前期回顾:日本人的秘密:为什么喜爱省略(上)

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ストレートな表現を避ける日本の言語文化

日本語が肝心なことばを省略するのは、なにも言語学的な欠陥ではなく、それがひとつの言語文化だったからです。

避免直接表达的日本语言文化

日语省略关键的词语并非是语言学上的缺陷,而是源自本国的语言文化。

『万葉集』には死者を悼む「挽歌」というジャンルがあります。しかし、死を語る歌に「死んだ」とか「死ぬ」ということばは一度も出てきません。わかりきったことを化粧もせずストレートに伝えることは下品なのかもしれません。「死んだ」という直接的な表現は謹んで避け、その代わりに「隠れる」「過ぎていった」「散った」という遠まわしの表現を重んじました。

《万叶集》中有一个类别是“挽歌”,也就是悼念死者的和歌。然而这些描述死亡的诗歌中,“死んだ”、“死ぬ”这类词语却一次也未出现过。像“死んだ”这些直接的表达,古人郑重地予以回避,而代之以“隠れる”、“過ぎていった”、“散った”这些含蓄的表现。

ことばには魂があり、うっかり口に出すとその通りになってしまうという「言霊」文化が日本にあります。大事なことばほどうかつに口に出してはいけないのです。

日本有着“言灵”文化,认为语言中存在魂灵,漫不经心说出口就会酿成相应的结果。因此重要的话语绝不能轻易说出口。

磯城島〈しきしま〉の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ  

 (万葉集 巻13-3254)

『万葉集』の柿本人麻呂歌集が訴えるように、日本の国は言霊が助けてくれる国だから、よいことを言えばよいことが出現するが、何でもべらべら喋るものではない。ことばはできるだけ謹んで遣うもので、よほどのことがない限り、恋人の名前すら心に秘めておかねばならないのです。

矶城岛大和国是言灵护佑之国  我祝愿国土太平安康

 (万叶集 卷13-3254)

就像《万叶集》中柿本人麻吕的和歌所说那样,日本国是一个得言灵护佑的国家,因而说吉利的事即会有吉利的事发生,但也不能喋喋不休说个不停。使用语言需尽可能谨慎,不到万不得已,甚至恋人的名字也不能轻易说出口。

今でも「噂をすれば影がさす」ということわざが遣われ、うっかり口に出すとその通りになってしまう、という言語民俗信仰は生きています。「はっきりものを言う」文化と「言わぬが花」の文化の違いかもしれません。具体的にはっきり言わないので明瞭さに欠けますが、その代わり、比喩や遠まわしの表現法が豊かになったのが日本の言語文化です。

有句谚语就说道:“噂をすれば影がさす(说曹操曹操到),不小心脱口而出的话会变成现实,这样的语言民俗信仰至今仍存在着。这或许是“直截了当”的文化和“含藏不露才是美”的文化之间的差异。由于不具体清晰地下断定,难免话语含糊,而相应的,比喻或委婉的表达就更加丰富起来,这就是日本的语言文化。

平安朝文学を眺めると「物す」という表現が多く遣われていることに気づきます。居る、言う、食うなどの動詞を直接的に遣わず、婉曲的に「物す」と表現してうやむやにしてしまい、相手にそれとなく動きを察知してもらうのです。とくに女性のたしなみとしてそうした婉曲表現を遣いました。

概观平安王朝的文学会注意到,“物す(“居る・行く”等词的委婉表现)这样的表达被广泛使用。表达时不直接使用“居る”、“言う”、“食う”等动词,而是委婉地用“物す”来达到含蓄模糊的效果,不露声色地让对方意识到自己的动作。使用这类委婉的表达,尤其被视为女性的修养。

たとえば、食事中に便意を催したので、はっきり言った方がいいと思っても、「ウンチをしてきます」とはなかなか言えないでしょう。便所ということばすら日本語では「はばかられる」ことばだったので、そこから便所を「はばかり」と言うようになったくらいです。

比如,进食时腹胀难忍,尽管觉得明确告知比较好,但“ウンチをしてきます(我去上厕所)”还是很难说出口吧。由于“便所(厕所)”这个词语,在日语中受到忌讳,“はばかり”后来就成了“便所”的代替说法。

女性ことばには「文字ことば」というのもありました。直接、具体的にそのものを指摘するのをはばかって、ことばの一部を省略し、語尾に「もじ」をつけて表現したものです。風呂に入る時に着用する腰巻などを「湯文字」と言い、ご飯をよそう道具の杓子を「しゃもじ」と言い、空腹であるという意味の「ひだるい」ということばを遠慮して「ひもじ」と言い、そこから「ひもじい」という形容詞ができたわけです。

女性语中有“文字(もじ)语”这种表达形式。在说话时避免直接、具体地指示某一事物,而是省略词语的一部分,然后在词尾加上“もじ”。比如进澡堂时围在身上的贴身衣物被说成“湯文字”,盛饭的工具饭勺被说成“しゃもじ(杓文字)”,表示“肚子饿”的词语“ひだるい”也不受待见,要说成“ひもじ”,由此还产生了“ひもじい”这个形容词。

あるいは今でも「忌みことば」というのがあります。結婚式の折に遣ってはならないことば、たとえば「切る」「別れる」「終わる」などは避けられています。披露宴を「終える」のではなく「お開きにする」ですよね。そうなるとウエディング・ケーキを新郎新婦ふたりがナイフで切るのはあまり縁起がいいとは思えないのですが、これは「入刀」ということばに置き換えています。

又或者,直到今天还存在着一些“忌讳词”。比如“切る”、“別れる”、“終わる”等是婚礼上忌讳用的词语。一般我们不会说“終える(结束)”订婚宴,而是说“お開きにする(散席)”。在这种意识下,人们觉得新郎新娘两人用小刀切开婚礼蛋糕也不太吉利,于是就用“入刀”这个词来指代这个活动。

新聞などのマスコミが「誰それが自殺した」と報道するのは的確な表現ですが、もし皆さんの周辺でそうしたことが起きたら、その人の死や人の不幸に対して少しでもいたわる気持ちがこもった表現を心がけるべきです。「自殺」と「自ら命を絶つ」――内容は同じですが表現に思いやりの差があります。ご近所の家であわただしくしているので、「誰か、死んだのですか?」とあからさまに聞くより、「何か、おとりこみでも?」と聞く方が品の違いが出ようというものです。

报纸等媒体写出“誰それが自殺した(某某自杀)”,这当然属于明确的表达,然而,假如大家身边发生了这样的事,就需要注意自己的表达,多多少少要包含一点对别人的死或不幸的安抚之情。比如“自殺”和“自ら命を絶つ”两个词在内容上都相同,然而在表达上却有着有情无情的差异。邻居家因办丧事忙乱时,相比明确地询问“誰か、死んだのですか?”,问一句“何か、おとりこみでも?”就更显得含蓄委婉。

別れる時にはっきりと別離を宣言することがためらわれるので、接続詞の「さようならば」「さらば」ということばで止めて、それ以上は言わずに別れの辛さを相手に察してもらう。この謙譲の美学が「さようなら」「さらば」という挨拶語を生み出したのです。何事もはっきり言う、何でも口に出して言う、それが西洋文化から学んだ哲学かもしれませんが、それがすべての価値観につながるわけではありません。「言わぬが花」「秘すれば花」はひとつの奥ゆかしい文化なのです。

与别人分别时,人们往往不愿直截了当表明辞意,因此就用接续词“さようならば”、“さらば”来结束谈话,让对方察觉到离别的不舍,而无需用多余言语。于是,这种礼让的美学就产生出“さようなら”、“さらば”这样的问候语。直言不讳、心直口快或许是从西方文化中学来的处世哲学,然而这并不能代表所有的价值观。因为,“含藏不露为美”、“秘则为上”也是一种优美的文化。

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