二 日本の多国籍企業の紹介

1、日本の多国籍企業の成立

多国籍企業は海外進出の媒介である。多国籍企業とは活動処点を一つの国家に置かずに複数の国にわたって世界的に活動している営利企業である。企業が国外で生産活動や事業を行うのは、何も第二次世界大戦後だけの現象ではない。多国籍企業の登場は、第二次世界大戦後の資本主義の最も重要な変化の一つである。そして、多国籍企業の成立の土台について、こういうようなものが必要だと考えられている。
第一、商品生産・流通の国際化。多国籍企業の一般的な基礎としては、それが商品生産の国際化と密接な関係をもっていることがあげられる。同時にこれと対応して、いわゆる流通過程の国際化が行われるようになる。この商品生産および流通過程における、国内から国際への量的、質的拡大、延長ということが多国籍企業の成立の第一の一般的基礎である。
第二、資本の国際化。これは、社会資本の循環の国際化を意味するが、この社会資本の循環の国際化は、資本の個々の部分についていえば産業資本の各構成部分についての国際化を意味する。資本の国際化としての資本輸出は多国籍企業成立の第二の基礎である。
日本の多国籍企業は1955年8月GATT(関税及び貿易に関する一般協定)に加盟、1965年IMF【1】に加盟のおかげで、国際市場と更に接することができた。生産した商品が国際に流通ことも、国内における裕豊な資本の国際流通も飛躍的に発展してきた。そうすると、日本に多国籍企業が本格的に発展しはじめた。

2、日本多国籍企業の戦後の特徴、発展

多国籍企業という表現に示される形態は、国によって違う特点があるが、次の点のように、戦後に固有の特徴がある。
第一、その在外活動が、規模の点でも広がりの点でも、戦前とは比較にならないほどの水準に発展している。在外売上高の比重の大きさ、また進出国の数の多さが、それを示している。
第二に、このような在外活動の拡大は、それを保証する政治的・経済的安定性、その拡大の前提としての商品、資本移動の自由化が、いわゆるパックス・アメリカーナを頂点とする世界秩序の展開によって初めて可能になった。第三に、このような第二次大戦後の変化に規定された在外活動の水準の高さに対応して、企業の経営戦略も組織も以前にもまして国際化して、「多国籍」という表現にみられるように、従来とは違う新しい形態に編成された。
そして、日本に多国籍企業の特色の一つは、官民の密接な連携である。1951年再開された戦後の海外進出は、まずアラスカパルプ、ブラジル・ミナス製鉄所、アラビア石油、北スマトラ石油のいわゆる「四プロジェクト」を官民協力で成功させた。50年代の3社から、今の何千社に成長しつつ、その領域も石油や鋼鉄などのエネルギーから、保険、サービスなどの第三次産業へ移動する。そのうち、特に80年代には、日本の多国籍企業及び対外進出が迅速に発展した。

三 日本企業の海外進出

1、対外進出の発展過程

日本企業の対外進出は、敗戦によって在外資産を没収され、旧植民地との関係も切られた上、占領軍によって対外投資を一定期間禁止されていたもあって、その再出発は遅かった。しかし、日本はアメリカの作り上げた国際秩序を利用し、その庇護の基にいわば随伴者としてその支配の隙間におずおずと進出していきた。
そして、日本の場合に、日本の多国籍企業は戦後50年代から再開された。同じく、日本企業の対外進出も、1951年再開された。それから、60年代に入って徐々に本格的な展開を見せ始めたこの過程は、1973年のオイル・ショックを契機に一時停滞したが、1978年以降再び急増傾向を見せ始め【2】、特に80年代に入って進出史上未曾有の水準を達成し続けていた。
具体的に言うと、日本の直接対外投資は、1949年制定の外国為替管理法によって大蔵省【3】の規制下におかれていた。1950年年代後半に入ると、経済発展の加速と高速経済成長段階入りを反映して、総合商社による海外処点開発投資が活発化し、特にラテン・アメリカ全域の中心都市に支店の開発をみた。1960年代後半になって活発化するわけであるが、1968年には極めて画期的な海外投資残高を記録することになった。単年度だけでも5億5700万ドルを記録し、そこ額は前年度(1967)の2億7500万ドルの約2倍であり、残高総額は19億7200万ドルに達したのである【4】。しかし、1973年のオイル・ショックで景気後退の波に洗われ、企業倒産が続出し、海外投資が激減した。が、第1次石油ショック以降、日本企業は「減量経営」と雇用調整によって困難を越えて、省エネ製品を積極的に開発して世界市場に拡大だいた。そして、産業調整も迅速に実現し、マイクロ・エレクトロニクス(ME)技術を活用して、日本企業は急速に国際競争力をつけるようになったのである。そうすると、日本企業の対外投資は1978年第2次石油ショックをきっかけにもう一度急速に成長になった。80年代に入ってから、より一層発展した、さらには、1985年のプラザ合意で円の対ドル価値の上昇や、国内経営コストの上昇などの原因で、日本企業の海外投資意欲が空前に高まっていた。
対外進出領域の面から見ると。5、60年代の対外進出はブラジルを中心に多様な企業が進出し、特にブラジルの輸入代替政策を受けて鋼鉄、造船、繊維などの合併投資が進んでいて、つまり資源開発投資が相次いだ。1960年代後半から急速に発展してきたのは石油の海外投資、エネルギー資源を含む工業原料資源開発などの長期期待願望に立脚したインドネシア、ブラジルおよび中東産油国への大型海外直接投資が続出した。そして、1970年代以降日本企業の海外直接投資は完全に自由化されることになり、その行動も積極を極め、不動産、旅行業、ホテルなどの新規分野と銀行、証券、保険などの分野に激増した。対外進出は全領域に発展してきた。
この過程にあわせて、日本経済大国論は、貿易立国的な視点から対外投資・資本供給立国の視点に急速に転換しはじめている。

2、対外進出がアメリカ中心に

日本企業の対米進出は1964年から始まって、80年代には一番盛り上げることになった。1980年には、日本9大商社の国内取引が40%を超えていたのが、40年には30%台に落ち、代わって輸入と外国間の海外取引が増大している。特にアメリカへの進出が著しく増えてきた。表1に示される三菱商事形態別売上高の推移のように、80年代に、日本のアメリカへの進出が非常に発展していた。
表1  三菱商事形態別売上高の推移     (億円)

 

形態別

1980

1985

1987

1989

輸出

20889

27707

21848

24947

輸入

39629

54569

24523

31515

アメリカへ

7567

23661

17397

37008

三菱グループ公式ページより