三、「恥の文化」と「罪の文化」

ベネティクトによれば、「真の恥の文化は外面的強制力に基づいて善行を行うのに対して、真の罪の文化は内面的な罪の自覚に基づいて善行を行う。」(『菊と刀』P258)と述べている。
日本人は「恥の文化」、欧米人は「罪の文化」といわれる。恥の文化は人に迷惑をかけるような恥ずかしいことをしないということを道徳基準とする。一方、「罪の文化」では内面にある神との関係を重視し、宗教的戒律とか良心といったものを道徳基準とする。簡単に言うなら「恥の文化」は外面的な人目を気にする文化、体裁を気にする文化であり、「罪の文化」の方は内面の神を気にする文化と言うことができる。
ところで「人に迷惑をかけない」という道徳基準では、今、日本の大きな社会問題となっている女子中、高生の「援助交際」を道徳的にもとる行為として非難することはできない。「誰にも迷惑をかけていないよ」、「何をしようと私の勝手でしょ」、「あなたには関係ないでしょ」と反論されるからだ。つまり、「お金がすべて」という時代において、「他人の目」を気にしていないと言うことからこのような行動が生まれていると言えよう。また、人知れず、どこかで若者が自殺した場合も「だれにも迷惑をかけない行為」として、「恥の文化」ではこの行為を非難することは困難なのだ。この点、「罪の文化」では、神によって内面化されている性と生命の尊さを根拠として示すことができる。
「恥の文化」にも「罪の文化」にも長所もあれば短所もある。
「罪の文化」としての良い面は、神や自らの良心が判断基準となるから、他人に振り回されない主体性や自主性、自分で道を拓いてゆこうとする開拓精神が生まれやすいと思う。他方、他人に左右されないという点は、人の話を聞かない、協調性がない、独善的になりやすいということにまでなってしまうかもしれない。
「恥の文化」は他人の目に左右されやすいので、周囲に対する気遣いや心配り、謙虚さや協調性などということを結果するであろう。それが日本人には美徳とされていることでもある。しかしこれも悪くすれば、「赤信号みんなで渡れば怖くない。」といわれるように自分の判断による正しい行動を取ることができないような結果となり、本来渡ってはいけない赤信号でも「みんなが渡るのならまあいいっか!」と流されてしまうような迎合性や、主体性のなさ、あるいは信念のない生き方につながる傾向を生じる。
このようにベネティクトの言う「外面的強制力」は、「罪の文化」とは違って、自分の内面に神(絶対的基準)を持たないがゆえに、まず、外面(他人の存在)を気にする行動を取らざるを得ない、そのような行為のあり方を示している。

四、「恥の文化」の日本の社会に対する影響

「恥」を重んじる日本人は、二つの問題点を持つ。第一に、個人の自立性を育てにくい傾向となりやすい。個人においては個としての厳しい責任感に裏打ちされていない「甘え」の態度を育てやすいとともに、個人を取り巻く周囲の人々は新しい理想に生きようとする個性を抑圧する傾向を持ちやすい。それで多くの日本人はいつも他人と似たような生活を送っている。彼等は仲間外れにされることを恐れる。自分を強く主張することや周囲の意見と違うことや、個性を展開することなどを好まない。だから曖昧な言葉や、婉曲な意見など色々日本人に特有な現象が現れる。つまり日常生活の中で、模倣が多くなって独創が少なくなる。更に、日常の会話でも、同じような価値観がひょいと顔を覗かすことがある。第二に、自分の属する集団以外の社会に対しては、無関心で無責任な態度を生みやすい。たとえば、「旅の恥はかき捨て」である。
「恥の文化」には否定的な側面があるかもしれないが、角度を変えてみれば、「思いやりの文化」ともいえる。世間の一員である自分は自らの行動次第で、恥をかいたり、世間から名誉をえたりする。世間に迷惑をかけないように他人に思いやりをもって行動をすることが求められているからである。これは恥の文化の積極的な一面である。
もう一つの積極面は恥の文化は日本社会発展の原動力であることである。ル-ス・ベネティクトは『菊と刀』で「日本人は恥辱感を原動力にしている」と述べている。つまり、恥が行動の原動力となっている。場合にふさわしい服装をしなかったことや、何か言い損ないをしたことで、非常に煩悶することがある。この煩悶は時として非常に強烈なことがある。これに人々の行為は拘束されている。真の恥の文化は外面的強制力に基づいて善行を行う。常に恥は強力な強制力となる。ただしかし、恥を感じるためには、実際その場に他人がいあわせるか、あるいは少なくとも、いあわせると思い込むこと、さらには、今、その場にいなくても強く意識する他人が存在していること、が必要である。例えば、名誉のために、自らの心の中に描いた他人に対して理想的な自分にふさわしいような行動をする。つまり、みんなが恥という同じ規則にしたがってゲームを行い、それをお互いに支持しあっているようである。こうして「恥」による(お互いを気にしあう)独特の集団意識が形成され、みんな一緒に頑張る。その結果、国の発展も促進されている。この恥の意識は中国人の道徳にはあまりみられないが、日本の発展の人的な原動力になっているように思われる。