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書くこと自体が生死を賭けた戦いだった…この国にはそんな歴史がある。それも明治や江戸時代の話ではなく、昭和のことだ。

写作本身即为一场堵上生死的战斗……这个国家曾有如此历史。这不是明治或是江户时代的旧闻,而是昭和的故事。

特別高等警察、略して特高。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』にも登場するこの組織は、体制に反対する労働組合員や反戦平和活動家など、政府に逆らう思想犯を徹底的に取り締まる目的で明治末期に設立され、その後敗戦まで強権をふるった。

特别高等警察,简称“特高”。手冢治虫的《告阿道尔夫》中也有该组织的登场,其设于明治末期,目的是彻底铲除反体制的工会成员和反战和平运动家等不服政府的思想犯,此后它横行一时,直至日本战败。

特别高等警察(とくべつこうとうけいさつ):设于1911年的“大逆事件”后,最早是警视厅的“特别高等课”,1928年开始在全国设立,主要用于压制反政府思想,控制言论自由。

特高は国家反逆罪や天皇への不敬罪を武器に、密告とスパイを活用して“非国民”を手当たり次第に検挙し、残忍な拷問で仲間の名前を自白させてはさらにイモヅル式に逮捕していった。

特高以叛国罪或对天皇不敬罪为武器,利用告密和特务,任意逮捕“非国民”,通过残酷的拷问,逼迫被捕者坦白出同伴的名字,再对其进行一连串的搜捕。

小林多喜二は1903年に東北の貧農の家に生まれた。親に楽をさせる為に苦学して小樽で銀行員になり、21歳で仕送りの出来る安定した生活を営めるようになる。小市民的な幸せな未来が目の前に約束されていた。音楽が好きな弟には、初月給の半分を使ってバイオリンを買ってあげた。

1903年,小林多喜二生于东北的贫农之家。为了减轻父母负担,他勤奋苦学,在小樽成为一家银行的职员,21岁时已开始过上安定生活,学费不但自足还能汇钱给家里。小市民的幸福未来触手可及。弟弟喜爱音乐,多喜二还用自己第一个月的工资为他买了一台小提琴。

ところが、軍国化を進める政府によって、1928年3月15日未明に全国で数千人の反戦主義者を逮捕する大弾圧事件が起きた。多喜二の周辺でも友人たちが続々と連行されていった。彼は日記に記す。「雪に埋もれた人口15万に満たない北の国から、500人以上も“引っこ抜かれて”いった。これは、ただ事ではない。」

然而,1928年3月15日黎明发生一起严重的镇压事件,全国数千名反战人士遭到军国化政府的逮捕。多喜二的身边不断有友人被警察带走。他在日记中写道:“从这白雪覆盖、人口不足15万的北方土地,竟有超过500人“被抽挖一空”。这绝非寻常事。”

3・15事件:因第一次普选中,8名无产阶级政党的党员当选为众议院议员,田中义一内阁于1928年3月15日以《治安维持法》为由,对共产党实行压制。

貧農出身の彼はもともと権力抑圧者への反抗心を持っていたので、この3・15事件は多大な影響を与えた。保釈された友人たちから過酷な拷問の話を聞くに及んで、元来読書好きの彼は事件を小説にし世間に国家の横暴を訴える決心をした。彼はまた、権力と戦う人物を欠点や弱さも兼ね備えた人間としてリアルに描き、安易に英雄像を作らなかった。

出身贫农的小林原本就对权力与压迫者怀有反抗心,这次3・15事件深深震动了他。听到被保释出的友人们讲述受残酷拷问的经历后,本来爱好读书的小林决意将事件写成小说,向社会控诉国家的横暴。他并不轻易地制造英雄的形象,而是将与权力斗争的人物作为兼具缺陷和软弱的人类,对其作写实的描写。

「私は勤めていたので、ものを書くといってもそんなに時間はなかった。いつでも紙片と鉛筆を持ち歩き、朝仕事の始まる前とか、仕事が終わって皆が支配人の所で追従笑いをしている時とか、また友達と待ち合わせている時間などを使って、五行、十行と書いていった…私はこの作品を書くために2時間と続けて机に座ったことがなかったように思う。後半になると、一字一句を書くのにウン、ウン声を出し、力を入れた。そこは警察内の(拷問の)場面だった。」(自伝)

“因为我还在上班,虽说写作,却腾不出那么多时间。行走时,我总是拿着纸片和铅笔,早上工作开始前、或是工作告一段落,大伙儿在经理办公室逢迎献媚时,以及等待友人时,我利用这些时间写作,五行、十行……为写一个作品持续两小时坐在桌前的生活,我想我是从未有过的。到了后期,我写下每一字一句时,都会用尽全力,发出‘嗯、嗯”的声音。笔下描写的,是警察室内的(拷问)场景。”(摘自《自传》)

完成した作品『1928年3月15日』は、特高警察の残虐性を初めて徹底的に暴露した小説として世間の注目を浴びたが、これによって彼は特高から恨みをかうことになり、後の悲劇を呼ぶことになる。

完成的作品《1928年3月15日》作为首次彻底披露特高警察残虐性的小说,赢得世人的瞩目,然而他也因此引来了特高的怨恨,导致了后来的悲剧。

翌年、26歳の彼はオホーツク海で家畜の様にこき使われる労働者の実態を告発した『蟹工船』を発表する。蟹工船は過酷な労働環境に憤ってストライキを決行した人々が、虐げられた自分たちを解放しに来てくれたと思った帝国海軍により逆に連行されるという筋で、この作品で彼は大財閥と帝国軍隊の癒着を強烈に告発した。登場人物に名前がなく、群集そのものを主人公にした抵抗の物語は、ひろく一般の文壇からも認められ、読売の紙上では“1929年度上半期の最大傑作”として多くの文芸家から推された。

翌年,26岁的小林发表《蟹工船》,小说披露在鄂霍次克海的劳动者遭受非人待遇的真实情况。《蟹工船》讲述因对严酷的劳动环境忍无可忍而奋起罢工的人们,原以为帝国海军是为解救备受摧残的自己而来,却反被他们抓走。小林在作品中强烈揭露大财阀与帝国军队的勾结。登场人物皆无名姓,这部将整个群体作为主人公的抵抗故事,在一般文坛也获得了广泛认同,受到多位评论家的推荐,《读卖新闻》称其为“1929上半年最大的杰作”。

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しかし天皇を頂点とする帝国軍隊を批判したことが不敬罪に問われ、『蟹工船』は『3月15日』と共に発禁処分を受けてしまった。また、銀行からは解雇通知を受け取ることになる。多喜二は腹をくくった。ペンで徹底抗戦するために名前を変え、身分を隠して各地を“転戦”する人生を選択した。

然而,因批判以天皇为顶点的帝国军队,他被判不敬罪,《蟹工船》和《3月15日》一同受到禁止发行的处分。同时,小林还接到了来自银行的解雇通知。至此他横下了心。为拿笔奋战到底,多喜二选择了隐姓埋名,“转战”各地的人生。

そして運命の1933年2月20日。非合法組織の同志と会うために都内の路上にいた所を、スパイの通報によって逮捕される。この時、逃げようと走り出した多喜二に向かって、特高は「泥棒!」と叫び、周囲の人間が正義感から彼を取り押さえたという。同日夕方、転向(思想を変えること)をあくまでも拒否した彼は、特高警察の拷問によって虐殺された。…まだ29歳の若さだった。

于是,命终的日子1933年2月20日到了。为与非合法组织的同志碰头,他站在都内道路上,就在此时有特务通风报信,见警察赶来逮捕,小林意欲脱逃,特高朝他叫喊道:“小偷!”,周围人受正义感驱使,当即摁住了他。当天傍晚,至始至终拒绝“转向(改变思想)”的小林多喜二惨死在特高警察的拷问下。……年仅29岁。

彼の亡骸を見た者が克明に記録を残している。「ものすごいほどに青ざめた顔は激しい苦痛の跡を印し、知っている小林の表情ではない。左のコメカミには打撲傷を中心に5、6ヶ所も傷痕があり、首には一まき、ぐるりと細引の痕がある。余程の力で絞められたらしく、くっきり深い溝になっている。だが、こんなものは、体の他の部分に較べると大したことではなかった。

亲见他的亡骸的人留下详细记载:“这不是我所熟知的小林的表情,展现这张惨白面孔上的,是极端痛苦的痕迹。左边太阳穴的一个撞伤周围有5、6处伤痕,脖颈上有一圈用细麻绳用力勒过的痕迹。看起来用了很大力量,分明地形成一道很深的沟痕。然而,这些伤痕与身体其它部分相比还算轻微了。

下腹部から左右のヒザへかけて、前も後ろも何処もかしこも、何ともいえないほどの陰惨な色で一面に覆われている。余程多量な内出血があると見えて、股の皮膚がばっちり割れそうにふくらみ上がっている。赤黒く膨れ上がった股の上には左右とも、釘を打ち込んだらしい穴の跡が15、6もあって、そこだけは皮膚が破れて、下から肉がじかに顔を出している。

从下腹至左右膝盖,前前后后到处都呈现出一层难以言状的阴惨之色。能看出有大量的内出血,大腿的皮肤朝上隆起,似乎完全被切开。暗红色的、浮肿的大腿上,左右都有敲进铁钉后的穴口痕迹,竟达15、16处之多,这里的皮肤已经溃烂,其下的肌肉直接暴露在外面。

歯もぐらぐらになって僅かについていた。体を俯向けにすると、背中も全面的な皮下出血だ。殴る蹴るの傷の跡と皮下出血とで眼もあてられない。しかし…最も陰惨な感じで私の眼をしめつけたのは、右の人さし指の骨折だった。人さし指を反対の方向へ曲げると、らくに手の甲の上へつくのであった。作家の彼が、指が逆になるまで折られたのだ!この拷問が、いかに残虐の限りをつくしたものであるかが想像された。『ここまでやられては、むろん、腸も破れているでしょうし、腹の中は出血でいっぱいでしょう』と医者がいった。」

所剩无几的牙齿摇摇晃晃。将身体翻转过来,会看到背上也有大面积的皮下出血。如此殴打踢伤的痕迹和皮下出血实让人不忍目睹。然而......最让我感到毛骨悚然并深受冲击的,是他右手食指的骨折。把食指朝反方向弯曲,就能轻易将其扳至手掌上方。身为作家的他,手指竟被反方向地弯折。足以想象这场拷问是如何残虐之至。医生说:‘摧残到这种程度,无疑肠已经破裂了,腹中恐怕全是积血吧’。”

警察が発表した死因は心臓麻痺。母親は多喜二の身体に抱きすがった。「嗚呼、痛ましい…よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しにできたもんだ」。そして傷痕を撫でさすりながら「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣いた。やがて涙は慟哭となった。「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」。

警察公布的死因为心脏麻痹。母亲紧紧搂住多喜二的身体哭喊:“啊、真痛心...竟将我最珍爱的儿子如此残杀。”接着抚摸着伤痕哭泣道,“哪里感到疼痛?哪里感到疼痛?”最终大声恸哭。“起来,你还能再度站起来吗?为了大伙儿,还能再度站起来吗!”

特高の多喜二への憎しみは凄まじく、彼の葬式に参列した者を式場で逮捕する徹底ぶりだった。彼の死に対して文壇では志賀直哉だけが“自分は一度小林に会って好印象を持っていた、暗澹(たん)たる気持なり”と書き記した。この国の文学界は沈黙を守ったのだ。どの作家も、自分に火の粉が降りかかることを恐れたためだ。

特高对多喜二的憎恨是惊人的,他们一个不漏地当场逮捕了参加他葬礼的人。对于他的死,文坛中仅有志贺直哉写道:“我曾与小林有过一面之缘,对他印象不错,现在我的心境是暗淡无光的。”因为这个国家的文学界固守沉默。任何一个作家都畏惧牵累自己。

※多喜二の訃報を聞いた中国の作家・魯迅は次の弔電を寄せた--「我々は知っている、我々は忘れない、我々は固く同志小林の血路に沿って前進し、握手するのだ」。

※後年、多喜二の弟が兄の思い出を語っている--「地下活動していた兄を訪ねたときに、2人でベートーヴェンを聴きました。バイオリン協奏曲です。その第一楽章のクライマックスで泣いていた兄の姿が忘れられません」

※听闻多喜二讣报的中国作家鲁迅寄来这样一份吊辞,“我们是知道的,我们也不会忘记。我们会坚强地沿着小林同志的血路携手前进。”

※多年后,多喜二的弟弟回忆起兄长说:“探望正在进行地下活动的兄长时,两人一起倾听了贝多芬的乐曲。是一段小提琴协奏曲。听到第一乐章高潮部分的兄长泣不成声,他那时的形象让我难以忘怀。”

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