大内義興(1477~1528)

勘合貿易独占で経済力|垄断堪合贸易、累积经济资本

大内氏は、最後の当主となる義隆のとき、家臣筆頭で周防守護代だった陶晴賢すえはるかた下剋上げこくじょうによって滅ぼされているため、どうしても軟弱大名といったイメージがつきまとっている。しかし、義隆の父義興よしおきの代は、中国地方から北九州にかけての広範な地域を支配し、当時を代表する戦国武将の一人であった。

大内家族到了最后的主公大内义隆的时候,因为作为首席家臣、周防国守护代的陶晴贤以下克上,导致大内家的消亡,所以大内义隆一直给人软弱大名的印象。但是义隆的父亲义兴,则统治了从中国到北九州广阔的地域,是当时很具代表性的战国武将之一。

その大内氏が強大な力をもつようになった原点は、義興の祖父にあたる教弘が嘉吉元年(1441年)に筑前国の守護となり、博多を掌握したことである。その博多を拠点に日明貿易および日朝貿易に乗り出している。

大内家族开始变得强大是在义兴的祖父教弘的时候,嘉吉元年,教弘成为了筑前国的守护,控制了博多一带。以博多为根据地,大内家积极开展与明朝、朝鲜的贸易往来。

当時の貿易形態は勘合貿易といって、勘合符を持つ船だけが貿易できた。初めのうちは、大内氏も幕府の勘合貿易船団に加えてもらう形であったが、やがて、幕府の力が弱体化する中で、義興の頃には、大内氏が独占するようになっていたのである。

当时的贸易形式被称为勘合贸易,只有持堪合符(明朝政府颁发的贸易许可证)的船只才能进行贸易。最初,大内氏和幕府的堪合贸易船只团参与了对外贸易,不久,幕府的力量不断变弱,到了大内义兴的时候,大内氏已经形成独家垄断。

義興は刀剣や扇などを輸出し、銅銭・絹織物・陶磁器などを輸入していた。特に銅銭は、その頃の日本では貨幣の鋳造は行われていなかったこともあり、莫大ばくだいな収入となった。

大内义兴出口了刀剑、扇子等产品,进口了铜钱、丝绸、陶瓷等产品,因为当时的日本没有进行货币的铸造,所以大内氏获得了相当庞大的收入。

さらに、そのためのインフラ整備を行っていた。博多湾の港湾整備で、これは設備投資といってよい。それだけではなく、博多を直轄地とし、そこに代官と代官を置き、博多商人たちから、利潤の上前はねる抽分銭ちゅうぶんせん」を制度化していたことが知られている。さらに、臨時に上納金を賦課することもあり、これも相当な額になった。

因此,他们进行了基础设施的修建。博多湾的港口修建就可以称之为设备投资。不仅如此,众所周知的是,大内氏将博多作为直辖地,设置代官和下代官,从博多商人那里收取利润提成“抽分钱”,并将其制度化。此外,还有临时征收的上缴钱款,这部分收入也是相当可观。

義興はまた、広大な領国を効率よく支配するため、守護代を上手に使った点も注目される。陶氏を周防守護代、内藤氏を長門守護代、杉氏を豊前守護代、弘中氏を安芸守護代といったように、責任分担を明確にしているのである。それぞれの守護代の下に、それぞれの国の国衆、すなわち国人領主が属す仕組みとなっていた。

值得注意的是,大内义兴为了更有效地控制广大的领地,非常擅于任用守护代。将陶氏任命为周防国守护代、内藤氏为长门守护代、杉氏为丰前守护代、弘中氏为安芸守护代,像这样明确地分配了各家族的职责。在各守护代的治理下,就是各属国的民众们,也就是成了国人领主的从属结构。

大内氏全盛期には、部隊長にあたる侍大将および先手さきて衆クラスの部将が142名もいたという。武田氏は39名だった。それと比べても多い。そのころの戦国大名の軍事力としてはまさにトップクラスであるが、それは、日明貿易・日朝貿易によって得た経済力が背景にあったからである。

在大内氏的全盛时期,从部队长的侍大将到先锋阵营的部将共有142人。武田氏则有39人。与之相比事多了不少的。当时作为战国大名,大内氏能掌握如此顶级的军事力量,离不开他们从日明贸易、日朝贸易中累积的雄厚经济基础。

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