江戸幕府|江户幕府

江戸に幕府を開き、江戸時代が始まった。1615年(元和元年)に大阪城の豊臣氏を攻め滅ぼし(これを「大阪夏の陣」という)、徳川家康は全国を統一した。その後、徳川氏が代々、将軍地位を受け継いだ。そのため、江戸時代を徳川時代ともいう。

江户幕府的开启即是江户时代的开端。公元1615年(元和元年)德川家康于大阪城打败丰臣家族(史称“大阪夏之阵”)后统一日本全国,随后德川氏代代沿袭将军之位,由此江户时代又称德川时代。

江戸幕府は幕藩体制によって支えられていた。幕藩体制とは、「幕(将軍)と藩(大名)」が強力な領主権を有して土地と農民統治し、米の年貢を徴収する政治体制、つまり封建社会のことである。江戸幕府は武士による支配体制を強固にするため、人々の身分を、上位から武士、農民、職工·職人、商人に分け、「士農工商」という厳しい階級による身分制度を設けた。さらに、農民や町人の不満をそらす狙いなどから、その下に「えた·非人」という、さらに低い身分を作った。こうして、少数の武士が多数の民衆を支配した。

江户幕府设立幕藩体制统治全国,幕藩体制下幕府(即将军)与藩国(即大名)对土地和农民拥有强大的统治权,政治体制上每年征收粮食税,总之就是封建社会体制。江户幕府为巩固武士为首的统治制度,按“士农工商”的身份制度严格划分等级制度,从上至下为武士、农民、工人和商人。为转移农民和市民对幕府的不满,又在商人之下添加“贱民·非人”的身份等级,从此少数的武士统治着大多数的民众。

百姓一揆と「天明の飢饉」|农民起义与天明年代的饥荒

この時代に百姓一揆や打ち壊しなどが多発した。百姓一揆は、年貢や諸役などの重い負担に苦しむ農民が飢饉凶作をきっかけに領主に対して抵抗を示す直接行動を言う。江戸時代の百姓一揆は3千件以上に上った。打ち壊しは市中の米問屋などが襲われて、倉庫などが壊されること。1782年(天明2年)の「天明の飢饉」や、1832年~1833年(天保3~4年)の「天保の飢饉」では、多数の餓死者を出す大飢饉となり、1787年(天明7年)には江戸、大阪など全国30あまりの主要都市で数多くの百姓一揆が起こり、大規模な打ち壊し(「天明の打ち壊し」)が続いた。

这一时代也是农民起义暴动频发的年代,面对沉重的苛捐杂役和自然灾害引起的饥荒歉收,农民起义直接反映了当时农民对统治阶级的反抗。江户时代的农民起义多达3千件以上,起义军袭击市内的米面批发店,破环仓库等。公元1782年(天明2年)的“天明饥荒”和1832年至1833年(天保3~4年)的“天保饥荒”使得饿殍遍野,公元1787年(天明7年)江户、大阪等全国30多个主要城市都爆发了农民起义和持续大规模的破环行动(史称“天明起义”)。

海外貿易と鎖国政策|海外贸易与闭关锁国

日本から東南アジアへの貿易が盛んになると、徳川家康は海外渡航する船に朱印状という許可証を与えるようになった。家康は貿易拡大のためキリスト教徒を一時的に黙認していたが、約70万人にも達したといわれるキリシタンの勢力増大を恐れて、1612年(慶応17年)にキリスト教を禁止する禁教令を出し、宣教師を追放したり、キリシタンを処刑したりした。1639年江戸幕府は鎖国令を出し、以後200年あまりにわたり、日本はキリスト教の布教に関係なかったオランダ、中国、朝鮮以外の国々との交渉を閉ざした。

当时日本与东南亚国家之间的贸易如日中天,德川家康也乘此机会颁布了盖有红色印章的许可证供海外船只进行远洋贸易。为进一步扩大贸易家康暂时默许了西方来的基督教,据说由于害怕已扩展到约达70万人的天主教徒势力进一步扩大,家康于1612年(庆应17年)颁布禁教令禁止基督教的传播、流放传教士、处死天主教徒等。1639年江户幕府又颁发了闭关锁国令,在此后的长达200多年间,除与不信仰基督教的荷兰、中国以及朝鲜有联系外,日本完全处于对外隔绝的状态。

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