酒呑童子(しゅてんどうじ)は、丹波国の大江山、または山城国京都と丹波国の国境にある大枝に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。

酒吞童子是在丹波国的大江山,也有说法是在山城国京都和丹波国国境的大枝居住着的传说中的鬼之首领,也就是盗贼头目。

酒が好きだったことから、手下たちからこの名で呼ばれていた。文献によっては、酒顛童子、酒天童子、朱点童子などとも記されている。彼が本拠とした大江山では龍宮御殿のような邸宅に住み棲み、数多くの鬼共を部下にしていたという。

因为嗜酒如命,手下才给他起了这么个称号。据文献,酒吞童子又被记载为酒颠童子、酒天童子或是朱点童子。他居住在作为根据地的大江山中龙宫神殿一般的宅子中,与众多小鬼部下一同生活。

酒呑童子は、一説には越後国の蒲原郡中村で誕生したという。また伊吹山の麓でスサノオとの戦いに敗れた八岐大蛇が出雲国から近江へと落ち延び、そこで富豪の娘に産ませたのが酒呑童子だという伝承もある。その証拠に、父子ともども無類の酒好きであることが挙げられる。

有说法称酒吞童子诞生于越后国的蒲原郡中村。另外也有说法称是伊吹山山麓与须佐之男战斗的八歧大蛇战败后逃亡至出云国的近江附近,在那里和一家富豪的姑娘生下了酒吞童子。而这一说法的证据在于父子二人都嗜酒如命。

一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った、安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼の酒呑童子の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。

一条天皇时代,京城的年轻人和公主们相继离奇失踪,经过安倍晴明的占卜,他认为是大江山的酒吞童子干的好事。于是皇帝在长德元年(995年)派源赖光和藤原保昌一行人前去讨伐。

頼光らは旅の者を装って鬼の居城を訪ね、酒を酌み交わして話を聞いたところ、最澄が延暦寺を建て以来というもの鬼共の行き場がなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたという。頼光らは鬼に毒酒を飲ませて泥酔させると、寝込みを襲って鬼共を成敗、酒呑童子の首級を京に持ち帰って凱旋した。首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院に納められた。

源赖光一行人伪装成旅者探访了鬼之居城,在喝酒交谈时得知,最澄在建立严历寺后鬼怪失去了栖身之所,于是在嘉祥2年(849年)迁移至大江山居住。赖光让鬼怪喝下毒酒使他们醉得不醒人事,之后趁机袭击,将酒吞童子的首级带回京城,凯旋而归。首级在被皇帝过目后纳至宇治的平等院内。

酒呑童子の配下

酒吞童子的部下

酒呑童子の配下は副首領の茨木童子、そして四天王として熊童子、虎熊童子、星熊童子、金熊童子の四人の鬼が在り、いくしま童子という名前も伝承上には存在する。

酒吞童子的部下有副首领茨木童子,四天王熊童子、虎熊童子、星熊童子和金熊童子四鬼陪伴左右,在名字传承上也有いくしま童子这一说法存在。

茨木童子との関係

与茨木童子的关系

酒呑童子とともに京都を荒らした大鬼、茨木童子だが、実は彼らの関係も様々な諸説がある。その諸説の中に、実は茨木童子は“男の鬼ではなく、女の鬼だった”という説があり、または酒呑童子の息子、はては彼の恋人だったという説も伝わっている。そして、しばらくしてから酒呑童子と茨木童子は互いの存在を知り、共に都を目指すようになったといわれている。

虽然茨木童子是和酒吞童子一同破坏了京都,但实际上人们对他们的关系众说纷纭。在诸多说法中,有说实际上茨木童子“不是男性鬼怪,而是女性鬼怪”的,也有说茨木童子是酒吞童子的儿子、还有说是他的恋人的。总之,酒吞童子和茨木童子一定是有一段时间内互相知道对方的存在,并且都对都城虎视眈眈的。

妖怪としての酒呑童子

作为妖怪的酒吞童子

京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。あまりにも悪行を働くので帝の命により摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)により討伐隊が結成され、長徳元年(995年)に討伐に向かった。

来到京都的酒吞童子,有着一茨木童子为首的众多鬼怪追随,他们以大江山为据点,时不时的出现在京都,诱拐年轻贵族的公主们并叫她们在身边服侍自己,用刀子生切活吃她们。由于恶行过多,皇帝下令要求以摄津源氏的源赖光和嵯峨源氏的渡边网为首的赖光四天王(渡边网、坂田公时、碓井贞光、卜部季武)结成讨伐队,于长德元年(955年)前往酒吞童子处讨伐。

姫君の血の酒や人肉をともに食べ安心させたのち、頼光が「神便鬼毒酒」という毒酒を酒盛りの最中に酒呑童子に飲ませ、体が動かなくなったところを押さえて、寝首を掻き成敗した。

在酒吞童子一行人喝过公主的血制成的酒和人肉后十分安逸的时候,赖光将名为“神便鬼毒酒”的毒酒在宴会上呈给酒吞童子饮用,趁着他中毒无法动弹的时候将其压制,斩下首级成功讨伐。

頼光たちは討ち取った首を京へ持ち帰ったが、老ノ坂で道端の地蔵尊に「不浄なものを京に持ち込むな」と忠告され、それきり首はその場から動かなくなってしまったため、一同はその地に首を埋葬した。また一説では童子は死に際に今までの罪を悔い、死後は首から上に病気を持つ人々を助けることを望んだため、大明神として祀られたともいう。これが現在でも老ノ坂峠にある首塚大明神で、伝承の通り首から上の病気に霊験あらたかといわれている。大江山(京都府福知山市大江町)の山中に埋めたとも伝えられ、大江山にある鬼岳稲荷山神社の由来となっている。

赖光在讨伐成功带着酒吞童子的首级返京途中,于老坂的路上遇到了地藏尊,他想源赖光提出忠告“不要将这种不净之物带入京城”,之后为了让他的首级永远封印在这里无法动弹,就将它埋葬在了当地。但也有说法称童子在临死之前对自己做过的事情全部悔过,死后希望能为头部生病的人们提供帮助,因此作为大明神祭祀。这在现在的老坂山顶也有首塚大明神,也如传说中一般,这里对消除头部的病状十分灵验。另外也有传言说首级埋葬在大江山(京都府福知市大江体町),而这也是大江山的鬼岳稻荷山神社的由来。

また京都府の成相寺には、この神便鬼毒酒に用いたという酒徳利と杯が所蔵されている。

另外,在京都府的成相寺中,也收藏着向酒吞童子呈上神便鬼毒酒的酒壶和酒杯。

酒呑童子という名が出る最古のものは重要文化財となっている「大江山酒天童子絵巻」(逸翁美術館蔵)で、南北朝時代後期もしくは室町時代初期に造られたといわれている。この内容は上記の酒呑童子のイメージとはかなり異なっている。まず綴りが酒「天」童子であり、童子は一種の土着の有力者・鬼神のように描かれていることがうかがえる。また童子は「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出され大江山にやってきた」とも述べている。酒で動きを封じられ、ある意味だまし討ちをしてきた頼光らに対して童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。

酒吞童子这个名字最早出现在《大江山酒天童子绘卷》(逸翁美术馆收藏)这一重要文化财产中,它被认为创作于南北朝时代后期或是室町时代初期。这里的内容和上面描述的酒吞童子的印象有很多不同之处。首先,这里将他称作酒“天”童子,他将童子描述成一种原始的权势者和鬼神。另外,作品中说童子“代代统领着比睿山,但后来被传教大师赶出来才来到大江山”。之后就用酒来封锁他的行动,在某种意义上童子曾对前来讨伐的赖光臭骂“鬼怪从来不蛮横霸道”。

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