第1問 次の文章は,精神科医である中沢正夫の『凹(おう)の時代』の一節である(ただし,本文の一部を省略したところがある)。これを読んで,後の問い(問1~6)に答えよ。(配点 50)


 「他人を気にする」ということの意味するところはおそろしく広い。その現象は,病的なレベルから,準病的~正常なレベルまですべてを包みこんでいる。
 他者との関係で生じる"揺れ"が,どの程度その人の「全世界」に波及し,生活を混乱させるかどうか・・・・・・にはいろいろな要因があろうが大きくわければ二つである。一つは,その"揺れ"を「大波」とうけとるか「さざ波」とうけとるかの問題である。これはもっぱら性格としての「感受性」「過敏さ」の問題である。性格というのはなかなか(ア)キョウセイしがたいが,成長期に,この"心の揺れ"を処理するプロセスで出来あがってくるのである。
 二つ目は,その"揺れ"が(イ)ゾウフクして自分を溺(おぼ)れさせないようにすること―つまり心の中の小さな部分の問題として処理してしまう能力である。この能力は,その人が"自分は自分である"ことに自信をもっているかどうかにもっぱらかかっている。なぜなら,"他人を気にする"とは,"他人からみられている「自分」"を気にしていることに他(ほか)ならないからである。他人がどう言おうとオレはオレだという"居直り"が最後のところに座っている必要がある。
 そこで次に,Aそんなに気になる"他人"とは何かにもう少し,迫ってみよう
 田舎から東京の病院に転勤した当時,私は実に奇妙な体験に悩まされた。最寄り駅に朝下車して病院までの短い距離を歩くときのことである。当然のことながら途中何人もの職員といっしよになる。時に気がついてみると横を歩いていたりする。そんなとき,"やっ"とか,"おっ"とか,頭をちょっと動かすくらいの挨拶(あいさつ)では,.相手が気がつかないのである。よほど大声をあげるか肩でも叩(たた)かないとダメであった。ところが病院の玄関を入ったとたん,"おはようございます""寒いネ"の大合唱になる。今考えてみるとあたり前のことなのだが,大都会の雑踏の中のヒトは,個人識別能力を麻痺(まひ)させて歩いているのである。そんな能力を職場以外で働かせていたら,"人酔い"がはげしくなってたちまちダウンしてしまうからである。行き交う(正確にいえば,ぶつかり合いこづき合う)「ヒト」「ヒト」「ヒト」・・・・・・の群れは,草木,ゴミ箱,電柱,ビルの類(たぐい)である。そこでの「ヒト」は「人間」であることを拒否して歩いているのである。他者(「人間」)からみられているとは思っていない。だからもう実に悲しいほど,しまりのない表情をして歩いている。
 同じ雑踏でも原宿(はらじゅく)の若者たちはちがう。行き交う人が全く他人なのに,自分(正確にいえばファッションが・・・・・・)が注目されることを意識して(これも正確にいえば"期待して")歩いている。だから表情が実に生き生きしている。みられているからである。
 同じようなことは,小さな都市や町でもいえる。行き交う同士は,ほぼ面識集団なのでいつも「人間」からみられていることを意識しているので,歩き方にも,フク(ウ)ソウにも,表情にも外造りがある。カチッとした緊張がある。「ヒト」ではなく「人間」として外を歩いているからであろう。
 つまり,気になる「他人」とは,自分が「人間」として生きなければならない範囲内・・・・・・いわば面識集団内にいる「ヒト」たちが主であるということになる。
 一方,ヒトが,B「ヒト」でいても,「人」であってもあるいは「人間」としていても,いつも許されることがある。その場合は面識集団であっても「他人」の内に入らない。それが,家族である。
 この関係を見事に示しているのが視線恐怖症である。"他人の視線が気になる"という人は意外と多いものである。「.他人と目を合わせられない」「すっと視線を外されてしまう」から始まり「他人の視線をいつも意識する」となり,「これだけ視(み)られるにはきっと私に落ち度があるのだ」と妄想様に発展までする。
 もっとも,これは我が国の"伏し目がち"文化を抜きにしては語れない。たしかに我々は,相手と喋(しゃべ)るときあまり目をみない。
その代わり「目は口ほどに物を言い」ではないが,色目,流し目,伏し目,横目,細目,はてはガン(注1)づけとC「妙な目」に本心をこめてしまう
 この我が国に多い視線恐怖症の人が気にする"他人"の範囲は,やはり,雑踏の人々や,行きずりの人ではなく,また家族や心許せる友でもない中間帯の人・・・・・・職場や学校や近隣の人たちなのである。"他人を気にする"ときの他人と同じである。

 D七十(ななそぢ)に入りてはかむる要なけむ仮面そこはかとなく恋(こ)ほしきよ(山本友一(注2)『徂来(そらい)』所収)

 昭和六十二年十二月十日,朝日新聞の「折々のうた」(大岡信(注3))にとりあげられた短歌である。"七十歳ともなればもう仮面をかぶって生きる必要もなかろうのに,その仮面がなぜかふしぎに恋しいではないか"とうたう作者に大岡信氏は"仮面が強いる緊張にもいい所があるのだ"と和している。
 この短歌は,内向きと,外向きを使いわける「人間」の生き様―そして,長く「人間」をやっているうちに外向き(仮面)が,本当の顔になりかねない面白さを実にうまく教えている。この短歌の作者のように,"(エ)ジ″のまま生きていい歳(とし)になっても,仮面は本当の自分ではなかったと自覚しており,なおかつ仮面をつけた自分も満更ではなかったナとなつかしい想い(おも)いでいる人もいるし,金輪際(こんりんざい)"外向き"はやめようと苦々しくつぶやき仮面をたたきつぶす人もいよう。そして七十歳になっても八十歳になっても,いまだ"仮面をかぶる要"に迫られている人は多く,仮面が他人からみても自分からみても"素顔"になってしまっている人はさらに多い。
 考えてみれば"他人が気になること"は「人間」として生きていることの証(あかし)であり,日々の生活の常態である。そして「人」の成長の糧でもあるはずである。"他人が気になること"はあたり前のことであるばかりか必要なことなのではあるまいか。
 「他人を気にする人」と「しない人」がいるのではなく,気になったとき,どういう方向で処理するかに区別があるだけである。ある人は,黙って,新たな仮面をもう一つつくり,動揺をみせないが,ある人は,正直に他人が気になると言ったり行動に示してしまい,一層,神経質になっていく。後者がいわゆる"周りを気にする人"であり,そのごくごく一部がそのことに悩んで精神科医を訪れ,そのまたごくごく一部が,病者であるにすぎないという図式になる。
 たしかに「人間」は他人が自分をどうみるかで自分の行動を決め(他律)ているうちに,それが習い牲となり自律化してしまいがちである。それなら他人がどう思おうと自分の好き勝手にやったらよさそうなものだが・・・・・・そうはいかない。
 「人が生きる」ということは,その人の固有の「世界」をひきずっていることであり,その固有の「世界」を形づくっているのは「人間」としての「他人」に他ならないからである。第一,生き甲斐(がい)とは「(他人にとって)かけがえのない自分の存在に気づくこと」である。誰(だれ)一人として自分を頼ってくれる人がいなかったら,人は「人間」として生きていけないのである。出番の少なくなった老人たちがどんなに淋(さび)しい想いをしているか,いかに早くボケていくかよく知られているところである。
 生きているということは,たえず気になる他者がいるということである。人が成長するということは,自分の勝手に生きようとする意志と他人の期待に応(こた)えようとする意志との闘いの(オ)ショサンである。
E周りを気にする人にもしない人にも,いいところがあるのである

 (注) 1 ガンづけ―相手をじっと見つめること。言いがかりをつける場合に用いる。
    2 山本友一―歌人。一九一○年生。
    3 大岡信―詩人評論家。一九三一年生。

問1 傍線部(ア)~(オ)は熟語の一部である。これにあたる漢字を含むものを,次の各群の~のうちから,それぞれ一つずつ選べ。解答番号は~。

(ア) キョウセイ 会議でダキョウ点を見いだす。
ボウキョウの念を抱く。
キョウな行動をとる。
試合をジッキョウ中継する。
意外なハンキョウに驚く。

(イ)ゾウフク ゾウキ林を散策する。
細胞がゾウショクする。
美術館でチョウゾウを見る。
宝物をヒゾウする。
記念品をゾウテイする。

(ウ)フクソウ 舞台ソウチを動かす。
意見をソウカツする。
自己をソウシツする。
不明者をソウサクする。
場内がソウゼンとする。

(エ)ジ 人情のビに触れる。
人生のロに立つ。
ミの悪い屋敷に入る。
テイの方針に従う。
イトを輸出する。

(オ)ショサン 建物のユイショを調べる。
貴重品をショジする。
文書にショメイをする。
トウショの目的を達成する。
難局にタイショする。

問2 傍線部A「そんなに気になる"他人"とは何かにもう少し,迫ってみよう」とあるが,ここでいう「気になる"他人"」とはどのような人か。最も適当なものを,次の~のうちから一つ選べ。解答番号は。

雑踏の中のヒト
原宿の若者たち
家族や心許せる友
職場や学校や近隣の人たち
"仮面をかぶる要"に迫られている人

問3 傍線部B「『ヒト』でいても,『人』であってもあるいは『人間』としていても」では,「ヒト」「人」「人間」と言葉が使い分けられている。その使い分けの説明として最も適当なものを,次の~のうちから一つ選べ。解答番号は。

「ヒト」は群集の中でお互いを認識していない場合に用い,「人」はある程度面識のある人々の場合に用い,「人間」は親密な心の交流のある家族や友人の場合に用いている。
「ヒト」は心を持たない物質的な存在の意味で用い,「人」は個としての意識を持った存在の意味で用い,「人間」は常に他人とのかかわりの中に生きる社会的存在の意味で用いている。
「ヒト」は自分の生活とは無関係な他人の場合に用い,「人」は都会で孤独に生きている他人の場合に用い,「人間」は自己主張の強い生き方をする他人の場合に用いている。
「ヒト」は本能的に生きるだけの存在の意味で用い,「人」は思索したり感情によって行動したりする存在の意味で用い,「人間」は社会的意識を有する存在の意味で用いている。
「ヒト」は自我の意識を持ち始めた存在の意味で用い,「人」は他人への意識を持ち始めた存在の意味で用い,「人間」は他人と自分との違いを意識している存在の意味で用いている。

問4 傍線部C「『妙な目』に本心をこめてしまう」とあるが,これはどのような意味か。その説明として最も適当なものを,次の~のうちから一つ選べ。解答番号は。

言葉を工夫して分かりやすく自己を表現しようとするが,十分には表しきれないのでもどかしい思いを目の表情に託してしまうこと。
感情を言葉で整理できずにとまどいながら目の動きで伝えようとするが,意図のとおりには表現できずに別の感情を伝えてしまうこと。
相手と正面から向き合って明確に意思を伝えるのではなく,目もとにさまざまな表情を持たせて間接的に感情や考えを示してしまうこと。
相手の目の表情を巧みに読みながらその心情をすばやく察知し,自分の意見との相違をうまく埋めようと計算して物事を進めてしまうこと。
直接的な表現を避けるために言葉をあいまいにして,誤解されていることにも気づかないで表情だけで意思の疎通を図ろうとしてしまうこと。

問5 傍線部D「七十に入りてはかむる要なけむ仮面そこはかとなく恋ほしきよ」の短歌を引用することによって,筆者はどのようなことを言おうとしているのか。その説明として最も適当なものを,次の~のうちから一つ選べ。解答番号は。

仮面をかぶった人生での歩みを回顧する歌を引いて,他者との関係に悩み続けるのが人生で,その苦しみを乗り越えて自分の生き方を見つけるのも有意義なことである,ということを語ろうとしている。
過去の仮面の生活を否定する老境の歌を引いて,人は他者と競い合いながら,かろうじて自己を確立して安定した生活を得ていくところにも人生の意義がある,ということを説こうとしている。
仮面をかぶって生きてきた過去を回想する歌を引いて,仮面をつけて人間が生きるのには無理があり,そのような経験が晩年に至って反省を繰り返すことにつながるのだ,ということを主張しようとしている。
仮面をかぶる人生に耐えて老いに至った心境の歌を引いて,人生の中で他者との共存を拒否することも人間としての誠実な生き方であり,それをだれも否定できない,ということを論じようとしている。
今までの仮面の生活を振り返る老人の述懐の歌を引いて,人が仮面をつけ自分を隠しながらも他者と共存していくことが,人間としての成熟をもたらすものでもある,ということを述べようとしている。

問6 傍線部E「周りを気にする人にもしない人にも,いいところがあるのである」とあるが,筆者がこのように考えているのはなぜか。その理由として最も適当なものを,次の~のうちから一つ選べ。解答番号は。

周りの期待にこたえて他者のために生きようとする人も,他人よりも自分を大切にする人も,生きている限り苦しみの連続でそれを乗り越えていこうとしている点では同じだから。
実生活の中で他者の意向を気にする人も,他人は他人として気に留めない人も,人間社会で気軽に生きていくための方法を模索しようとしている点では同じだから。
周囲との関係に気を遣い他人を気にする人も,自分の世界を堅持して他人を気にしない人も,人間社会で他者の存在を前提にして生きようとしている点では同じだから。
社会での自分の評価を気にする人も,社会での評価より自分の価値観を大事にする人も,強い信念を持って自己流の生き方を貫こうとしている点では同じだから。
周囲との人間関係を自分の生きるよりどころにする人も,周囲とは距離を保とうとする人も,孤独な思いをいやすためには他者との関係が大事なのだと考えている点では同じだから。


  問1 問2 問3
正解 3 2 1
配点 2 2 2
  問4 問5 問6
正解 5 2 4
配点 2 2 6
  問7 問8 問9
正解 2 3 5
配点 8 8 9
  問10 - -
正解 3 - -
配点 9 - -