森 鷗外(もり おうがい)

1862年2月17日 - 1922年7月9日

代表作:『舞姫』『雁』『即興詩人』『阿部一族』『山椒大夫』『高瀬舟』『渋江抽斎』『於母影』

生平:森鸥外本名森林太郎,是日本明治·大正时代的小说家、评论家、翻译家、军医,与夏目漱石齐名的大文豪。东京大学医学部毕业后成为军医,1884年赴德国留学研究卫生学,回国后继续从事军医工作并发表小说、评论、翻译作品等。晚年担任帝室博物馆馆长、日本艺术院首任院长等职。60岁时因病逝世。遗言中拒绝一切荣誉「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」,因此墓碑上只刻有「森林太郎ノ墓 」。

作品节选:

(集英社版《舞姬》,封面由漫画家河下水希绘制)

舞姫

余は模糊(もこ)たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽(たちま)ちこの欧羅巴(ヨオロツパ)の新大都の中央に立てり。何等(なんら)の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色沢ぞ、我心を迷はさむとするは。菩提樹下と訳するときは、幽静なる境(さかひ)なるべく思はるれど、この大道髪(かみ)の如きウンテル、デン、リンデンに来て両辺なる石だゝみの人道を行く隊々の士女を見よ。

即興詩人

日の入り果てし頃、われは獨り山上なる寺院の一房に坐して、窓より海を眺め居たり。波頭の殘紅は薔薇色をなして、岸打つ潮に自然の節奏を聞く。舟人は漁舟す(などりぶね)を陸(くが)に曳き上げたり。暮色漸く至れば、新に點(とも)したる燈火その光を増して、水面(みのも)は碧色にかゞやけり。一時四隣は寂として聲なかりき。忽ち歌曲の聲の岸より起るあり。

僕は人附合いの余り好くない性(たち)であったから、学校の構内で好く逢う人にでも、用事がなくては話をしない。同じ下宿屋にいる学生なんぞには、帽を脱いで礼をするようなことも少かった。それが岡田と少し心安くなったのは、古本屋が媒(なかだち)をしたのである。僕の散歩に歩く道筋は、岡田のように極まってはいなかったが、脚が達者で縦横に本郷から下谷、神田を掛けて歩いて、古本屋があれば足を止めて見る。そう云う時に、度々岡田と店先で落ち合う。

「好く古本屋で出くわすじゃないか」と云うような事を、どっちからか言い出したのが、親しげに物を言った始である。

高瀬舟

高瀬舟(たかせぶね)は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞(いとまご)いをすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ回されることであった。それを護送するのは、京都町奉行の配下にいる同心(どうしん)で、この同心は罪人の親類の中で、おも立った一人を大阪まで同船させることを許す慣例であった。これは上(かみ)へ通った事ではないが、いわゆる大目に見るのであった、黙許であった。

解说:

《舞姬》是森鸥外以留学德国的实际经历为原型写成的小说。讲述了日本留学生太田风太郎在德国留学时和一位舞女相遇相爱,但为仕途而抛弃恋人回国的故事。传闻森鸥外德国留学时的恋人在他回国后远渡重洋追到了日本,但遇到鸥外家人的反对,一个月后返回了德国。

《即兴诗人》是丹麦童话作家安徒生的长篇小说,森鸥外用10年时间将这部小说的德语版翻译成日语并出版。翻译使用了高雅的拟古文调,被评为“超越原作的翻译”。

晚年的森鸥外受到乃木希典殉死的影响开始写历史小说,从还原历史的《阿部一族》、改编历史题材的《山椒大夫》《高濑舟》到史传《涉江抽斋》,寄托对近代问题的反思和自身理想像的追求。

题外话:

森鸥外给子女取名时考虑到日本名字的外语发音,长子名为於菟(おと)、长女茉莉(まり)、次女杏奴(あんぬ)、三男類(るい),在当时都被认为是很奇特的日文名。另外长女森茉莉的『恋人たちの森』被称为日本的BL耽美小说始祖。

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