吉備真備は、聖武天皇の御世、橘諸兄政権下で“怪僧”玄●(日ヘンに方、読みはボウ)とともに重用された時期があり、玄昉と同じように失脚の憂き目に遭いながら復活。称徳天皇の御世、右大臣に昇進して左大臣の藤原永手とともに政治を執るという、地方豪族出身者としては破格の出世を成し遂げた有為な人物だ。学者から立身して大臣にまでなったのは、近世以前ではこの吉備真備と菅原道真のみだ。吉備真備の生没年は695(持統天皇9)~775年(宝亀6年)。

吉备真备曾在圣武天皇治世的橘诸兄政权下,与怪僧玄昉一起得到重用,也和玄昉一同失脚,不过以后再度复出。在称德天皇的治世,吉备真备升任右大臣,与左大臣藤原永手一起执掌政事,吉备是一个有才能的人,作为地方豪族出身者,他所实现的晋升可称得上是破例。在近世以前,从一介学者升至大臣的人,仅有吉备真备和菅原道真。吉备的生卒年是695年至775年。

吉備真備は備中国下道郡(後の岡山県吉備郡吉備町、現在の倉敷市真備町)出身で、父は右衛士少尉下道圀勝(しものみちのくにかつ)、母は楊貴(八木)氏(大和国=後の奈良県の豪族)。下道氏は吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族。

吉备的出生地是在备中国下道郡,父亲是右衛士少尉下道圀勝,母亲是楊貴(八木)氏。下道氏属于吉备地区的有力地方豪族吉备氏的一族。

吉備真備(当時の下道真備=しもつみちのまきび)は716年(霊亀2年)22歳のとき遣唐留学生となり、翌年入唐。以後18年間唐にあって、儒学、天文学、音楽、兵学などを学び、735年(天平7年)、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測量鉄尺)、楽器(銅律管、鉄如方響、写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)など多くの典籍を携えて帰国した。

716年(灵龟2年),22岁吉备的成为遣唐留学生,次年入唐。在此后的18年间,他在唐学习了儒学、天文学、音乐、兵学等学问,735年(天平7年)携带经书(《唐礼》130卷、天文历书(《大衍暦経》1巻、《大衍暦立成》12巻)、时钟(测量铁尺)、乐器(铜律管、铁如方响、写律管声12条)、乐书(乐书要录)10卷)等众多典籍回国。

帰朝後の真備は、聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、橘諸兄が政権を握ると同時期に遣唐留学生・留学僧として派遣され、同時期に帰国した僧・玄●(ボウ)とともに重用された。しかし、740年(天平12年)に大宰府で起こった藤原広嗣の反乱が如実に物語っているように、それが度を超えていたため人々の批判を買うことになった。それでも真備は741年に東宮学士として皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇、称徳天皇)に『漢書』や『礼記』を教授した。また、そうした功績から746年(天平18年)には吉備朝臣の姓を賜った。

归国后的吉备获得了圣武天皇和光明皇后的宠信,在橘诸兄掌握政权的时期再度作为遣唐留学生、留学僧被派遣入唐,和同时期回国的僧人玄昉一起受到了重用。然而,吉备的过度晋升遭到一些人的批判,740年(天平12年)太宰府发生藤原广嗣的叛乱无疑是一个如实的说明。尽管如此,吉备依旧在741年担任东宫学士,负责向皇太子阿倍内亲王(以后的孝谦天皇、称德天皇)教授《汉书》和《礼记》,因为这些功绩,746年(天平18年)被赐予吉备朝臣的姓氏。
 

ところが、孝謙天皇即位後の750年には同天皇を後ろ楯に、藤原仲麻呂が強大な権力を掌握。仲麻呂により、遂に真備は中央政界では失脚、筑前守、肥前守に左遷されてしまった。だが、決して真備はこれでは終わらなかった。751年に遣唐副使として再び入唐。そして753年には鑑真を伴って無事に帰国したのだ。

然而,750年孝谦天皇即位后,藤原仲麻吕凭借天皇的强大后盾掌握了朝中大权。由于仲麻吕的排挤,吉备最终在中央政界丧失了势力,被左迁为筑前守、肥前守。不过对吉备而言,这还并不是终结。751年,他作为遣唐副使再度入唐。753年和陪伴鉴真和尚一起顺利回国。

真備は754年(天平勝宝6年)には大宰少弐に昇任、759年(天平宝字3年)に大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。そして764年には(天平宝字8年)には造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こした際には従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して乱鎮圧に功を挙げた。称徳天皇の御世、弓削道鏡の下で中納言、大納言、そして右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手とともに政治を執ったのだ。

754年,吉备升任太宰少贰,759年升任大宰大贰。接下来在764年任造东大寺长官。70岁时,他终于重返京城。藤原仲麻呂发动叛乱时,他的官阶升至从三位,担任中卫大将指挥追剿军队,镇压叛乱立功。在称德天皇的治世,吉备历任中纳言、大纳言,最后升至右大臣,和左大臣藤原永手一起执掌政事。

吉備真備は地方豪族出身者としてはまさに破格の出世だった。学者から立身 して大臣にまでなったのも、近世以前ではこの真備と菅原道真のみだ。それも、 一度は中央政界で失脚しながら、遣唐副使として入唐、再出発し、帰国後は大 宰府で実績を積み、70歳で遂に都へ復帰したのだ。学者から身を起こした彼の 忍耐強い性格はもちろんだが、ここまで頑張り抜けたのは、やはり執念としか いいようがない。

对地方豪族出身的吉备真备来说,这一切晋升可谓是破格的晋身。在近世以前的时代,从学者起家一直升到大臣的人仅有真备和菅原道真。不过即便如此,吉备还是一度被逐出中央政界,又担任遣唐使再度出发,归国后在大宰府积累政绩,70岁时终于回到了京城,重新复出。这当然源自学者出身的吉备的坚韧性格,而能如此坚持不懈,恐怕还是一种非凡的执着吧。

吉备大臣入唐绘卷

吉備真備には様々な伝承がある。まず彼は唐で「仙術」を学んでいる。また彼は「夢」を買って出世したという(『宇治拾遺物語』)。このほか、梅原猛氏によると、「祭星法」という術を用い、実はこの法により出世したともいう。この秘法を用い出世したもう一人の人物が、藤原鎌足だ(『宿曜占文抄』)。

围绕吉备真备有各种各样的传说。比如他在唐学习了“仙术”。另外,根据梅原猛的说法,吉备能操纵祭星法,实际上也是凭借这个法术青云直上的。而使用这个秘法获得权势的另一个人,正是藤原镰足。

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