健康が衰えきた時期|健康衰退期

大正十年、龍之介は「大阪毎日新聞」海外視察団の一員として北京、上海、杭州、漢口など中国各地を旅して回って、「上海遊記」などの紀行文を書いた。北京を訪れたおりには胡適に会っている。崑曲や戯曲の改良について英語で滔々と見解を述べ、胡適を感服させた。

大正十年(1921年),龙之介作为《大阪每日新闻》海外视察团的一员去中国各地考察,写了《上海游记》等很多游记。在访问北京时,曾与胡适会面。他用流畅的英文讲述对昆曲和改良戏曲的见解,让胡适深感佩服。

四ヶ月にわたる龍之介の中国旅行は、毎日見学や歓迎会に追われるという多忙な日々が続いた。その無理がたたってか、帰国後、龍之介は神経衰弱になった。健康が次第に悪化して、執筆意欲も衰えた。それでも、彼は病軀に鞭打って執筆を続けていた。大正十一年に「藪の中」、「神様の微笑」などの有力作を次々と発表し、 大正十二年に「侏儒の言葉」というアフォリズムの連載を始めた。

在龙之介四个月的中国之行中,每天都忙于参观学习和欢迎会。或许是太过劳累的恶果,回国后龙之介患上神经衰弱。身体状况也一日不如一日,逐渐丧失了创作的热情。即便如此,他也强撑病体坚持写作。大正十一年(1922年),龙之介连续发表了《竹林中》、《神的微笑》等力作。大正十二年,开始了格言集《侏儒的话》的连载。

よく知られている話だが、当時電車で相乗りしていた他人の子供に、お化け と怖がられたという。その余りに繊細な神経を持った龍之介は、骨に皮がついているように非常に痩せていたという。彼は自分の持病に関して、小説『歯車』と いう作品を書き上げている。「視界の中に、突然半透明な歯車状の物体が視野の下から現れる。やがて、歯車が視界をふさぐのである。その直後、強烈な頭痛が 襲うのだ」という。龍之介の時代には、その病気は原因不明の奇病といわれていたが、最近ではストレスが原因でなる病気だといわれている。

据说,有一日他乘坐巴士出行,乘客中有一个小孩以为他是妖怪,感到很害怕。那个时候,神经极其脆弱的龙之介已是皮包骨头了。在小说《齿轮》中,他曾这样描述过自己的病情:“忽然从我视线的下端现出一个半透明的齿轮,不久,它充斥了整个视线。之后,我感到头部一阵剧痛。”在龙之介所处的时代,这是原因不明的怪病,但是最近人们普遍认为这是由于压力过大导致的疾病。

自殺に関して|关于自杀

昭和二年七月二十四日、龍之介は「将来に対するぼんやりとした不安」という言葉を残して服毒自殺を遂げる。享年35歳だった。夜半から降り始めた雨の音を聞 きながら、龍之介はジャールの致死量を仰いで死の旅へと立った。枕元には大正五年四月刊行の「新旧約聖書」が開いたままになっていたという。

昭和二年(1927年),龙之介留下“对将来唯隐隐觉得不安”这样一段遗言后服毒自杀。享年35岁。那天夜里下起了雨,听着淅沥的雨声,龙之介服下了致死量的安眠药,踏上了死亡之旅。死前枕边还放着大正五年四月发行的《圣经》。

死を前にした凄絶な心象風景は哀切な私小説「点鬼簿」、遺稿の「歯車」、「ある阿呆の一生」などに明らかである。

哀伤的私小说《点鬼簿》,以及死前尚未出版的《齿轮》和《河童》等作品描绘了他死前惨烈的内心世界。

龍之介の命日は小説『河童』から取った河童忌と称されており、熱心なファンが命日になると慈眼寺へ墓参りに訪れている。

龙之介的忌日被称为“河童祭”,命名源于他的作品《河童》。每年到了这一天,他的粉丝们都会自发到他下葬的慈眼寺扫墓。

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