三 三菱商事の海外進出

1、三菱商事の紹介

三菱商事は、1899(明治32)年、三菱合資会社の多角化・拡大経営のなかで、営業部を設置、商社活動を続けていたが、1918(大正7)年、三菱商事(資本金1500万円)として分離・独立している。それ以前に三菱系として、福沢諭吉、岩崎弥太郎らが協力して、1881年に、生系直輸出を目的として「貿易商会」を設立しているが、人材とノウハウの不足が最大の制約要因となって、1886年に営業を停止している。三菱商事誕生は、三菱コンツェルンの形成過程のなかで、その構想の一環として生成、商圏を拡大しているのが大きな特質である【5】。
三菱商事はあらゆる商品を取り扱い、海外支店もアジアから欧米に広がっていて、いっきょに業界売上高シェア一位の商社となり、再結集した組織・人材・資金力のすべてを投入して、重化学工業部門の拡大や海外事業の展開をはかり、「経済大国のパイオニア」を僭称して、総合商社化の道を歩んだ。三菱商事の営業部隊としては、従来、燃料、金属、機械、食料、化学品、繊維・資材の六つのグループがあった。三菱商事はこの間の歴史を、1950年代後半を成長準備期、60年代を高度成長期、70年代前半を質的充実期と位置づけ、活動の軌跡を振り返っている。そして80年代以来、三菱商事は全面的な発展を迎えてきた。三菱商事は1902年(明治35年)から、海外拠点を開設した。第二次大戦後の1947年(昭和22年)財閥解体によって解散、1954年(昭和29年)に再興を果たし、現在の三菱商事を発足した。

2、アメリカ中心にする背景

80年代の三菱商事の発展は一番盛り上がっていると言われていた。その中で「アメリカを中心」という特徴は特にはっきりしていた。そこには国内、国外の原因があった。
1979年末まで、日本の対米直接投資額は34.93億ドルで、オランダ、イギリス、カナダ、ドイツの後、米国への直接投資総額の6.4%を占めした。しかし、表2に示されるように、1980-1989年の間に、日本の対米直接投資額は18倍増え、年平均成長率も34.9%に伸びた【6】。

 

投資総額(億ドル)

成長率(%)

投資額総(億ドル)

成長率(%)

1980

42.19

20.8

1986

234.33

21.3

1981

76.88

62.8

1987

351.51

51.5

1982

96.79

25.9

1988

533.54

50.3

1983

111.45

15.2

1989

696.99

30.6

1984

148.17

44.0

1980-1989

 

34.9

1985

193.13

20.4

その中で三菱商事の売上高が1980年(3月まで)の120668億円から、1989年(3月まで)の166140億円に達した。
そして、対米直接投資の急速な増加傾向には、いくつの原因があった。
外的要因をあげれは、適正な外国直接投資関係諸法規、巨大な国内市場規模、豊冨で廉価な生産要素、証券市場の発達による資本調達の容易性、政治の相対的安定性など。
それらの点からみれば、米国は適切な国である。米国政府、つまり連邦政府は、いわゆる外人投資に対して“国民的待遇”を保証している。いいかえば、国内投資と平等の基盤でこれを受け入れ、処遇するという政策である。連邦政府は、国家安全保障産業と規定される特別産業分野以外の投資に対しては、いかなる場合においても国内企業に対する特別奨励優遇策はいっさいとらず、外人投資に対して特別な障壁を投ける法的措置もいっさいとらないのである。
税制もまた、外人投資に極めて公正な立場を一貫させてきている。例えば、外国企業が米国企業を買収するといった場合に、その方法を規制するような特別税制も存在しない。したがって、外国企業は買収の組織化と金融、買収企業の以後の経営方法、あるいは正常な経営活動と資産清算にようって生じる所得の本社送金問題といったいくつかの要素を考慮のうえで、米国企業買収を計画すれば事すむわけで、当該国内における手続き以上の苦労を課せられる心配はないというものである【7】。
一方で、外国企業を対米直接投資選好に駆り立てる最大の魅力は、一兆ドル市場といわれて久しいその巨大な市場である。さらには、相対的に安定した低生産コストがある。石油、石炭、金属、木材などの原料資源が豊富であり、これらの安定的かつ低廉な価額での確保が容易であるという、自国では想像できない環境が整備されているわけである。
一方日本の面からみると、以下のような原因があった。
第1、日本経済の成長。日本は60年代の高度成長期と70年代の安定成長期によって、経済が飛ぶように発展してきた。日本はME技術の活用によって日本製品の品質や価格といった国際競争力の増強などの原因で、貿易収支は1970年代初めから黒字に転じた。貿易黒字の大きさを見てみれば、1970年代初めの20億ドルで、1970年代後半に100億ドルを越えて、1980年代半ばになると500億ドルに達した。この膨大な輸出黒字こそが、対外投資を通じる日本の債権大国化の金融的基礎となった。日本はすでに貿易黒字大国で、1985年に世界最大債権になった。そうすると、巨大な過剰資本が生まれていた。例えば、1960年日本のGDPは世界全体3%を占めたが、1987年になると16.6%に伸びた27277億ドルになったのである【8】。 
その経済力の急速な成長と共に、日本の対外経済の発展が自然に始まった。その過剰資本をどのように使うかについて、日本企業が色々と考えていた。ちょうどうアメリカがその良好な投資環境で、日本企業の海外進出の一番適切な国になったのである。
第2、日米貿易摩擦の激化。日米貿易摩擦は50年代の綿製品をめぐる問題からはじめ、70年代後半の鉄鋼、カラーテレビに火がつき、本格化になり、80年代から全面的に拡大したのである。自動車、半導体のほかに、金融・資本市場や流通などのサービス分野も日米紛争の場になって、貿易摩擦は全面的に激化したのである。
そのため、アメリカ政府が三つの対策をとった。1)厳しい関税と非関税障壁をとり、日本の対米商品輸出の増加を防ぐこと。同時に、アメリカ政府は日本に閉鎖的な市場の開放を求めてきたこと。2)アメリカ、カナダの自由貿易区を作って、日本の商品の優勢を消すこと。3)円高誘導で、日本商品の価格競争力が下がって、対米輸出は難しくなること。
その対策を対応するために、日本政府は海外直接投資の拡大する戦略をとる。日本企業はアメリカ市場を確保及び開拓するため、製品を輸出するかわりに、現地でそれを生産することになった。現地での雇用の確保に貢献するので、摩擦解消の決め手となるのでる。例えば自動車について、既にアメリカでの源治生産車の台数が輸出量を超え始めている。

3、三菱商事を例として

これからは、80年代の三菱商事を具体的な例として紹介する。
80年代に入ってから、三菱商事は三菱グループ内の関連する企業と連合して行動して、アメリカの会社や関係部門を買収することを主な手段として、アメリカで迅速に代表的な総合商社になったのである。
しかし、1985年プラぞ合意などのせいで、三菱商事の売上が一度に下がっていた。その時、三菱商事の未来を賭けた「Kプラン」が開始してきた。無意味な売り上げ高競争をやめ、収益重視への転換を決断、経営革新を開始して、その具体的なプランが諸橋社長【9】に引き継がれたKプランである。「時代の変化に合わせた事業領域の選別」と「商社としての機能の高付加価値化」によって「商権構造の再構築」を図るもので、これに基づいて中長期に取り組むべき課題として、分社化・子会社展開の推進、事業投資活動の強化、内外拠点体制の充実などが次々に決定された。
Kプランの第一弾は役員の若返り、不採算部門の縮小・統合など10項目であった。第二弾は利益責任関係の見直し、トップセールスの推進など10項目であった。そして、第三弾は分社化、子会社展開の推進、事業投資活動の強化などであった。1988年11月29日行った第三弾に、当時在任した古川部長が「わが社はもう総合商社にこでわらない、‘国際総合企業’を標榜すべきだ」と言った。
Kプランに従って、80年代以来三菱商事はアメリカで幅広い提携を行ったり、子会社を設立したりした。
具体的な例に見ると、三菱商事は米国のアリステック・ケミカル社の買収(約1300億円)、ケムテックス社のエンジニアリング部門の買収(約45億円)など、また三菱アルミニウムと連携して、アメリカのレイノルズ・メタル社と提携による、アメリカの巨大なアルミメーカーとなり、国際的な提携関係進行の重要な一環になったのである【10】。
同じく、子会社を設立する面にも、三菱商事が積極的に展開した。三菱商事が北米で、特にアメリカで、支店を設立した。80年代で、三菱商事がニューヨークでの支店の元で、メディア・コンミュニケーションや食品や不動産などの35個の領域に発展してきた。そして、ニューヨークの二つの支店を除く、10所以上のプロジェクト事務所が設立した。
以上述べた方法で、80年代の三菱商事がアメリカで飛躍を遂げた。以下の表3を示されたように、売上高はどんどん上がってきたのである。そして、1990年三菱商事の売上高16兆6千億円になった。

こうして、三菱商事はアメリカで大手会社の地位を確立したのである。日本の80年代の海外進出も三菱商事を初め、どんどん発展してきた。