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黄昏(たそがれ)が「誰そ彼」から発していることを指摘したのは柳田国男である。日が沈む前後の時間帯は、あたりが薄暗くなるので、人々はすれ違う時に、「誰そ彼」つまり「あなたは誰ですか」と言い合いながら、コミュニケーションを図った。そこから日没時を「たそがれどき」というようになり、それが「たそがれ」になったというのである。

根据柳田国男的观点,“黄昏(たそがれ)”一词来源于“誰そ彼”。在日落前后的这段时间,由于四周光线暗淡了下来,人们在路上擦身而过时,会彼此互道“誰そ彼(古代日语中,“彼”指代的是第二人称)”,也就是“あなたは誰ですか(您是谁)”,以此取得相互间的交流。由此日落时刻被称作“たそがれどき”,后来就演化成了“たそがれ”。

逢魔时

「かわたれ」というのも同じようなもので、「彼は誰」から転じた言い方である。また名古屋地方では、「うそうそ」という言い方があるそうだが、これも人の表情がはっきりしないさまを形容する言葉だという。

“かわたれ”也是一个相同的词,它是由“彼は誰”转变过来的说法。另外在名古屋地区还存在“うそうそ”这种说法,这也是一个形容人的面貌模糊不清的词语。

夕方を表す言葉としては、「ゆう」という言葉が古くからあった。「ゆうまぐれ」はこの「ゆう」と「まぐれ」の合成語であるが、「まぐれ」とは「紛れる」つまりものごとが不分明に見えるという意味である。だから「ゆうまぐれ」は「たそがれ」や「かわたれ」と同じように、日没時の物事がぼんやりとうつるさまを表した言葉だと言える。「ゆうぐれ」は、この「ゆうまぐれ」のなまった形だろう。

作为表示黄昏的词语,“ゆう”自古就已存在。“ゆうまぐれ”就是“ゆう”和“まぐれ”形成的合成词,“まぐれ”就有“紛れる(混淆不清)”,也即景致模糊不清的意思在里面。因此,“ゆうまぐれ”这个词就与“たそがれ”、“かわたれ”具备同样内涵那样,表现的是日落时分一切事物变得模模糊糊的景象。

「ゆうべ」は「ゆう」に「へ」(あたり)が結びついたものである。現代語における「夕方」と同じようなニュアンスの言葉である。

“ゆうべ”是“ゆう”加上“へ”后形成的词。在现代文中这个词与“夕方”具有同样的语感。

「あした」は「ゆうべ」に対立する概念の言葉で、夜があけた状態をさしていった。太古の日本人にとっては、一日の始まりは、現代のように明け方ではなく、夕方だったと主張したのは、やはり柳田国男だったと思うが、夕べを起点にすると、夜が明けた状態つまり「あした」は、後世の人にとっては次の日を意味した。このことから、「あした」が「翌日」と言う意味での「明日」に変化したのだろうと思われる。

“あした”一词表示与“ゆうべ”相对立的概念,指即将天亮的状态。柳田国男认为,对上古的日本人来说,一天的开始并非像现代那样是黎明,而是傍晚时分,既然用傍晚作为一天的起点,那么天亮的时候,即“あした(明天)”对后世的人而言就意味着第二天。如此一来,“あした”就变成了表达“翌日”意思的“明日”。

日が昇って薄明るくなった状態を「あけぼの」といった。「あけ」と「ほの」の合成語である。「あけ」とは「あかるい」、「ほの」とは「ほのぼの」の意味で、ほのぼのと明るい状態をさす。

日出时曙光朦胧的情景被称为“あけぼの”。这是“あけ”与“ほの”合成的词语。“あけ”即“あかるい”,“ほの”即“ぼのぼの”的意思,表现的是一种朦胧中带有光亮的情景。

「あけぼの」に近い言葉に「あかつき」というのがあった。これは「あかとき」がなまったもので、あかるくなったばかりの時間帯、を意味した。

与“あけぼの”相近的词语还有“あかつき”,它是由“あかとき”的讹音转变成的,指的是刚刚出现曙光的时间段。

「あけぼの」や「あかつき」に近い言葉に「しののめ」がある。これは「條の目」からきていると言語学者の堀井令以知氏はいう。太古の日本家屋には、明り取りの窓に、篠で編んだ條の目を使った。夜が明けると、この條の目から日の光が差しこんでくる。それで條の目が夜明けを指す言葉として使われるようになったわけだ。現代語では「東雲」と書くが、これは当て字である。万葉集では「小竹之目」とか「細竹目」とか表記されている。

同“あけぼの”与“あかつき”类似的词还有“ しののめ”。根据语言学家堀井今以知的说法,这个词来源于“條の目”一词。太古时的日本房屋里,透光的亮窗上使用由细竹编成的条状窗格。天一亮,曙光就会从这些窗格照射进房间。因此“條の目”这个词就被用来指代黎明了。在现代语中,它写作“東雲”,不过这是假借字,在《万叶集》里它也被标记为“小竹之目”或“细竹目”。

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