梶井 基次郎(かじい もとじろう)

(1901年2月17日~1932年3月24日)

代表作:『檸檬』(1925年)『城のある町にて』(1925年)『のんきな患者』(1932年)

生平:梶井基次郎生于明治年间的大阪市,是家里的二儿子,父亲宗太郎从事的是军需品运输工作,但沉迷女色与酒精,家里的情况一直不富裕,他童年时所接受的文学教育和文学修养的培育完全有赖于母亲。1919年,考入三高理科甲类的基次郎遇到了中谷孝雄等青年,开始对现代文学产生兴趣,沉迷于夏目漱石、谷崎润一郎等人的作品。1920年因病休学,初现肺结核的征兆。1923年,在缺考两次无法毕业后,梶井基次郎终于进入了东京帝国大学文学部英文科(当时若申请人数少则可免试入学)。1924年,与先于他进入帝大文学部的友人们策划创立文学刊物《青空》,并发表了处女作《柠檬》,但反响平平。1926年基次郎病情急剧加重,只能放弃学业,前往伊豆疗养,并与川端康成结识,参与了《伊豆的舞女》的校对工作。1931年作品《交尾》发表于《作品》杂志,受到了井伏鳟二的盛赞,称其为“如有神助的小说”,同年5月,第一部作品集《柠檬》正式出版。1932年他人生的最后一部作品《のんきな患者》在《中央公论》新年号上发表,3月因肺结核31岁英年早逝

作品节选:

檸檬

その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬(れもん)が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈(たけ)の詰まった紡錘形の恰好(かっこう)も。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛(ゆる)んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗(しつこ)かった憂鬱が、そんなものの一顆(いっか)で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。

私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。

変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑(ほほえ)ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。

私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉(こっぱ)みじんだろう」

评价:由于梶井基次郎本人从小身体羸弱,深受肺病困扰,因此对生与死的思考贯穿于他的作品之中,且描写细腻,充满诗意。平添次三郎称其作品为“病态的生的描写”,也因此他笔下的生显得格外纯净。横光利一认为他是日本作家中描写“静”的第一人。三岛由纪夫也评价其开拓了使描述当下纯粹感知的小说无限靠近诗歌的写作新方向。

由他为原型的《文豪野犬》同名角色的能力“柠檬炸弹”来自于其代表作《柠檬》,即作者在文中提到要将柠檬化为炸弹。

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