十三 所が猿は私のやり方がまだるかつたのでございませう。良秀はさもさももどかしさうに、二三度私の足のまはりを駈けまはつたと思ひますと、まるで咽（のど）を絞められたやうな声で啼きながら...

五 白い布をかかげて、家の中に一足ふみこんだ太郎は、意外な光景に驚かされた。―― 見ると、広くもない部屋（へや）の中には、廚（くりや）へ通う遣戸（やりど）が一枚、斜めに網代...

九 その時の弟子の恰好（かつかう）は、まるで酒甕を転がしたやうだとでも申しませうか。何しろ手も足も惨（むご）たらしく折り曲げられて居りますから、動くのは唯首ばかりでご...

三 猪熊（いのくま）のばばに別れた太郎は、時々扇で風を入れながら、日陰も選ばず、朱雀（すざく）の大路（おおじ）を北へ、進まない歩みをはこんだ。―― 日中の往来は、人通りもきわめ...

五 と申しますのは、良秀が、あの一人娘の小女房をまるで気違ひのやうに可愛がつてゐた事でございます。先刻申し上げました通り、娘も至つて気のやさしい、親思ひの女でございま...

一 「おばば、猪熊（いのくま）のおばば。」 朱雀綾小路（すざくあやのこうじ）の辻（つじ）で、じみな紺の水干（すいかん）に揉烏帽子（もみえぼし）をかけた、二十（はたち）ばかり...

一 堀川の大殿様（おほとのさま）のやうな方は、これまでは固（もと）より、後の世には恐らく二人とはいらつしやいますまい。噂に聞きますと、あの方の御誕生になる前には、大威...

中洲（なかず）の河岸（かし）にわたくしの旧友が病院を開いていたことは、既にその頃の『中央公論』に連載した雑筆中にこれを記述した。病院はその後（のち）箱崎川にかかっている土洲橋（どしゅうばし）の...

朝蚊帳の中で目が覺めた。尚半ば夢中であつたがおい／＼といふて人を起した。次の間に寝て居る妹と、座敷に寐て居る虚子とは同時に返事をして起きて來た。虚子は看護の爲にゆふべ泊つて呉れたのである。雨戸...

一 この追憶随筆は明治二十九年を起点とする四、五年に当るから、日清（にっしん）戦役が済んで遼東還附（りょうとうかんぷ）に関する問題が囂（かまびす）しく、また、東北三陸の大海嘯（だいかいしょ...