海苔は今でも贈答品として好まれるし、その味も素晴らしい。日本人が海苔を食べるという習慣は、いつ頃からだったろうかと調べてみたら、あまりにも古くて特定できないことが分かった。奈良時代の書物(『常陸国風土記』)にはすでに海苔という言葉が登場している。もともと海産物のひとつとして、海辺の人々は食べていたことを想像すると、太古の昔から日本人は海苔(名称はともかく)を食べていたのではないだろうか。面白いのは、朝廷への献上品として海苔があったことだ(大宝律令701年)。

在今天,海苔作为赠礼依旧为人们所喜爱,其味道也爽口鲜美。日本人是从什么开始食用海苔的呢?调查了一番知道,海苔其实很早就开始被食用了,因而具体时间无法断定。奈良时代的地理志《常陆国风土记》中就已经有了关于海苔的记载。若假设它原本作为一种海产品为海边的居民们食用的话,那么或许早在太古时代,日本人就已经在食用海苔了吧。有趣的是,在大宝律令颁布的701年,地方给朝廷的贡品中也有海苔的出现。

《江户名所图绘》,右侧是晒干海苔的作业,左侧的招牌上写着“名物御膳海苔制所”

現在ある海苔の基礎は江戸時代にでき上がった。それは養殖技術が発見され、製法が発展したからである。それまでは自然発生した海苔を採取し単純に乾燥する程度のものだったから、量的にも少なく高価な食べ物だったはずだ。江戸中期以降になると生産量も格段に上がり、現在のような板海苔も登場し、庶民の口に入るようになった。具を入れたごはんを海苔巻きにして食べていたと思われる。

我们现在所见海苔的基础是江户时代发展而来的。这还是由于当时养殖技术的发明,制作方法有了很大发展的关系。在江户以前,人们采集的是自然生长成的海苔,加工也不过是让其脱水的简单程度,因此海苔的产量少,自然也就是昂贵的食物了。到了江户中期以后,海苔生产量有了大幅度提高,还诞生了我们见到现在的板海苔,因而逐渐成了平民也能消费的食品。当时人将米饭放到模具里压成一定形状,制成海苔卷后食用。

浅草と浅草海苔の関係を探ってみたい。浅草観音の縁起を紹介しよう。隅田川で漁師のに観音像がかかり(628年)、これをご本尊としてお堂を建て安置したのが浅草観音の始まりだが、あるとき『海苔を食すれば無病開運、海苔は法(のり)なり』というお告げがあった。以来人々は浅草海苔として、大切に扱い食べたという。

下面来说说浅草与浅草海苔的关系。首先介绍一下浅草观音的缘起。相传,628年,隅田川打渔的渔夫捞起了一尊观音像,于是建起了一个佛堂,将这尊观音像作为主佛安置其中,浅草观音就此诞生了。某一天,传出了观音的神启,称“食用海苔可无病开运,海苔便是法”。从此以后,人们将海苔称为浅草海苔,珍重着食用起来。

海苔が生育するには、いろいろな条件が揃わないと難しい。川が海に流れ込む場所で栄養分があり、遠浅の海で波が静かであること。それに潮の干満も関係しているという。そんな自然環境が隅田川にあったということだ。

养殖海苔需要各种条件俱全才行。河流汇入大海的地方有丰富营养,加之位于浅海区,波浪较为平静。此外,海苔的生长还与海潮的涨落有关系。这样的自然环境正好是隅田川所具备的。

ここでいう浅草の名称は、現在の浅草を含め広範囲の地域をさしている。上野大地の東方をイメージするくらいが正しいとらえ方だろう。当時は、埋め立て地も多く、浅草観音の近くまで海が入り込んでいたはずだ。

这里所说的“浅草”,指的是包括现在的浅草在内的广大地区。差不多相当于上野大地的东部地区,这样来看应该没问题。在当时,有许多地方是填海形成的,海水应该就是在浅草观音的附近流进来的吧。

時代が進むと、浅草海苔の産地は大森や品川に移っていった。大森は、海苔養殖の発祥の地だ。江戸後期に書かれた『江戸名所図会』には浅草海苔と題し、『大森品川の海に産せり…』と記されている。ここで採取した海苔を浅草などで販売した。江戸中期以降、大森品川は海苔養殖の生産拠点になったのである。

随着时代推移,浅草海苔的产地从大森移往了品川。大森是海苔养殖的发祥地。江户后期的《江户名所图绘》中,就以“浅草海苔”为题记载道,“(浅草海苔)产于大森品川之海”。此处采集的海苔被拿到了浅草贩卖。江户中期以后,大森品川已经成为海苔养殖的生产基地。

とにかく、江戸の名産品として浅草海苔は人気があった。理由は簡単。軽いこと、保存がきくこと、めずらしいこと、庶民が買えるくらいの値段だったこと。そしてもちろん、美味しかったことである。

总之,江户的名特产“浅草海苔”特别受人欢迎。理由很简单,轻巧易保存,看着新奇,并且平民也能买得起。当然,味道自然也很不赖。

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