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日本にコーヒーを紹介したのは、17世紀初頭までには九州の長崎と交易関係を築いていたポルトガルや、それに続くスペイン、イギリスだとする説がよくありますが、そうではないと思えます。その時代には、ポルトガル本国ですら、コーヒーは良く知られていない物だったからです。

常有说法称咖啡是由葡萄牙、然后是西班牙、英国等传入日本,他们在17世纪初为止和九州长崎有着贸易合作关系,但我总觉得事实并非如此。因为在那个年代,就连葡萄牙本国人都对咖啡不甚了解。

実際の記録は、18世紀末に、オランダ人との間になされた売り買い帳簿に見られるものが、最も古いもののようです。そこには、<鉄製小箱入りの“コヲヒ豆”>という書き入れが見られます。

关于咖啡的真实记录可见于18世纪末日本与荷兰人之间的生意账簿,据说这是最古老的记载。在账簿上我们能看到<铁制小箱装“咖啡豆”>这样一项内容。

日本語の歴史に興味を持つ人ならば馴染みがある古い辞書、オランダ人の手による『長崎ハルマ』の改訂版(1855)は、日本人によって作られましたが、そこにはコーヒーのことが次のように出ています。

对日语历史比较感兴趣的人可能会熟悉下面这本辞典——出自荷兰人之手的《长崎Halma》,其修订版(1855)由日本人编撰而成,其中对于咖啡有如下记载。

koffij  骨喜  哥兮  珈琲  架非

注: 『長崎ハルマ』ドゥーフ・ハルマ(Doeff-Halma Dictionary)は、江戸時代後期に編纂された蘭和辞典。通称『長崎ハルマ』。祖国がフランスの支配下にあったため帰国が叶わず長崎の出島滞在が長期化していたオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフの著とされる。1833年完成。

古い時代には、“コーヒー”という語を漢字で表記するには苦労したようです。以上のような表記の他にも、“枷棑”、“楜棑”などという見慣れない漢字による表記が見られます。

在旧时代,人们为了“koffie”这一词的汉字写法似乎颇费了一番脑筋。除了上面提到的以外,还有用“枷棑”、“楜棑”等颇为陌生的字眼来记载的。

日本にコーヒーが一般的な商品として出現するのは、明治時代になってからです。舞台は横浜に移っていました。1880年代に入ると、時代の先端をゆく西洋文化を取り入れて、社交界の花としての姿を競う人びとの間に、コーヒーが入り込んだのは当然のことでした。そして、特定の家柄や職業身分とは関係がない人びとの憧れも手伝って、コーヒーは世間にも広がりを見せてきます。勿論、その広がりは、従来の日本の文化のひとつである“茶”とは違って、いわゆる知識人と呼ばれるような人びとに支えられたものでした。

咖啡在日本作为普通商品出现是在进入明治时期后。其历史舞台转移到了横滨。进入1880年代,那些把走在时代前沿的西洋文化带入日本的交际花们争相斗艳,而咖啡能获得他们的亲睐也是理所当然的。再加上无关家世、职业地位给人们带来的憧憬,咖啡开始风靡日本。当然,这种流行和一直以来作为日本文化之一的“茶”有所不同,它是靠那些所谓的知识分子支撑起来的。

その頃、東京・下谷の 西黒門町に、立派なコーヒー店を作った人がいました。明治21(1888)年のことで、店の名前は「可否茶館(かひさかん)」です。店主となったのは鄭永慶(てい・えいけい)という人物で、名前から推測すると中国人のように見えますが、『国性爺合戦』で知られている鄭成功の血を引く日本人でした。大変な秀才で、日本語、中国語、英語、フランス語を理解し、17歳でイェール大学に留学した経験を持つ、当時としては異例の経歴を持つ人物でした。しかし、病気で 大学を中退、帰国後は日本式の上流社会の仕組みや、その類の人びとの生活態度とは性分が合いませんでした。振り返って見れば、日本最初のコーヒー店の創始者として歴史に名を残す人物になったのですが、当人から見れば、生活は悲惨なものでした。コーヒー店を開くなどというのは時代が早過ぎました。開店後、わずか一年数ヶ月後には借金もかさみ、二度目の結婚後、妻の死などで家庭は崩壊し、結局は逃げるようにしてアメリカに再度渡りましたが、シアトルで病死しました。なんと、37歳という若さで終えた生涯でした。

当时,有人在东京下谷区西黑门町开了一家高格调的咖啡馆。时间是明治 21(1888)年,名为“可否茶馆”。店主是一个叫做郑永庆的人,从名字来看似乎是中国人,事实上他是因“国性爷合战”而广为人知的郑成功的后裔,是个日本人。他才华横溢,通晓日、中、英、法四国语言,17岁留学于耶鲁大学,这在当时是史无前例的。可惜后来因病退学,回国后又与日本式的上流社会结构及人群秉性不和。虽然如今回过头看,他作为日本第一家咖啡馆的创始人名垂千史,但对其本人来说,生活却有些凄惨。开咖啡馆这种事情对那个年代来说太过超前了。 店在开张后仅一年数月便债务累累,经历了二次婚姻的他因妻子过世而遭遇了家庭破裂,他为逃离一切再度远赴美国,最终却在西雅图因病英年早逝,年仅37岁。

注:『国性爺合戦』(こくせんやかっせん)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃。のちに歌舞伎化された。正徳5年(1715年)、大坂の竹本座で初演。江戸時代初期、中国人を父に、日本人を母に持ち、台湾を拠点に明朝の復興運動を行った鄭成功(国性爺、史実は国姓爺)を題材にとり、これを脚色。結末を含め、史実とは異なる展開となっている。

この「可非茶館」は、日本最初のコーヒー店であると紹介する記事が幾例か見られますが、実際にはそれ以前にも幾つかの店が東京、横浜、神戸に存在していたようです。そこで、「可非茶館」は、日本で最初の“本格的”なコーヒー店とするのが正しいのでしょう。ついでですが、この「可非茶館」のメニューには、フランス、ドイツのワイン、キューバ、フィリピンの葉巻タバコまでが入っていたようですから、その時代感覚の早さには驚きます。その当時のコーヒー店は、“カフェー”と呼ばれたりしていましたが、“カフェー”はアルコールを出す店となったり、雰囲気が違うものとなったりしてきました。それが“喫茶店”という名で呼ばれるようになったのは、明治25(1892)年に入ってからです。

虽然有些报道称这个“可非茶馆(注:此处应为作者笔误,,实为可否茶馆)”为日本第一家咖啡馆,但据说在它之前,东京、横滨、神户就已经有好几家了。因此,我们应该视其为日本第一家“正式”的咖啡馆才对吧。顺便说下,据说这个“茶馆”的菜单中甚至有法国及德国的葡萄酒、古巴及菲律宾的雪茄,让人不觉惊叹其超前的时代感。当时的咖啡馆也被人们叫做“café”,后来这种店逐渐变成了提供酒饮的地方,氛围也变得不同了。而人们开始称咖啡馆为“喫茶店”则是在明治 25(1892)年后。

注:「カフェー」カフェとも記す。日本では客席にホステスをはべらせて洋酒・洋食を供した、今日のキャバレーに類する、昭和初期の飲食店をいう場合が多い。カフェーは本来はコーヒーの意味であるが、転じて17世紀のヨーロッパに広がったコーヒーを飲ませる店(喫茶 店)、やがては食事・酒を出す店をもいうようになった。

コーヒーは、現在の日本では、喫茶店が出すモーニング・サービスには付き物となっています。早朝から夜中まで、コーヒーはいつの時刻に飲んでも違和感はありません。

如今在日本,咖啡成了咖啡馆推出的早餐服务中必不可少的一份子。从清晨到午夜,何时饮咖啡都是一件颇为寻常的事情。

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