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和事の成
 

元禄年間[1688年~1704年]前後の上方[京・大坂]では、後に「和事(わごと)」とよばれるようになる柔らかく優美な演技を得意とした、初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)が活躍しました。藤十郎は、1678年[延宝6年]に上演されて大評判となった『夕霧名残の正月(ゆうぎりなごりのしょうがつ)』の伊左衛門(いざえもん)役をはじめとして、本来は身分が高いにもかかわらず、理由があって落ちぶれている「やつし」とよばれる設定の役を演じて人気を得ました。人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)の作者として有名な近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、藤十郎のために『けいせい仏の原(けいせいほとけのはら)』をはじめとする多くの歌舞伎作品を書き、藤十郎の人気を支えました。

和事的成立

元禄年间(1688年-1704年)前后,初代坂田藤十郎在上方地区(京都、大阪)红极一方,他擅长的是一种柔和、优美的表演,后来被称作“和事”。1678年(延宝6年),藤十郎扮演的《夕雾名残正月》中的伊左卫门受到广泛好评,从此“俏形”这种角色设定就流行起来了。“俏形”即原本出身高贵,却因为某些原因而穷途潦倒的一类角色。著名的人形净琉璃剧本家近松门左卫门为藤十郎创作了《倾城佛原》等众多歌舞伎作品,给藤十郎增添了不少人气。

また同時期に活躍した女方の初代芳沢あやめ(よしざわあやめ)は、女方の心得や演技論をまとめた芸談『あやめ草』を残し、女方芸の確立に大きな役割を果たしました。

此外,活跃于同时代的“女方(女性角色扮演者)”初代芳泽菖蒲著有艺术理论书《菖蒲草》,当中对自己表演女角的经验及理论作了总结,为“女方”表演的确定做了巨大贡献。

義太夫狂言の流行

近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)が、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)の作者に復帰して以降、歌舞伎では優れた作者は登場しませんでした。そのような背景もあり、1715年[正徳5年]、近松作の人形浄瑠璃『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』が大評判になると、翌年には歌舞伎に移して上演されました。この『国性爺合戦』の上演以降、人形浄瑠璃の人気作を歌舞伎の舞台で上演することが、盛んに行われるようになります。このようにして上演された作品を「義太夫狂言(ぎだゆうきょうげん)」とよびます。

义太夫狂言的流行

在近松门左卫门重新成为人形净琉璃的剧本家后,歌舞伎界就没有再出现过优秀的剧本家了。由于这样一个背景,1715年(正德5年),近松的人形净琉璃戏剧《国姓爷合战》大受欢迎,次年就被搬上了歌舞伎的舞台。在《国姓爷合战》上演以后,人形净琉璃的人气作品被搬上歌舞伎舞台演出的风气蔚然成风。就这样,这类作品就被称作了“义太夫狂言”。

享保から宝暦年間にかけて[1716年~1764年]人形浄瑠璃は全盛期を迎え、この時期に上演された人気作は次々と歌舞伎化されていきます。なかでも『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』・『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』・『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』は再演を繰り返し、「義太夫狂言」の3大名作と称されるほどになりました。これらの「義太夫狂言」は、現在の歌舞伎のレパートリーにおいても、大きな割合を占めています。

在享保到宝历年间(1716年-1764年),人形净琉璃迎来了全盛期。该时期上演的人气作品不断被改编成歌舞伎。其中就有《菅原传授手习鉴》、《义经千本樱》、《假名手本忠臣蔵》被称为“义太夫狂言”的三大名作,一次次地反复上演。这些“义太夫狂言”在现在的歌舞伎剧目中也占有很大比例。

しかし、反対に歌舞伎が人形浄瑠璃に影響を与えるケースもありました。例えば初代澤村宗十郎(さわむらそうじゅうろう)が演じた『大矢数四十七本(おおやかずしじゅうしちほん)』の大岸宮内(おおぎしくない)役は、『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)役に影響を与えたとされています。このように歌舞伎と人形浄瑠璃は、相互に影響を与えながら発展していきます。

不过,在另一方面,歌舞伎也给人形净琉璃产生过一些影响。比如由初代泽村宗十郎扮演的《大矢数四十七本》中的大岸宫内,就给《假名手本忠臣藏》中的大星由良之助这个角色不少影响。可见,歌舞伎与人形净琉璃是在相互影响交流中发展起来的。

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