第四十一代の天皇。歴代の女帝の中には、“中継ぎ”的な人物も確かに存在する。しかし、持統女帝は夫・天武(第四十代天皇)の目指した神格的天皇制を確立するとともに、新しい時代の律令体制の整備を積極的に推進した本格的な天皇だった。

持统天皇是第四十一代天皇,在历代的女帝中,她是一个“承上启下”的存在。而另方面,持统女帝也是一位名符其实的天皇,她不但确立了丈夫天武天皇希望建立的神格天皇制,还积极地推进新时代的律令体制。

天智天皇を父とし、蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘を母として大化元年(645)に生誕。_野讃良(うののさらら)皇女という。13歳のとき叔父・大海人皇子(後の天武天皇)の妃となった。夫の大海人皇子のもとには姉・大田皇女や、異母妹の新田部皇女、大江皇女など4姉妹が嫁いでいた。ほかにも大海人のもとには十市皇女を産んだ額田王もいた。政略結婚が多い古代とはいえ異例のことだろう。

持统天皇生于大化元年(645年),父亲是天智天皇,母亲是苏我仓山石川麻吕的女儿远智娘。幼时称为“野讃良皇女”。13岁时,她称为叔父大海人皇子(后来的天武天皇)的妃子。而她的4位姐妹也嫁给了丈夫大海人皇子,她们是姐姐大田皇女、异母妹妹新田部皇女、大江皇女等人。此外大海人身边还有生下十市皇女的额田王。虽说古代不乏政略结婚,而大海人的情况却还真是少见。

彼女が実力を発揮するのは父の遺児、大友皇子と夫・大海人皇子が皇位を争った壬申の乱(672)に夫が勝利し、朱鳥元年(686)その夫・天武天皇も亡くなった後のこと。とはいえ、ここに至るまでにも彼女は並みの女性ではない、したたかさをみせている。天智10年(671)10月19日、病床の天智天皇の「後を頼む」という謀(はかりごと)に乗せられることなく、間一髪切り抜け、出家。剃髪し一介の僧となった大海人が近江大津京を発って吉野に向かった。このとき彼女にとっては、父を取るか夫を取るかという物凄いジレンマがあったはずだ。が、妃の筆頭として大海人について行く。

壬申之乱(672年)中,丈夫大海人皇子与父亲天智天皇的皇子大友皇子争夺皇位,最后丈夫取得了胜利。而持统女帝初露实力是在朱鸟元年(686年),丈夫天武天皇去世不久的时候。尽管如此,坚持到这个时候的持统也展示出自己不同于一般女性的坚韧面。天智10年(671年)10月19日,病榻上的天智天皇对大海人说:“后事就拜托你了”。然而大海人识破这是个计谋,他迅速逃离宫中,剃发出家、一身僧侣的打扮,从近江大津京奔往了吉野。此时对于持统来说,面临支持父亲还是跟随丈夫的痛苦选择。不过作为妃嫔之首,她还是跟随了大海人。

また母親として割り切った強さもみせる。実子・草壁皇子を皇位につけるため、亡き姉・大田皇女の子で、非凡で卓越した才能の持ち主だったライバル大津皇子を謀叛のかどで逮捕し、自害させる。ところが、持統3年(689)肝心の草壁皇子は28歳の若さで病死してしまう。並みの女性なら弱気になってしょげてしまうところだろう。が、ここでも彼女はこの苦境をバネに、一躍スポットを浴びる地位に躍り出る。持統4年1月、やむなく自分が即位し、持統天皇となったのだ。全く見事としか言いようがない。

作为一位母亲,持统女帝也显露出自己果断刚烈的一面。为了让亲生儿子草壁皇子继承皇位,她以谋反的罪名,把去世姐姐大田皇女的儿子、才华横溢的对手大津皇子逮捕后赐死。只可惜,自己疼爱的草壁皇子却于持统3年(689年)去世,年仅28岁。若是平凡的女性,想必从此茫然自失、以泪洗面吧。然而持统女帝却在痛苦中振作起来,一下子出现在历史的表面舞台上。持统4年1月,她无奈中自己继承皇位,成为了持统天皇。这一切只能用精彩二字来描述。

持統天皇の容姿を記したものはなく、全く分からないが、当時の女性はひっそり部屋の奥深くで着物の中に埋もれていた平安朝の女性と違って、もっとたくましかった。「日本書紀」によれば、静かで落ち着いて、それでいて度胸のいい女性だったとある。節目節目での身の処し方をみると、確かにその通りだ。

关于持统天皇的相貌,由于没有相关记载,所以完全不得而知,不过,当时的女性并不像平安时代的女性那样深居闺阁、裹着厚重的和服,而是更加的刚强。据《日本书纪》记载,持统女帝是一位性格安静沉稳、颇有胆识的女性。看看她在每个关键时刻做出的选择,也的确是如此呢。

持統8年(694)12月、4年の歳月をかけた新京が完成、遷都が行われた。これが藤原京だ。奈良平城宮に先駆ける、わが国最初の本格的な都城だった。また、持統天皇の事績として重要なものに律令体制の整備が挙げられよう。この律令体制を実質的に整備・推進したのが、この時期に宮廷の実力者として登場してきた藤原不比等だ。持統11年(697)、53歳の女帝はただ一人の孫、15歳の皇太子、軽皇子に皇位を譲って、自らは太上天皇となった。こうして藤原氏が律令体制の最大の実力者として着実に不動の地位を固めていくそのはじめと、女帝が太上天皇になって権力を振るおうとする時期がちょうど重なるのだ。天皇制の歴史から、日本の政治史の流れの両面からみて、この時期の持統女帝の存在には見落とせない重要な問題が含まれているといえよう。

持统8年(694年)12月,新的京城花费4年终于完成,朝廷迁往了新都城,这就是藤原京。它是日本最初一个真正意义上的都城,早于奈良的平城京。持统天皇的政绩中,律令制的完善工作应说是重要的一环,而实质上对律令制进行推进和完善的人,正是这一时期宫廷的实力派藤原不比等。持统11年(697年),53岁的女帝把皇位然给了自己唯一的孙子、15岁的皇太子轻皇子,自己成为了太上天皇。就这样,藤原氏作为律令制最大实力派一步步稳固自己地位的开始,正好与女帝成为太上天皇操纵大权的时期重合。从天皇制的历史、日本政治史趋势的这两方面来看,这个时期持统女帝的存在具有不可忽视的重要意义。

在位11年、その間は白鳳美術の盛期、柿本人麻呂などが活躍した時期で、持統自身「春過ぎて夏来たるらし白妙の 衣干したり天の香具山」など、いくつかの名歌を「万葉集」に残している。大宝2年(702)12月22日、58歳の生涯を閉じた。遺体は火葬にふされたが、これはわが国最初の天皇の火葬となった。

持统女帝在位11年,这个期间正是白凤美术的全盛期,歌人柿本人麻吕也活跃于这个时期,而女帝本人也留下了“春過ぎて夏来たるらし白妙の 衣干したり天の香具山”的名句,收录于《万叶集》。大宝2年(702年)12月22日,持统女帝走完了58岁的人生。遗体被火化,这也是日本第一次对天皇进行的火葬。

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