東北地方は古代の令制国家では陸奥国(むつのくに)と出羽国(でわのくに)からなる奥羽地方と呼ばれていました。天正18年(1590年)7月~8月に、豊臣秀吉が全国統一のために実施した『奥州仕置(おうしゅうしおき)』により、現在の青森県に該当する地域では津軽為信(つがるためのぶ)が初代・弘前藩(津軽藩)藩主として承認され、南部信直(なんぶのぶなお)が盛岡藩(南部藩)藩主として認められました。津軽氏は元々、南部氏の家臣の家柄で南部氏の傍流であったとも言われますが、津軽氏が南部氏から独立して現青森県の西部(日本海側)を統治するようになったので、南部氏と津軽氏は犬猿の仲としても知られています。

日本东北地区由古代令制国家时期的陆奥国和出羽国构成,所以被称为奥羽地区。天正18年(1590年)7月~8月,丰臣秀吉为统一全国而实施“奥州仕置”,在相当于今青森县的地区承认了津轻为信为初代弘前藩(津轻藩)藩主,南部信直为盛冈藩(南部藩)藩主。有传言说津轻氏原本作为南部氏的家臣名门,是南部氏的旁支。但由于津轻氏独立于南部氏,统治着今青森县西部(日本海)地区,所以南部氏和津轻氏之间的水火不容也是众所周知。

官軍と幕軍が戦った幕末の戊辰戦争では、仙台藩(伊達藩)と盛岡藩(南部藩)、会津藩は江戸幕府の側について旧体制を守ろうとする『奥羽列藩同盟(奥羽越列藩同盟)』を結成しますが、弘前藩(津軽藩)は奥羽列藩同盟を裏切って離反し官軍に味方したことから、津軽藩と南部藩の対立は更に激烈なものとなりました。明治元年(1868年)11月には、『野辺地戦争(のへじせんそう)』が勃発して、南部藩の野辺地という場所で弘前藩と盛岡藩・八戸藩の兵士とが交戦する直接の武力衝突も起こりました。

幕末的戊辰战争中,政府和幕府两军作战。仙台藩(伊达藩)、盛冈藩(南部藩)和会津藩结成“奥羽列藩同盟(奥羽越列藩同盟)”,站在守旧体制的江户幕府一边。而弘前藩(津轻藩)背叛了奥羽列藩同盟,加入政府军,因此津轻藩和南部藩之间形成了更加激烈的对立。明治元年(1868年)11月,“野边地战争”爆发,在南部藩野边地弘前藩与盛冈藩、八户藩的士兵交战,发生直接武力冲突。

津軽藩最後の主君である第12代藩主の津軽承昭(つがるつぐあきら,1840~1916)は新政府軍に合流して『箱館戦争』で功績を挙げ、戦後に新政府から1万石加増されましたが、明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事に任命され、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官されることになります。戊辰戦争の後、盛岡藩は大幅に石高を減封される敗戦処分を受け、盛岡藩の跡地には『斗南藩(となみはん)』が設置されて、元会津藩・松平家が3万石で転封されました。

南部藩最后的主君·第12代藩主津轻承昭(1840~1916)与政府军合流,因“箱馆战争”获得军功,从而战后新政府给他增加了1万石的俸禄。明治2年(1869年)由于版籍奉还政策,他被任命为知藩事,但明治4年(1871年)因废藩置县政策而被免官。戊辰战争之后,盛冈藩受到战败处分,被大幅削减俸禄。接着在盛冈藩旧址设置“斗南藩”,转封元会津藩·松平家为3万石领主。

しかし、奥羽越列藩同盟の主要勢力(朝敵)として戊辰戦争に敗れた南部利剛(なんぶとしひさ,1828~1896)は、明治新政府から隠居と領地没収の処分を下されることになり、新政府軍に味方した津軽藩・秋田藩とは明暗がくっきりと分かれてしまいました。最終的には、長男の南部利恭(としやす)に陸奥国白石13万石の減転封(盛岡藩20万石からの減法)が認められましたが、戊辰戦争で幕軍について改易厳罰処分を受けたのは、奥羽列藩同盟の会津藩・盛岡藩だけです。1870年(明治3年)7月10日に、盛岡藩(南部藩)は自ら財政難を理由に廃藩置県に先立って廃藩を申請して、旧領は『盛岡県』と改名されることになりました。盛岡県は廃藩置県によって、1872年(明治5年)1月8日に『岩手県』へと現在の県名に改称されています。

然而,奥羽越列藩同盟的主要势力(叛党)南部利刚(1828~1896)在戊辰战争中被打败,明治新政府处分他隐居并没收其领地,这与支持新政府军的津轻藩、秋田藩相比,走向了截然相反的黑暗道路。最终,长男·南部利恭被减少俸禄,转封为陆奥国白石13万石领主(原本盛冈藩为20万石)。但在戊辰战争中,幕府军里受到严惩被贬为平民的只有奥羽列藩同盟的会津藩和盛冈藩而已。1870年(明治3年)7月10日,盛冈藩(南部藩)以自身财政困难为由,在废藩置县中率先申请废藩,旧领改名为“盛冈县”。由于废藩置县政策,盛冈县于1872年(明治5年)1月8日又改名为现在的“岩手县”。

明治維新の廃藩置県(明治4年,1871年)によって、弘前県(弘前藩)、黒石県(黒石藩)、斗南県(斗南藩)、七戸県(七戸藩)、八戸県(八戸藩)、北海道渡島半島の館県が生まれましたが、同9月4日にはこれらの6県が合併して『弘前県(県庁所在地・弘前)』が成立します。

由于明治维新的废藩置县政策(明治4年,1871年),产生了弘前县(弘前藩)、黑石县(黑石藩)、斗南县(斗南藩)、七户县(七户藩)、八户县(八户藩)、北海道渡岛半岛的馆县。同年9月4日这6县被合并为“弘前县(县厅所在地·弘前)”。

青森県は当初は弘前県という名称であり、歴史的にも経済的にも青森よりも弘前のほうが藩主の権威との関わりが深く経済的にも賑わっていたのですが、箱館戦争で活躍した九州地方の熊本藩出身の野田豁通(のだひろみち)が物資の輸送で利用した小さな漁港の青森に愛着を持ったことや津軽氏・南部氏の確執を和らげたいという思惑も影響して、『青森県』という県名が採用されるに至ったと言われます。青森は弘前と比べると、より旧南部藩の所領に近い漁港の町でしたが、その地名は単純にそこに『青い森』が広がっていたからという事のようです。

青森县最初的名字即弘前县。无论是历史还是经济,比起青森,弘前这个名字与藩主的权威渊源更深,也更能创造经济价值。但是,据说因为活跃于箱馆战争的野田豁通(出身于九州地区的熊本藩,青森县首任大参事)受益于小渔港青森输送物资,从而一直喜爱此地,以及为了缓和津轻氏与南部氏之间的不和这一想法的影响,决定采用“青森县”这个名字。青森与弘前相比,比旧南部藩的领地更靠近渔港,但光看地名会让人单纯地以为那里有一片广阔的“青翠森林”。

明治5年(1872年)9月5日に、野田豁通(のだひろみち)が初代県大参事に任命されて、9月23日に県庁を弘前から青森に移転することを決め、県名もそれに合わせて『青森県』へと改称されました。初代の県権令(県知事)には菱田重禧が任命されています。しかし、青森県や青森という地名には、東北地方の歴史的・文化的な由来が含まれておらず、本来ならば戊辰戦争で官軍に協力した津軽氏の所領の弘前から『弘前県』としたほうが自然だったのですが、新しい青森県の範囲では弘前の位置が北に偏りすぎていること、青森の漁港としての将来性があること、旧幕藩体制の因習・遺恨を引きずらないことなどに注目して『青森県』という県名が採用されました。明治維新の廃藩置県では『旧弊の慣習・封建的権力を廃すること』が重視されたということも関係しています。

明治5年(1872年)9月5日、野田豁通被任命为首任县大参事,9月23日将县厅(县政府)从弘前转到青森,县名也由此正式改为“青森县”。首任县权令(县知事)由菱田重禧担任。然而,青森县和青森这个地名并不包含任何东北地区的历史文化由来,若是使用在戊辰战争中帮助政府军的津轻氏的领地弘前则更自然。但新的青森县范围较之弘前更为偏北,加上青森作为渔港的未来性,以及为了不引起旧幕藩体制的陋习遗恨等原因受到世人注意,从而采用“青森县”一名。这也与明治维新的废藩置县政策中,重视“废除封建陋习及权力”的条文有关。

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