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自ら長城を毀つ
 
長城とはいうまでもなく、秦の始皇帝(前259~前210)が匈奴の侵入を防ぐために築いた、東は山海関、西は峪嘉関に至る万里の長城のことである。

これにちなみ、後世、「長城」は、国家の安全を守ることを天職にしている軍隊、または将軍のたとえとなった。

南北朝時代(420~589)、宋に檀道済という将軍がいた。彼は後秦、北魏の侵略を破ったことで名声が高かった。だが、その後、宋の文帝(劉義隆のこと。407~453)は讒言を信じて、彼を疑い、臣下に命じて殺害させた。

殺されるとき、檀道済は憤慨のあまり文帝に向かって、「おれを殺すのは、自分で長城を毀すのと同じだ」と言い放った。檀道済が殺されてまもなく、北魏が、大挙して侵入し、淮北以北、瓜歩など広大な地域を占領した。

この故事から後世の人は「自ら長城を毀つ」、または「自ら長城を毀す」という表現で自ら身を滅ぼすことのたとえにするようになった。

相关中文释义:

最早记载在《南史·檀道济传》中。

南北朝时期,宋国有位大将名叫檀道济,他曾跟随宋武帝刘裕北伐,屡建战功,官至太尉参军。

宋文帝刘义隆即位后,檀道济因为名声太高,左右部将又都骁勇善战,他的几个儿子也都掌管兵权,所以皇帝很不放心。加上朝中一些大臣的挑拨,宋文帝遂起了除掉檀道济的心思。

一次宋文帝患重病,彭城王刘义康借此拟了一道圣旨招檀道济入京。檀道济入京后住在建康(南京)的檀城,过了一段时间他看宋文帝病好后准备动身回去。

结果檀道济刚上船时又被招回宫,并把他捕捉下狱,罪名是图谋造反。接着他的儿子和部将也全部被杀戮。

临刑前他又气又恨,大吼道:“乃坏汝万里长城。”

檀道济痛斥宋文帝自毁长城,很显然是指他自己瓦解自己的军队。把军队比作抵御异族侵略的屏障——长城。最早将军队喻称为长城的,便是檀道济。

北魏人听说檀道济等几位能征善战的名将都被杀,便无所畏惧地进攻宋国,直逼宋都建康。

此时宋文帝才后悔杀了檀道济等几位名将,他登城叹道:“假若檀道济在何至于此!”

“自毁长城”比喻自己削弱自己的力量或自己破坏自己的事业