里見義弘(1525~1578)

海賊衆を掌握、組織化|掌控海盗势力、组织海军力量

里見氏は清和源氏である新田氏の流れといわれている。新田義重の三男義俊が上野国(群馬県)碓氷うすい郡里見郷に住み、郷名を名字にしたという。その子孫が安房(千葉県)に移住し、安房里見氏となった。

里见氏源自清和源氏的新田氏一脉。新田义重的第三个儿子义俊在上野国(群马县)碓冰郡里见乡居住,所以把乡名作为了自己的名字。其子孙后来移居到了安房(千叶县),成为了(战国大名)安房里见氏。

戦国時代の里見氏は、稲村城(館山市)を本拠に、上総の一部まで勢力を拡大したが、一族内部の抗争がはげしく、ようやく、義堯よしたか・義弘父子のころ、安定的支配が行われている。

战国时期的里见氏以稻村城(馆山市)为根据地,将势力范围扩张到了上总的部分地区,但族内斗争一直很激烈,直到义尧·义弘父子的时候,统治才稳定下来。

義弘は、はじめ、義舜よしきよと名乗っていた。注目されるのは、父義堯の「堯」、子義舜の「舜」である。これは、古代中国理想の君主といわれるぎょうしゅんを意識した命名といわれ、義弘父子が、中国古代の名君を理想とする国づくりに乗りだしたことを物語っている。

义弘一开始自称为义舜。值得注意的是,父亲义尧的“尧”和儿子义舜的“舜”这两个字。这是有意取自中国古代理想君主的典型——尧和舜两人,这足以表明义弘父子是以中国古代的著名君主作为自己的理想来积极建造自己的领地国的。

義弘の施策として特筆されるのは、房総の海賊衆を掌握したことである。水軍を組織することに成功し、これによって江戸湾の制海権を握ることができた。領国規模からいって全く歯が立たないはずの相模の北条氏と敵対できた要因は、この水軍力であった。

关于义弘的施政策略中特别值得一提的是他控制了房总半岛的海盗势力。他成功组建海军,凭借军队力量掌握了江户湾(现东京湾)的制海权。里见义弘之所以能够与领地规模远大于自己的相模北条氏对抗制衡,主要原因就是这支海军力量。

また、義弘は、外交的手腕も持ちあわせており、北条氏と対抗するため、越後(新潟県)の上杉謙信と手を結んでいた。永禄4年(1561年)の謙信による小田原攻めのときには、家臣の正木時忠まさきときただに兵をつけて謙信の援軍として小田原まで行かせているほどであった。

而且,里见义弘拥有着厉害的外交手腕,为了和北条氏对抗,他与越后国的上杉谦信联手。永禄4年(1561年)上杉谦信攻打小田原城时,义弘还派家臣·正木时忠带兵亲自到小田原增援过。

なお、もう一つ、やや珍しい施策として注目されるのが落首奨励であった。必ずしも良質の史料ではないので、信憑性しんぴょうせいの点では問題があるが、『里見九代記』におもしろいエピソードが載っている。

此外,还有值得关注的是颇为少见的打油诗奖励政策。虽然不一定算是高质量的史料,存在可信度的问题,但还是作为一段有趣的佳话记载于《里见九代记》中。

それは、義弘が領内を巡見していたとき、〈福原の都人とは聞きつれど 年貢につけて信濃あしさよ〉という狂歌が書きつけられているのをみつけ、調査を命じたところ、役人の不正が明るみにでたという内容である。不正役人というのがここに名の出た福原信濃守で、「しなの」で「品の」に引っかけ、年貢徴収における代官の不正を狂歌であばいたことになる。品は田畑の等級のことをいい、実際は下田なのに上田として年貢を余計に取ろうとしたことなどをさしている。

里见义弘在领国内巡视的时候,他发现了写有“一听是福原的都人,来收的是信浓的租”的狂歌,命人前去调查,发现官员有不正的勾当。被查出来的官员是福原信浓守,在“信浓”查出了“信用”的问题,这就是通过将地方官收缴地租时的假公济私行径编为狂歌,将其暴露出来的事情。品级说的是耕地的质量等级,结果查出来,明明是下等田,却作为上等田来征收地租,多出来的部分就被官员中饱私囊了。

当時、目安箱などで領民からの訴えを奨励する動きもあるので、この話はありえるのではないかと考えている。

当时里见义弘有采取设民众意见箱之类的举措来鼓励民众进行投诉,所以说不定这个故事确实发生过。

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