3 二名著における美人を花に譬える例の相違点とその原因

3.1 相違点

第二章に述べたように、『源氏物語』と『紅楼夢』を対照して見れば、二つの名著とも花に託して女性形象を描写した。それは共通点である。しかし、人は共通点を探し出すだけに満足すべきではなく、共通点の裏に隠していた相違点を発現すべきである。なぜかというと、相違点を通してこそ、中日間の文学と文化の違いを発現できる。
その一、『源氏物語』は女性を花に譬えた場合、ある花を見つけて、後で登場する女性をその花に譬えた。あるいは、その女性の姿によってそれと相応する花を選んでその花に譬えて、女性の名も花の名で命名したまでである。すなわち、作者は女性を花に譬えた目標は女性の姿を強調しようである。それにたいして、『紅楼夢』はひとつの女性に対応する花を選択する時、重点は女性の姿に置いたのではなく、女性の性格、気質、運命に置いた。言い換えれば、強調する対象は違っている。
それでは、その現象の例を見てみよう。紫の上は登場する時、源氏は下痢にかかって、北山の某という寺へいこうとして、これは三月の三十日だったので、京の桜はもう散っていたが、途中の花はまだ盛りのに気づいた。そして、後で登場する紫の上を桜に譬えた。
源氏は「咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎうき今朝の朝顔。どうすればいい」を言った時、六条の貴女を名花に、中将を朝顔に譬えた。
『紅楼夢』で、曹雪芹は黛玉を芙蓉に譬えた。芙蓉は古代から中国の人々にほかの花と比べると比べられない純潔美をもっている。それは視覚上のイメージである。品質上では、身を清く保ち、悪に染まらないということである。また、中国人は美人を形容する時、よく「出水芙蓉」という言葉をよく使う。要するに、芙蓉は中国人の人々の心の中でもっともいい評判のある花だといえよう。黛玉は芙蓉のような身を清く保ち、悪に染まらないという品質を持っている。
そして、黛玉の性格は人に与えた印象も芙蓉とは同じであることといえよう。それに、名利と地位に屈服しない点では、宝玉と黛玉は一致している。彼らはお互いに相手をその世で唯一の知己として大切にしている。だから、宝玉と黛玉の愛情悲劇はさらに読者の同情と残念の気持ちを博した。
以上の分析によって、『紅楼夢』で比喩の重点は人物の性格と気質に置くのは明らかであろう。
その二、『源氏物語』という名著で一つの女性に対応する花は唯一ではなく、よく登場人物の当時の感情を述べるために、対応する花を変える。それに対して、『紅楼夢』は人物の独特な気立てを表現し、結末を暗示するために、一つの女性は唯一の花に対応し、自分勝手に対応する花を変えない。例えば、第二回「帚木」で頭中将は自分のせいで夕顔に離れられてから、彼女に対する懐かしい気持を述べるために、夕顔を常夏に譬えた。しかし、夕顔は源氏と出会ってから、夕顔に譬えた。
『源氏物語』に対して、『紅楼夢』の場合はそうではない。『紅楼夢』で宝釵を牡丹に、探春を杏の花に譬えた。李纨を老梅に、湘雲を海棠に譬えた。麝月を頭巾薔薇に、黛玉を芙蓉に譬えた。それは周汝昌は『紅楼夢の芸術魅力』で述べたように、「『紅楼夢』では、それぞれの女性を各自の気立て、風姿、性格、結末と適応する花に譬えた」。宝釵はだれも比べられない美貌をもって、度胸があり、いつでも道理が通じる。それは牡丹が中国人に与える印象とよくにている。「黛玉は美しくて、とても単純で、素直で、何が言いようならすぐ言う。そして、彼女は宝玉と同じように、権勢に屈服しなくて、権勢も追及しない。それは、彼女のいった社会背景下では、かなり珍しい。これは、周敦颐の芙蓉を讃美する詩句「出淤泥而不染」と同じで、彼女を芙蓉に譬えた。また、『紅楼夢』では、一つの女性は唯一の花に対応し、自分勝手に対応する花を変えない。

3.2 その原因

相違点のある一つの原因は日本の持つ親植物性である。それはなぜ「女性を花に譬え」という現象で『源氏物語』は女性の姿を強調しているという問題を答えられる。稲作の栽培は、また日本人の植物に対する特別な感情を育てた。それは日本人の親植物性である。
日本人は植物に対してほかの国の人より特別な感情を持っている。親植物性があって、どんなに狭い庭であっても菊、桜や松などの植物を栽培し、植物に出会うとかわいいなあ、きれいだなと思い、好きな気持ちは抑えきれないほどである。だから、日本人は文学作品でも、登場人物が自分の好きな女性と出会ったら、「その女性はなんとお美しい、姿も美しくて、なんか花のように美しい」と思う傾向がある。
『源氏物語』で源氏がもっとも好きな女性、紫の上で証明しよう。紫式部は『源氏物語』で紫の上を二回桜に譬えた。まずは、紫の上の出場である。源氏は北山の某という寺へいこうとした。これは三月の三十日だったので、京の桜はもう散っていたが、途中の花はまだ盛りのに気づいた。そして、間もなく彼はまだ若い紫の上を見て、自分の女にしようと思った。ここで、彼は紫の上を山桜に譬えて、彼女に対しての好きになった気持ちを表した。
もう一つの原因は日本文学の主情性である。主情性はなぜ『源氏物語』という名著で一つの女性に対応する花は唯一ではなく、対応する花を変えるという問題を答えられる。日本人は自分の感情を第一にしているので、どんな場合でも自分の気持ちを述べるために、物体に託して具体的に表現する。
すなわち、日本人は志より、自分の感情あるいは気持をもっと大切にしている。だから、『源氏物語』で源氏であっても、夕霧であっても、よく自分の目の前の花を折って、手紙と伴って女性の方へ送り、よく後で出会う女性を当時自分が見た花に譬えてその女性の美しさを感心する。
日本文学の親植物性と主情性によって、比喩の重点を女性の姿に置いて、譬とする対象もよく変える。しかし、『紅楼夢』の場合で比喩の重点を外観上に置くではなく、品質上に置いたと思う。それは中国と日本が花文化に対しての違いによって、その結果がある。我が国の花文化の精粋は中国語で言えば「花韵」である。花韵というのは、ある花の風采、品格と特性である。それは外観のものではなく、内在のものである。
中国人は花の姿より、花の「花韵」をもっと大切にしていることが明らかである。ですから、女性を花に譬える場合、重点を女性の姿に置くではなく、彼女らの風采、品格と気質に置いた。したがって、『紅楼夢』で、ひとつの女性に対応する花は唯一で、そして、花と女性との性格や気質上の共通点を通して、比喩を象徴に昇華された。
要するに、その違いのある原因は日本人の親植物と文学上の主情性と中日花文化の違いである。