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語感、ということばがある。

有一个词,叫做语感。

辞書では「そのことばから受ける感じ」、「ことばが与える印象、ニュアンス」なんて説明が出ている。何となく漠然とした表現である。もっとも、その漠然としたところが語感の語感たるゆえんかもしれない。

在辞典里是这么解释的,“从某些语言中获得的感觉”、“语言给人的印象、微妙差别”。总觉得这表达有些不太明了。不过,或许这种不明了正是语感之所以为语感的原因吧。

どんな人でも語感をもっている。そして、その語感はある言語集団によって共有されている。現実の物理音と対応していない擬態語が特定のイメージを喚起できるのは、この語感の作用によるのだと思う。

不管什么人都会有语感。而且,这种语感在某个语言集体里是共有的。我想,之所以拟态词没有和现实生活中的物理声音一一对应却能引发特定的印象,就是因为这语感在起作用。

日本老师实例解说日语“拟声词”“拟态词”

「しんしんと雪が降り積もる
「ようやく雪がやみ、空がからりと晴れ上がった」

“雪静静地越下越厚”
“雪终于停了,天空哗地一下放晴了”

「しんしん」、「からり」という物理音などどこからも聞こえない。それは自然界とはかかわりのない言語音に過ぎない。それでいて、音もなく雪が降り積もるさま、明るい日差しが降り注ぐさまが目に浮かぶ。日本語話者の間で共有されている語感がそのことを可能にする。

像“しんしん”、“からり”这些物理声音在哪儿都是听不到的。它们只不过是和自然界无关的语言音而已。尽管如此,人们眼前还是能浮现出雪无声地下着、亦或是阳光明媚的样子。而说日语的人之间所共有的语感使这种感觉变为现实。

注:【言語音(げんごおん)】いわゆる音のうち言語に用いられるものをいう。物理的な音を「音(おと)」というのに対し、単に「音(おん)」ともいう。

語感の作用は、擬態語を離れたところでもはたらいている。たとえば、「りか」ちゃんという女の子の名前がある。「里香」あるいは「梨花」と漢字表記をすれば、名前の意味ははっきりする。げんに、こんな名前の女の子も多い。しかし、この名は「リカ」、「りか」と表意文字を離れても成立可能だ。「香山リカ」さんのように…。「リカ」、「りか」は日本語としては意味を持たない。しかし、知的でクール、という語感の作用がはたらいている。だから、名前としての価値はあるのだ。「まなみ」ちゃんという名も同じ。「真奈美」もあるけれど「まなみ」も名前としてりっぱに通用する。その鼻音の連なりが柔和で優美な印象を人に与える。

语感在没有拟态词的地方也发挥着作用。比如,有个女孩子的名字叫“りか(rika)”。如果用“里香”或者“梨花”这些汉字去写的话,名字的意思会很清晰。事实上取这些名字的女孩子也有不少。只是,这名字即便离开表意文字写作“リカ”、“りか”也是可以成立的。就像“香山リカ”这样……这两种写法作为日语本身并没有什么意思。但它们却能给人以知性、冷静的感觉。所以作为名字是有价值的。“まなみ(manami)”这名字亦是如此。虽然也能写作“真奈美”,但前者作为名字也非常通用。这种连续的鼻音能给人以柔和、优美的印象。

人の言語音はかならずしも価値中立的ではない。清音、濁音という言い方そのものに価値判断が含まれている。そして、その価値判断のもとには語感が存在している。だとすれば語感とは一体何だろう?語感はどのように成立し、人々の間で共有されていったのだろう?

人的语言音并不一定都是价值中立的。清音、浊音这些说法本身已经包含了价值判断。而语感则存在于这种价值判断的基础上。既然如此,那到底什么是语感呢?语感是如何成立的、又是如何在人们之间所共有的呢?

注:【価値中立(かちちゅうりつ)】その物事の価値が、法的には適法でも違法でもなく中立であること。また、是非善悪にかかわりのないこと。

下页:为何清音招人喜欢、浊音却人人避让呢?

日本人大讨论之“微妙的日语语感”