泛普及的“牛肉火锅”

健康のためには肉ではなくもっと魚を。健康志向が強い日本にも関わらず、この呼びかけだけは受けが悪く、日本人の魚消費量は増えるどころか微減を続け、それとは逆に肉の消費量が増え続けている。肉のなかでは、牛肉の独走状態が続く。

为了健康要少吃肉多吃鱼。然而,尽管是健康意识高的日本,对于这一呼吁的接受度也很差,日本人的鱼类消费量别说增长了,反而出现了持续下降的趋势,相反,肉类消费量却不断增长。在肉类食品中,牛肉的消费量一骑绝尘。

牛肉料理といえば、牛丼、焼き肉、ステーキ、すき焼きなどがお馴染みだが、事始めをテーマで話をするなら、着目すべきはすき焼きである。その歴史は幕末から明治時代初頭に始まる。

说到牛肉料理,牛肉盖饭、烤肉、牛排、日式牛肉火锅等都是人们所熟悉的,但要是以牛肉料理的开端为主题的话,应该着重聊聊日式牛肉火锅。它起源于幕末明初时期。

日本では仏教の受容が本格化した奈良時代の頃より、肉食文化が大幅に後退して、食うや食わずの戦国時代を経て江戸時代に入ると、雉や軍鶏、猪などを鍋料理として食べることはあったが、庶民からしてみれば、かなりの贅沢だった。

奈良时代,日本正式接纳佛教后,肉食文化出现大幅度退步,直到从饭都吃不饱的战国时代进入江户时代,才有人用野鸡、斗鸡、猪等作为火锅配菜食用,但这对于当时的普通百姓来说,是十分奢侈的事。

牛肉に至っては食べるという発想すら珍しく、比較的新しいところでは、天正18(1590)年の小田原の陣に際し、高山右近(たかやまうこん)が蒲生氏郷(がもううじさと)と細川忠興(ほそかわただおき)に振る舞ったことが見える。

甚至连提到牛肉时想到食用这一用途的人都很稀少,较新的例子可见天正18(1590)年小田原之战时期,高山右近招待蒲生氏乡和细川中兴的宴席中。

このときの肉はおそらく近江牛で、井伊家が当主を務める彦根藩では特産品開発の一環として牛肉の食用化、どうすれば抵抗なく、おいしく食べられるかの研究が重ねられ、貞享4(1687)年にはついに中国・明の医書『本草綱目(ほんぞうこうもく)』を参考に牛肉の味噌漬けが考案され、「反本丸(へんぽんがん)」と命名された。農作業や物資の運搬に欠かせない牛を食用にすることはやはり憚られたため、商品として売り出すのなら、薬として扱う必要があったのだろう。その後、「干牛肉」(いまでいうビーフジャーキーのようなもの)という干し肉の開発も行われるが、これまた薬扱いで、将軍家や大名クラスには重宝されたが、幕末に至る前の牛肉はいまだ庶民の口とは縁のない代物だった。

这个时期的牛肉大概率是近江牛,由井伊家族管辖时的彦根藩将牛肉可食用化作为特产开发的一环,反复研究怎样才能让牛肉变得让人无法抵抗,吃起来美味,终于在贞享4(1687)年参考中国明朝医书《本草纲目》制作出了味增腌牛肉,并取名“反本丸”。把农作业、物资搬运都必须用到的牛当作食物终究还是令人害怕,因此想要将其作为商品售出,包装成药品进行经营十分必要。此后,还开发了“干牛肉”(即现在的牛肉干),也是当药卖,受到了当时将军、大名级别人物的重视,直到幕末以前牛肉都是普通百姓无缘吃到的食品。

事態が動くのは欧米人が日本に滞在するようになってからである。彼らにすれば、牛肉のない食卓は寂しく、我慢できなくなったらその都度、牛を飼っている農家と交渉して一頭買い。屠殺、解体から何まで自分たちの手でやることで、欲望を満たしていた。

这一情况发生改变的契机是欧美人开始旅居日本。对于他们而言,没有牛肉的餐桌是不满足的,每次到了无法忍受的地步时,他们就会和养牛的农户联系并买一头回去。从屠宰分割到食物出锅的所有环节都亲自完成,以此满足口腹之欲。

需要があり、大きな商売になるというので、明治2(1869)年には外国人に直接、肉牛を卸す業者が現われるが、まだ鉄道がないから牛を歩かせていくしかなく、滋賀県から横浜まで17~18日を要したという。

有需求,就有足够的利益可图,明治2(1869)年,直接向外国人批发肉食牛的商家开始出现,但由于铁路还未建成只能用徒步赶牛的方式贩卖,据说从滋贺县到横滨需要花17到18天才能抵达。

明治12年には牛肉卸売小売業「米久(こめきゅう)」が東京で開業。1日に40頭の牛が捌かれるようになる。

明治12年,牛肉批发零售业“米久”在东京开业。1天可以卖40头牛。

明治15年には神戸港からの海運による牛の出荷が始まり、同23年の東海道本線の開通に伴い、鉄道による牛の出荷も開始される。

明治15年,借助神户港的海运,日本开始实现牛的海运出货,随着明治23年东海道本线的开通,又实现了牛的铁路出货。

この間に牛肉を食べる風習は日本人の間にも広まりだすが、金額はもとより、それよりも問題なのは臭みを消す調理法と味付けだった。多くの人間がさまざまなやり方を試みたが、結局、成功を収めたのは、現在でいう「すき焼き」で、東日本では「牛鍋」の名が一般的だった。

在此期间,食用牛肉的风俗在日本民间流传开来,但问题也随之而来,价格自不必说,更成问题的是消除臭味的烹饪方法和调味。经过人们的各种尝试,最终取得成功的是现在所谓的「すき焼き(日式牛肉火锅)」,在东日本,一般称为「牛鍋」。

現存する店のなかで、最古の牛鍋専門店は、明治16年に銀座で創業した「松喜屋(まつきや)」だろうか。

在现存店铺中,最古老的日式牛肉火锅店应该是明治16年在银座开业的“松喜屋”。

明治26年に横浜で創業した「じゃのめや」、同28年に同じく横浜で創業した「太田なわのれん」なども、「元祖牛鍋屋」と呼ぶに値しようが、これらに共通するのは遊郭や劇場などが並ぶ歓楽街かその近くに店を構えたこと。創業者たちは時代の流れを見る眼力一流なら、立地の選択も絶妙だった。

明治26年在横滨开业的“じゃのめや”和明治28年同样在横滨开业的“太田なわのれん”等都称得上是“牛肉火锅店的鼻祖”,它们之间的共同点在于都在花街或剧院林立的娱乐街或附近开店。创业者们不仅看时代潮流的眼力一流,选址也十分绝妙。

本内容为沪江日语原创翻译,严禁转载。

相关阅读推荐: