花火師とは

花火師

花火师

花火師とは花火の製造や打ち上げ、そして花火大会の準備・運営までを仕事とする職人です。冬場(ふゆば、冬の間)に花火作りといった地道な作業を行い、夏場の華やかな花火大会へ向けて準備をします。夏の夜空を鮮やかに彩る花火大会の裏方を務める職人さんです。

花火师,指的是从事花火制造、发射,以及花火大会的准备乃至运营工作的人。冬季期间默默无闻地进行花火制作的工作,为夏季绚丽的花火大会做准备。(花火师)是以使夏季夜空绚丽多彩的花火大会为专门职业的人。

(地道:じみち、手堅く着実に物事を進めること。地味で,まじめなさま)

(地道:念作じみち、手法坚实一步一步推进事务。不起眼的、认真的人)

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体で覚える仕事

体で覚える仕事

一种需要终身领悟的职业

花火師の仕事は主に3つに分けられます。まず花火を作り打上げる仕事、そして花火大会の為の準備・片付け作業です。なかでも花火の製造作業をするには、火薬類取締法に定める保安管理技術の免許を取得する必要があります。

花火师的工作内容,大体分为3种类型。首先是制作、发射花火的工作,然后是为了花火大会做准备的工作,和负责善后的工作。在这之中,从事花火制造作业,还需要取得根据 火药类取缔法 规定的保安管理技术证书。

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「玉貼り」と「星かけ」

「玉貼り」と「星かけ」

“玉贴”和“加星”

免許を取得しても「玉貼り(※1)3年、星かけ(※)5年」と言われるように、花火師の一人前になるためには長い年月を要します。日本の花火技術は世界的にも非常に優れており、色とりどりで、どこから見ても真丸い球状に見える花火は日本独特のものです。

即使取得了证书,花火师能够独当一面也需要长年累月的积累,正如“玉贴3年,加星5年”这句话所说的一样。日本的花火技术放之世界也是出类拔萃的。各种各样的都有,全国各地都采用的球状花火也是日本独有的。

(いろ‐とりどり【色取り取り】種類がいろいろであること)

(いろ‐とりどり【色取り取り】种类多种多样)

これも花火師達の長年の努力と工夫を重ねた結果です。また花火作りには設計図もなく、試し打ちもほとんど行わないので、最終的には職人の経験と勘がものをいう「体で覚える仕事」です。

这也正是花火师们常年努力、磨炼功夫的结果。此外,花火创作并没有设计图纸,试发射也几乎不举行,最终成为专业花火师所需的经验与判断力,便是所谓“终身领悟”的内容。

(※1)玉貼り…花火作りの最後の工程で、星を均一に飛び散らせて真球形の花火を作るために重要な作業です。

(※2)星かけ…星(花火が開いた時に光を出す部分)を作る作業です。

(※1)玉贴:是花火制作的最后一道工序,是星状物能否均一分散开来形成正球形花火的关键作业。

(※2)加星:制作星状物(花火绽放时发光部分)的作业。

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鉄砲の伝来とともに

鉄砲の伝来とともに

伴随铁炮诞生

もともと花火は古代中国で発明され、戦争時の「のろし」として使われていました。「のろし」としての役割から鑑賞用の花火へと発展した経緯は、残念ながらはっきりしたことがわかっていません。

原本花火师古代中国的发明,在战争时,作为“狼烟”来使用。从(通风报信的)“狼烟”到观赏用的礼花,这一发展历史并未载入史册,让人遗憾。

日本の花火の歴史は1543年に種子島に鉄砲と火薬が伝来したことに始まります。1613年に花火名人のイギリス人が徳川家康の為に花火を披露したのが、日本での花火第一号であると言われています。当時の花火は、竹の節を抜いた筒に黒色火薬をつめて、その一端に点火し火の粉を吹き出させる、いわゆる「立火」と呼ばれるものでした。やがて花火は、将軍家や諸大名など身分の高い人々の間で広まり、隅田川では花火の打ち上げが年中行事になりました。これが現在も続いている隅田川の花火大会の始まりです。

日本花火的历史要从1543年,自种子岛(注:たねがしま,鹿儿岛县内的狭长岛屿)传来的铁炮和火药开始算起。1613年,擅长花火的英国人为德川家康表演了花火,被称为日本历史上的第一盏花火。当时的花火,是在抽空竹节的竹筒里填满黑色火药,并在另一端点火,吹出火焰燃烧时的粉末,这就是所谓的“立火”了。此举终于使得花火在将军、各大名等显贵阶层中流传开来,而在隅田川的花火表演也变成了每年的传统节目。这就是一直持续的今天的隅田川花火大会的缘来了。

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屋形船から花火を見て

当初の納涼花火は、水上に浮かぶ屋形船から花火を見て楽しむスタイルだったため、花火を売る船が多数の屋形船の間を漕ぎまわり、客の注文に応じて花火を上げるというものだったようです。この頃の花火も現在に比べると簡素なもので、赤色の火の玉が上空へ尾を引いて上がる程度のものだったようです。その後花火は、江戸町民に広がると共に、花火師や花火売りが登場するようになり、徐々に大規模なものへと改良されていきました。

当时所谓的纳凉花火,用的是从水上舫船观看花火的形式,贩卖花火的船在众多舫船中穿行,有人出钱买,就应人要求放出花火。那时候的花火比起现代要更加简单,也就是红色火球在天空上划上尾巴的程度。在那之后,花火走入江户百姓的生活,花火师、花火生意也出现了,渐渐演变为大型花火会。

しかし花火の流行とともに花火による火災がたびたび発生し、何度か江戸幕府は花火を町中で上げることを禁止するお触れを出しています。明治に入り、花火の技術にも次々と新しい化学薬品が導入されるようになり、現在のような色とりどりに光る花火が開発されるようになりました。中でも打上花火は、色光の配置や変化など、日本で独特の発達をとげ日本の花火は「世界一の花火」と呼ぶにふさわしいものへと成長しました。

但是,花火流行的同时也引发了频繁的火灾,这也多次触犯了江户幕府关于不允许花火在民间使用的禁令。进入明治时代,花火技术中也渐渐引入了新型化学药品,最终开发了像现在这样多姿多彩绽放光芒的花火。在这之中的打上花火(注:日本花火按照构造、用途,可分为三种类型。打上花火、仕掛花火、玩具花火),凭借对色、光的配置、变化,在日本尤其发达,与日本花火的“世界第一花火”相称,逐渐成长起来。

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江戸中の評判になった「玉屋・鍵屋」

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江湖时期满获赞誉的“玉屋丶键屋”

花火といえば、「たまや~、かぎや~」という掛け声が有名です。これは江戸時代の「玉屋」と「鍵屋」という江戸の二大花火師に由来しています。現在でも夏の恒例行事となっている隅田川花火大会の原型である「両国の川開き」が1733年に行われました。

说到花火,就会想到有名的、“玉屋~,键屋~”这样的吆喝声。这是从江户时代“玉屋”、“键屋”两大花火师那里传下来的。在1733年,还举办了“两国川开”,并成为延续至今的夏季传统“隅田川花火大会”(注:川,在日本是河流的意思。两国:りょうごく,当时的隅田川,是武藏、下总两国境的分界线。川開き:かわびらき,为夏季纳凉祈福,纪念水难者、并向水神献祭的一种祭祀活动。每年7月中旬至8月上旬,在日本各地河流之上举行)。

この時に花火師を勤めたのが6代目「鍵屋弥兵衛」という花火師でした。この時の花火が江戸中で大評判となり鍵屋の名前が広まりました。その後、鍵屋の7代目清七という花火師が鍵屋から分家して「玉屋」という花火業者を始めました。

当时担任花火师的是6代目的 “键屋弥兵卫”花火师。在当时的江户百姓中,键屋的花火广为人知、满获赞誉。在这之后,键屋的7代目花火师——清七,从键屋分家开办“玉屋”,开始做起了花火行当。

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この時代の浮世絵の題材にもなる

以後、両国の川開きは、上流に玉屋、下流に鍵屋がそれぞれ舟を出し、2大花火師が技を競い合い、民衆が「たまや~、かぎや~」という掛け声を掛け合いながら、花火を鑑賞していました。

在这之后的“两国川开”,上流玉屋,下流键屋,各自出舟,两大花火师争相竞技,“玉屋~、键屋~”百姓发出此起彼伏的吆喝声(注:老东京的百姓们呼喊、比试双方的烟花铺名字,为其呐喊助威),共赏花火。

玉屋の人気は鍵屋を凌ぐもので、この時代の浮世絵の題材にもなるほどでしたが、1843年に大火事をおこしてしまい、江戸を追放されてしまいました。この為、玉屋は1代限りで断絶してしまいました。その後は鍵屋だけで両国川開きの花火を支えていきました。

玉屋的人气后来居上,超过了键屋,这事甚至被画入当时的浮世绘,但受1843年的大型火灾影响,被赶出了江户地区。因此,玉屋仅经1代便断绝了。在这之后,仅存键屋独力支撑两国川开。

しかし、現在まで「たまや~、かぎや~」という掛け声が当時の名残として受け継がれています。

不过,现如今“玉屋~、键屋~”的吆喝声却作为当时传统,被继承了下来。

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