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一時期、「ら抜き言葉」に対して非難が沸き起こったことがあった。本来「食べられる」というべきところを、今時の若者は「食べれる」という具合に「ら」を抜いていう、それが耳障りだと、主に年配のものから苦情が呈せられたのである。この現象をとりあげ、日本語の乱れを嘆く向きも多かったものだ。

有一阵子,对“ら抜き言葉”的批评甚嚣尘上。原本的说法是“食べられる”,最近的年轻人却会去掉“ら”说成“食べれる”,老一辈的人觉得很别扭,对此提出了批评。许多人还以此现象为例,对日语的混乱大发感概。

だがこの嘆きをよそに、「ら抜き言葉」は若者の間で使われ続け、最近では「食べれる」以外にも、さまざまな語について用いられるようになった。たとえば、「考えれる」、「覚えれる」、「信じれる」といった具合だ。

然而,不管他们怎样感慨,“ ら抜き言葉”仍然在年轻人中间流行,最近除了“食べれる”以外,其它的词也逐渐采用了这一形式,诸如“考えれる”、“覚えれる”、“信じれる”之类。

こうした状況を前に、ただ言葉の乱れだといって非難するばかりではなく、日本語の内在的な傾向に根ざしたものだとして、肯定的に評価するものもあらわれた。言葉というものは永遠普遍のものではなく、時の流れに従って変化するものだという想念が、その考え方の背後にはある。 

面对这种现象,也有人给以肯定的评价,认为不能仅仅批评为语言的混乱,而应将其视为一种植根于日语的内在倾向。在这种见解背后存在一种观点,即认为:语言并非是永恒普遍的,它会随时变化。

「ら抜き言葉」についてみても、つい最近になって表れたわけではない。すでに昭和の初期からその動きはあった。たとえば「見れる」、「来れる」、「着れる」などは、今では誰も不自然に思わないほど日本語の中に溶け込んでいるといえるが、もともとは「見られる」、「来られる」、「着られる」というべきところから「ら」を抜いた「ら抜き言葉だったのである。

其实研究一下“ら抜き言葉”后会发现,它并不是最近才出现的。早在昭和初期,就已经产生这种趋势了。比如,“見れる”、“来れる”、“着れる”等词已经完全融入了日语,今天谁也不会觉得这种用法不自然。然而,“見れる”、“来れる”、“着れる”也是省略了“ら”的词,它们原来的形式是“見られる”、“来られる”、“着られる”。

これらの言葉はあまりにも日常に定着したので、本来の語からの乱れという意識は薄れ、独立した新しい言葉遣いとして認められるまでなっている。「見れる」についていうと、「見れない、見れた、見れる、見れる、見れれば、見れよ」といった具合に、活用のセットまで揃うまでになった。

由于这些词语已经在日常生活中扎下了根,人们也就意识不到它们原本都是误用,甚至还承认这是一种独立的新用词法。比如“見れる”这个词,还具备了一系列活用形式,如“見れない、見れた、見れる、見れる、見れれば、見れよ”等等。

これらの古い「ら抜き言葉」に比較すると、新しい「ら抜き言葉は」ちょっと様子が異なっている。古い「ら抜き言葉」の語幹がすべて一音節なのに、新しい「ら抜き言葉」は複数の音節からなる語幹を有している。だから、言い方にちょっと無理があるように聞こえるのだろう。

与年代较早的“ら抜き言葉”相比,新出现的情况稍有不同。较早出现的“ら抜き言葉”,词干都为一个音节,而新的“ら抜き言葉”的词干则由几个音节组成。或许因为这个原因,这些词听起来会觉得有些不自然。

これらの新しい「ら抜き言葉」にまだ、独立した活用が確立していないのも、一人前でないことを印象付けている。「食べれる」という人はいても、「食べれよ」という人はほとんどいない。しかしこれも時間の問題かもしれない。最近では「食べれば」、とか「食べれた」とか言う人もぼちぼち現れているからだ。

新出现的“ら抜き言葉”尚未确立独立的活用形式,这也给人不完备的印象。例如有人说“食べれる”,却绝不会有人用“食べれよ”这种形式。不过,这或许也只是时间的问题。其实在最近,用“食べれば”、“食べれた”这些形式的人也慢慢出现了。

ここでは「食べれる」を例にとって、新しいら抜き言葉について論じたが、それには理由がある。近年になって「ら抜き言葉」が流行りだしたのは、どうもこの言葉がきっかけだったようなのである。

本文以“食べれる”为例,对这类新出现的“ら抜き言葉”展开论述,并非没有原因。近年来“ら抜き言葉”的流行,正是从这个词开始的。

「食べる」はいうまでもなく、日常もっとも良く使う言葉である。同じく日常よく使うことばに「しゃべる」がある。両者は外見上まったく異ならない。それで「しゃべる」の可能態「しゃべれる」の変化形が、「食べる」にも応用されて「食べれる」となったのだと思われる。

众所周知,“食べる”是日常生活中最为常用的一个词。而“しゃべる”也同样在日常生活中经常使用。两者在外观上看来完全没什么差异。或许因为这个原因,“しゃべる”可能形的变化形式“しゃべれる”也应用到了“食べる”上,形成“食べれる”这种形式。

この両者は似てはいるが、内実は異なっている。「しゃべれる」が不自然に聞こえないのは、それが「しゃべり・うる」に分解できるように、文法上の約束事に一応従っているからだ。ところが「食べれる」は「食べり・うる」には分解できない。どう贔屓目に見ても、文法上の約束事から逸脱していると、感じさせるのである。

两者看起来相似,其实实质完全不同。“しゃべれる”用起来并没有不自然的感觉,论其原因,按词义分解为“しゃべり・うる”就会看到,它基本上是符合语法规律的。而“食べれる”却不能分解为“食べり・うる”。无论怎样为其辩解,这种用法不符合语法规律的事实不会改变。

それにもかかわらず「食べれる」は、若者を中心に広がっていった。いったんある言葉に新しい用法が成立すると、それに似た言葉にもその用法は広まっていく。これは日本語の長い歴史が示しているところだ。

尽管如此,“食べれる”还是以年轻人为中心扩展开来。新的用法一旦在某个词语中确立,其它与此相似的词也会受到波及。日语漫长的历史就像我们展示了这一过程。

こうしてみれば、「ら抜き言葉」的現象が一般化していくのは、自然の勢いというべきなのかもしれない。

这样看来,“ら抜き言葉”现象逐渐蔓延或许也是自然趋势使然。

日本語は過去にも、動詞の使い方に大きな変動を経験した。古語から現代語へ移っていく過程で、四段活用が五段活用に変化し、二段活用が一段活用に変化した。

日语在过去也经历了动词用法的大规模变化。比如,在古语向现代语发展的过程中,四段活用变为五段活用,二段活用变为一段活用。

これは民族の言語体系における大変化であったといえる。言葉というものはやはり不変ではなく、変化するものだと思ったほうがよい。

可以说,这是在民族语言体系上的重大变化。语言本身并非长久不变的事物,而是随时更新、日新月异的。

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